初春──④

 いつのまにか湿っぽい表情をしていたのだろう。三日月がエコの顔を覗き込みながら、必要以上に愛想のいい面構えで話題を切り替えた。

「もしよ。副業をこなしても生活がままならなくなったときは、ちょっと面白い仕事があるんだが、どうだい」

「? 面白い仕事、ですか」

 生きるためには仕方がないとはいえ、正直、エコとしてはこれ以上の兼業を増やしたくはなかった。

 が、万一生活が立ち行かなくなった際の保険として、新しい仕事の耳に挟んでおくのも悪くはないかもしれない。ああ、そういえば泥棒に壊された策を修繕するための費用もどこかから捻出しなければ。お金が欲しいと積極的に思ったことはないが、なにかにつけて必要を迫られることは珍しくないのだ。

 三日月が声を潜めた。

「人間がな。マリアヴェルに忍び込んだって噂なんだ」

 エコの心臓が高鳴った。

「人間って……人間が、ですか?」

「あくまで噂だ。だが種族の違う数名が同じような場所で見かけたっていうから、信ぴょう性は高いだろうね。いまわかってる情報では、年齢は一〇歳から一五歳くらいの女の子だってこと。いまの市長が座についてからマリアヴェルにおける人間排除は徹底的におこなわれたから、どこかから密入国してきたんだろうな。あるいは人間の領海で溺れて潮に流されて、マーメイディア海岸に漂着したのか……」

「あの~」

 腑に落ちないことをエコはそのまま口にした。

「いまのマリアヴェルでは人間が暮らすことを許されていませんよね。街に近づくだけならまだしも、その……」

「うん。ケダモノの領土に足を踏み入れようものなら人間は武力によって排除される。下手をしたら殺されるんだ。人間にとってこのケダモノシティは近寄りがたい……というか、いまや侵入不可能な場所なんだよ。なのにどうしてその人間はこの街にやってきたりしたのかねえ。まあ、それはともかくだ。気が向いたら、その人間の目撃情報をポリスに提供して懸賞金を狙う、というのも悪くないんじゃないかね。あんたの下僕の虫たちを街中に飛び回らせれば、その人間がどこに隠れていようと見つけるのはたやすいだろ」

 ポリスというのは人間たちでいうところの警察と軍隊との性質を併せ持つ機関だ。マリアヴェルから人間たちが追い出された後、街の治安を維持するために結成された組織で、我こそはと名乗り出た男たちが集っている。彼らは犯罪者に容赦しない。

 エコがきいた。

「でも、それってただの噂じゃありませんか。だって、マリアヴェルの入国ゲートには衛兵さんがたっていますよね。彼らの目をかいくぐって密入国するなんてこと、簡単にはできないと思うんですけれど……海は人魚さんたちの縄張りですからなんともいえませんけど」

「相手は人間だからな。必要とあらば、俺たちの想像もつかない手段を使ってくるだろう。たとえば地中からやってくるとか、空から降りてくるとかな」

 三日月がこともなげにいう。彼は商人として人間と接する期間が長いため、知恵ある人類たちの思いもよらぬ一面を垣間見てきたのだろう。

「まあとにかく、だ。このマリアヴェルに忍び込んだ人間を発見してポリスに通報すれば、それなりの懸賞金をもらえるぞ。べつにからかうつもりはないが、あんた生活にゆとりがあるとは思えないからね」

 三日月の言葉は的を射ていた。エコの財政状況は決して裕福とはいえたものではない。

 エコはわずかに頷いた。

「考えておきます」

「うん。じゃあ、そろそろ品物の引渡しをしようか。いつものとおり卸はこちらでおこなうとするよ。それじゃ、ごくろうさまです」

 エコは荷台に積んできた果物、野菜の類をすべて三日月に引き渡したあとはすんなりしたものだった。相応のお代金を受け取ると、エコは地べたで待機していた虫たちにいった。

「みんな、帰りましょうか」

 そのときである。人ごみのなかからエコに声をかけるものがあった。ねじくれた老人のような声色。

「シスター・ランチェスター、だな」

 振り返ると小男がいた。エコの腰ほどの背丈で紫色の水ぶくれが顔中で膨れており、麻のローブを羽織っている。深く頭巾を被っているために顔ははっきりとわからない。エコに声をかけたのはこの男だろう。

