初春──⑤
ホーリースター教会への帰路をたどるエコ・ランチェスターの足取りは重かった。
すでに時刻は午後二時を越し、太陽が中天を過ぎている。市長が去ったあとの市場はふたたび活気を取り戻したものの、エコをみる人々の視線は苛烈なものだった。エコの従者たちが市長に牙を剥こうとした件が中央市場を緊迫させたことを無言で責めたのである。
針のむしろとなりながら、エコはそっとため息をついた。
市民たるもの、市長に牙をむくことは許されない。それはマリアヴェルにおける絶対のルールのだった。
市長は街の住人を外敵──主に人間──から守る義務を有する。万一、人間たちがケダモノシティへ向けて侵攻してきた場合には、市長自らが率先して人間たちと対峙しなければならない。
知能でこそ劣るものの、ケダモノは肉体的において人間と引けを取らない戦闘力を備えている。丸腰のヒト単体相手に苦戦することはありえない。
が、人類が集団で武装して侵攻してきた場合は話がまったく異なる。
戦闘機。戦車。火炎放射器。機関銃……そのような大仰なものを持ち出さなくても、拳銃ひとつあればケダモノたちなど蹂躙されてしまうだろう。空を飛ぶ鳥人も地を駆ける狼男も、鉛の銃弾の前にはひとたまりもない。
だからこそ、現在のケダモノシティでは人間たちが残した遺産ともいうべき文明の利器を忌避し、自然のままの生活を営むことをよしとしているのだった。かつて人間たちがマリアヴェルで暮らしていたころに築き上げた噴水や街灯といった動力の必要な建造物は深い眠りにつき、乗り捨てられた古い自動車は広いレンガ道の脇で小鳥の宿り木と化している。古い家々こそいまだにケダモノたちの住処として使用されているものの、割れた窓ガラスや剥がれた屋根瓦を元通りに修繕できるほどの技量を持ったものなど、すでにこの街には存在しない。マリアヴェルのすべての人工物は、ただ朽ちていくのみだ。
苔でコーティングされた太い電柱を何本も過ぎ、丁寧に草刈のされた公園をややも歩くと、やがて春の森緑に覆われたホーリースター教会が見えてきた。
エコは暗澹とした面持ちで教会の玄関を素通りし、陽のあたる表庭を横切っていった。教会の半分を飲み込む尋常でなく巨大な樹木を回り込んでいくと、陽の陰った裏庭へと行き当たる。
教会のちょうど真後ろに当たる裏庭──その地面に、深い洞穴が掘られていた。
腐れ穴である
教会の裏手には腐れ穴と呼ばれる二メートル四方程度の穴が空いている。マリアヴェルで落命したケダモノたちの遺体のほとんどはこの穴へ放り込まれる運びとなっていた。
腐れ穴を覗いてみる。
胸に穴の空いた、断末魔の表情を浮かべた鳥人の死体がそこにあった。彼は瞳を閉じられてさえおらず、濁った瞳で虚空を見据えたまま死相を浮かべて腐れ穴の底に転がっていた。おそらく市長に切り刻まれたのだろう。身体のいたるところに爪でやられたと思しき生傷が残っている。
彼の死骸には、気に早い蛆虫たちが数匹ひっついていた。まだ腐敗してすらいない亡骸を喰む蛆虫たちが、一斉にエコを見上げた。主人の帰りを待ちわびていた忠犬のように首をくねらせる白い蟲たちへと、エコは儚い笑顔を浮かべてみせる。
この鳥人が何者なのか──彼の名前すら、エコは知らない。それでも彼女はこの死せるもののために祈りを捧げる。それが彼女の務めであり、マナーなのだから。
「あなたの身体は私の血となり、肉となり、骨となり、葉となり、幹となり、枝となり、花となり、実となります。私とともに、あなたの魂があらんことを」
