初春──⑥

 夕闇に染まる礼拝堂の壁にランプの灯がともる。暖かな橙色の光が木造の聖堂を柔らかく照らした。

 整然と並んだ年代物の長椅子からはヒノキ特有の甘い香りが漂っている。漆喰製の古びた壁には細かなヒビが走っているものの、あと数十年は修繕の必要がなさそうだ。室内は薄手のシスター服でも快適なほどに暖かい。春はまだ始まったばかりである。

 エコは聖堂の正面に位置する教壇に立ち、じっと背筋を伸ばして立っている。

 時刻は午後六時。各家庭では夕飯の支度が始められているころだろう。そしてすでに、ミサ開始の時刻から一時間ほどが経過していた。

 寡黙に立ち尽くしていたエコは、やがて疲労をにじませた吐息をもらした。

 エコは教会のシスターとして神に使えることを生業としている。信仰しているのは人間社会でもっともポピュラーな宗教のひとつである。彼女の暮らす教会はかつてマリアヴェルで暮らしていた人間たちが街のシンボルとして建設したものだ。

 ゆえに、教会の活動も人間たちのそれを模しておこなっている。こうして夕方に貴重な燃料を使用してまで礼拝堂の光量を落とさずにいるのも、ミサに参列してくれる信者たちの訪れを待っているからにほかならない。

 が。

 住民たちがまったくミサに集まらないのだ。

 日曜日の午前中、あるいは夕方に開かれるミサには、ここ数ヶ月ほどだれも参列してくれていない。無論、住民からのお布施もまるで集まらず、マリアヴェル市からの助成金すらカットされた今日では、農業という二足のわらじを履かなければその日の食事さえままならない有様である。

 マリアヴェルの住民たちにとっては飯の種にもならない集会よりも、自分の仕事に精を出して日銭をかせぐことのほうが大事なのだろう。

 仕方のないことだとエコは思う。神への信仰を強制することなどできはしないし、なにより彼らは怠けているわけではないのだから。ミサにだれも姿を見せないのは、やむないことなのだ。

 壇上から降りほうきを手にするエコ。恒例どおり今夜のミサは中止となるだろう。だからといって無為に過ごすわけにはいかず、エコは教会を少しでも綺麗に保つためにホコリや蜘蛛の巣の始末を始めた。

 人の出入りの少ない建物は定期的に手入れをしないとすぐに痛んでしまう。エコが礼拝堂のステンドグラスの縁に沿って雑巾がけすると、小虫の死骸や蜘蛛の卵のかけらなどが布地に付着していく。その後は礼拝堂の床の木目に沿ってほうきで掃き、ほこりをすべて外へ追い出すのだ。

 ふいに天井がにぎやかになった。

 頭上を仰ぎ見ると、エコの警護を担当していたホエホエミツバチたちが開いた窓から外へと麦笛に似た音を立てて飛んでいくところだった。直後、ヒグマバチが入れ替わりに礼拝堂の天井を陣取る。

 花粉集めや蜜の精製を主な仕事としたホエホエミツバチは黄色い羽を基調として体長も重量も小さく、争いを好まない性格をしている。滅多なことで人を刺さないものの女王の危機に際しては一斉に獲物へ襲い掛かるという恐ろしい面を持つ勇敢な兵士だ。対しヒグマバチは黒くてずんぐりむっくりした体つきに大きなアゴを持ち、やや好戦的である。暴れ者として悪名高いヒグマバチであるが、エコ・ランチェスターの前では借りてきた猫のように大人しくなる。

 ハチたちにとって主人であり女王でもあるエコは常に彼らから守護されている。外出するときにも、睡眠をとるときにも、つかず離れずハチやムカデ、アブといった虫たちのいずれかが守ってくれているのだ。

「ご苦労さま。今日はだれもひとがいないし、のんびりしていて大丈夫よ」

 床をごしごしと雑巾がけしつつエコは天井へ向けて声をかけた。女王の命令は絶対である。ヒグマバチは天井に張り付いたまま羽を休めて一息ついたようだ。

 礼拝堂をふたたび静寂が支配する。ひとり黙々と働くシスターを、教壇の背後に立つ聖母の像が見下ろしていた。

 ひとわたり掃除が終わったころには午後七時になっていた。この時間ではもはや礼拝に訪れる信者もいないだろう。エコは肩を落として長椅子に座った。長椅子の背もたれには聖書を置いておくためのスペースがある。彼女は手垢のついていないその分厚い本を手に取り、適当なページをめくってみた。

 半分ほどしか内容を理解できなかった。

 情けないことだがドライアドであるエコ・ランチェスターは読み書きが不得手である。人間の書物──ことに聖書のように文字だらけのもの──は読み解くのに時間がかかってしまう。

 この新約聖書なるものを自分なりに訳述し始めてからそれなりの月日が経過しているにもかかわらず、いまだに内容を覚えることすら出来かねている。これは由々しきことだった。神の使いたるシスターが聖書のすべてを把握していないとは。神父であったエコの父親は打てば響く鐘のごとく、すぐに神の言葉を代弁してくれたというのに。

 迷える子羊たる信者がホーリースター教会を訪れてエコに救いを求めてきたとしたら、自分にはいったいなにができるだろう──そう想像しただけで、エコの胸に拭い去れない無力感が溢れてくるのだった。

 沈黙という安らぎに祝福されたこの場所で、十八歳のシスターはだれにともなくつぶやいた。

「父さん。わたし、父さんみたいになれるのかな……」

 聖書を長いすに戻したとき、礼拝堂の扉をやや乱暴に叩く気配があった。

 唐突な来客に小さく息をのみ、緑髪のシスターは礼拝堂の入り口へと目を向けた。天井からヒグマバチたちが硬質な羽を擦り合わせて警戒音を発し始めた。そのうち数匹がエコの肩に止まりそのまま待機する。

 こんな時刻にだれだろう。すでにミサの時間は終わっているのだけれど、もし信者のかたが顔を出してくださったのならこの上なく嬉しい。しかし、いまのけたたましいノックはいったい……。

 肩のうえの家来たちを一瞥してから、彼女は入り口へ向けて声を発した。

「どちらさまでしょうか」

 返答はない。

 エコはそっと椅子から腰をあげて入り口へと歩み寄り、そっと扉を開いた。ひやりとした夜の気配がドアの隙間から礼拝堂に忍び込んできた。ケダモノシティにも春が訪れたとはいえやはり屋外はまだ冷え込むらしい。藍色に染まった空にはたくさんの星々が瞬き、遥かな山の稜線から顔を出したばかりの月がふんわりと世界を照らしていた。

 エコは玄関口に設置されているランプを手にとると教会の庭へ光を向けた。色とりどりの草花が咲き乱れる花壇や緑色の生垣が夜の世界にほんのりと浮かび上がる。動くものの気配はない。

「どちらさまでしょうか」

 もう一度エコが問うたものの、やはり沈黙が帰ってくるばかりだった。

 いったいだれだったのだろうとエコは思う。午後七時を回ってからの教会への来客などめったにない。もしかして今日裏の畑を荒らした泥棒だろうか。それにしてはノックをしたのが不可解だった。泥棒であれば自分の存在を悟られないように行動するはずなのだが。

 エコの肩にはいつのまにか十匹以上のヒグマバチが止まり、羽をすり合わせていた。赤子の親指ほどもある羽虫が警戒音をかき鳴らしている姿は傍目から見ると威圧的に違いない。姿の見えない客に威圧感を与えないために彼らへ室内に戻るよう命じようとしたところで、エコは鼻の奥をくすぐる鉄じみた香りに気がついた。春の花々の芳香に混じる、ケダモノの食欲をさそう嗅ぎ慣れた磯の香り。

 臭いの発生源は、ドアの裏側、だった。

 エコがノブを握るその扉の裏側にべったりと真っ赤な液体が付着していた。見まごうことなき血糊。飾りのない金属の扉の表面を伝い、緋色のしずくがゆっくりと滴り落ちている。

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