すでに亡き彼にことわりをいれてから、エコは地中で眠っていたすべての蛆虫たちを念波で起こして死体を分解するように命じた。白い芋虫やツクモダニが鳥人の死体に無数の細かな穴を開け、潜り込んでいく。腐敗を促進させるため遺体を内部から食い荒らしているのだ。口内や鼻奥の粘膜から体内へと潜り込み、柔らかな肉を食んでいく。
死後数時間も経っていないはずの鳥人の遺体は、まもなくどす黒い穴あきチーズと化した。鼻がもげるような臭いを発する腐乱死体へと変質した鳥人の身体からぼろぼろと腐肉が削げ落ちていき、最後には骨と羽のみが残った。蟲たちも新鮮なエサにありつけてご満悦らしく、うねうねと白い芋虫状の身体をくねらせている。
そろそろ食べごろだろう。
エコは蟲たちに穴から退避するよう命じると彼らはそそくさと地中に、あるいはぴょんと跳ねて穴の外へと退避した。
教会を覆うようにして生えている巨木が妖しく蠢いたのはそのときだった。
「いただきます」
天に捧げるシスターの言葉を受けて、巨木の根が動き出す。エコの腕よりも太い幾本もの根っこが鳥人の遺体に絡みついた。タコの触手ごとくに死体に巻き付いた太い根が亡骸をぎゅうと締め上げる。分解され柔らかくなっていた腐肉が根の細毛に吸収されていく。養分を奪われた死体はボロボロに崩れ、土と同化していった。
「ふう……」
と、エコの血色がみるみる良くなっていた。空腹感が拭われ、代わりに身体の隅々が甘くまったりとした味覚で満たされていく。全身が舌となってクリームの海を泳いでいるような甘美な感覚。体中に力が湧いてくるのを実感した。
ホーリースター教会を覆う巨木と樹木の精霊であるエコとは一心同体であり、ひとつの生命を共有している。
大木から死体の栄養を配布してもらうこともあるし、エコ自身が口にした食物を、見えない綱を通して大木へと分け与えるときもある。
エコが死ぬとき樹木も死に、樹木が枯れるときエコも命を落とす。ドライアドの宿命であった。
そして、腐れ穴には鳥人の骨ばかりが残された。こればかりは容易に分解できないため、庭先の墓地へと埋葬する運びとなる。
エコは嫌な顔ひとつせずにすべての骨をすくい上げると、腐れ穴のそばに常備されている台車へと乗せた。台車を転がしたままでこぼこの庭を手馴れた仕草で進んでいくと、やがて裏庭の隅にたくさんの墓標が見えてくる。マリアヴェルの共同墓地はホーリースター教会の裏手にあるのだ。時折、名も無き死者たちの冥福を祈る酔狂なケダモノもいるものの、いまは人影が見当たらないようだった。
エコは共同墓地の東端にある、馬の背丈ほどもある巨大な岩の前で足を止めた。岩の表面にはただ一言〝アーメン〟とだけ書かれている。街の死者すべてへ送る追悼の言葉。
「………………」
エコが無言で念ずると、教会の樹木が蠢いてその巨大な枝をおもむろに下ろしてきた。墓地を覆い尽くす自然の屋根と化した梢が岩へと覆いかぶさり、重々しい音をたてて岩が持ち上げられていった。
岩の下には深く掘られた墓穴が隠されていた。むき出しの土を掘り抜いただけの簡素な穴。すべての骨はこの死者の寝床へと一緒くたに落とされる。名のあるものも無名のものも差別されることなく、教会のそばで眠るのだ。
台車の骨が底なしのような墓穴へと放り込まれていく。ややして深淵の暗闇から硬いもののぶつかる音が反響した。名も無き戦士は葬式すらあげられることなく、粛々と埋葬された。
梢が墓石を元の位置へと戻して供養は完了。重労働にもかかわらず賃金なし。だがこれがエコの務めなのだ。
ふと見ると、オレンジ色の夕焼けが街を焼き、血のように赤い太陽が西の丘へと沈むところだった。
そろそろホーリースター教会にミサの時間が訪れようとしていた。
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