 その背後には全身に体毛の生えた狼男がいた。二メートルを軽く超える長身は隆々とした筋骨でできており、灰色の体毛は彼の若さを象徴するようにきれいに艶光している。全身を毛で覆われた彼には服など必要ないだろうが、それでも皮製の半ズボンを身につけているのはマリアヴェルでつつがなく暮らすための身だしなみである。彼の半ズボンには赤色の血がべっとりとこびりついていた。まだ湿っているところをみると、今しがた浴びたものらしい。

 ざわり、と空気が張り詰めた。さきほどまでおとなしく籠や荷台を運んでいた虫たちが複眼の色を変え警戒態勢をとった。羽を持つものは羽を震わせて警戒音を発し、別のものはアゴを擦り合わせて威嚇する。エコの従者たちは明確にこのふたりの男を敵視していた。狼男に付着している鮮血を見て神経が高ぶったらしい。

 にぎやかだった市場の喧騒が静まり、エコとふたりの男の様子をうかがいだす。中には逃げ腰になってその場から離れるものもいた。エコの従者たちが暴れることを恐れているのだろうか。

「みんな、控えて」

 周囲の人々の不安を取り除くべく落ち着いた声音でエコが虫たちを諭すと、即座に剣呑な羽音が収まった。彼らは主人の命令とあればなんでもきく。死ねといわれれば死ぬようにできているのだ。虫たちの興奮が収まったことで周辺から安堵の吐息が漏れる。

 突然現れたふたりの男たちとエコは面識があった。

 これ以上の沈黙が場の空気の温度を下げる前に、エコが口火を切った。

「こんにちは。今日はどういったご用件でしょう」

「いやなに、たいしたことじゃないんだがね」

 ローブの小男が応え、頭巾の奥で卑屈に笑った。エコを小馬鹿にしているような気配が彼の挙動からにじみ出ている。この男は苦手だ。

「さっきまでコロシアムで市長戦がおこなわれていたんだがね。また新しく死体が出ちまったんだわ。教会前の死体安置所においとくから、後始末は頼んだからな、シスターさん」

 ああまたか──と、エコは暗澹とした気持ちになった。

 コロシアムでバトルがおこなわれると、ときおりケダモノが死ぬ。それもたいてい強者が弱者を徹底的に痛めつける手ひどいやり方で。脚の骨を折られ、毛皮を剥かれ、羽をむしられ、両目をえぐられ、うろこをはがされ、のどを潰されるようなすさまじい死に様でコロシアムから搬送されてきた死体をこれまで何十もエコは葬儀人として葬ってきた。

 マリアヴェルで死んだ住人たちの埋葬──それがエコの仕事のひとつだった。事故死や病死、老衰で命を落とした者たちは等しくエコが暮らすホーリースター教会へと運ばれ〝処理〟を施されたうえで共同墓地に埋葬される。死体は放っておくとハエや蛆の苗床となり下手をすれば病原菌の温床となってしまうため、死者の弔いは速やかにおこなわなければならない。そんな重要な仕事をエコはひとりで受け持っているのだった。とはいえ、死体の埋葬には市からエコに賃金が支払われたためしがない。要するにただ働きだ。

 いや、賃金に関してはどうでもいい。問題は……。

「おめでとうございます、市長。つつがなく市長戦に勝利されたのですね」

 エコは自分の声がこわばっていることを自覚する。薄気味悪い男たちに物申すのは勇気を必要としたが、口に出さずにいられないほどに胸中には灰色の雲が垂れこめていた。

 市長戦に勝利する、ということは、生き残った、ということだ。

 逆を言えば敗者は当然のように殺されるのが半ば公然の掟となっていた。

「ああ」

 市長と呼ばれた狼男はそっけなく答えた。

 自分が活躍したわけでもないだろうに、ローブの小男が得意げな声音で狼男の言葉を受け継いだ。

「すごかったぜえ。挑戦者の鳥男も多少は奮闘したが、やはり市長にかかれば赤子の手をひねるようなものさあ。鳥男の羽根が切断されて地面へ真っ逆さまへ墜落する姿は見ものだったぜえ。そうとも。これはエンターテイメントなのさ。市民はみんな血を見たがっている。肉のえぐれる音を聞きたがっている。シスターも一度見にきてみれば、この楽しさがわかるだろうさ」

 頼まれたって御免だとエコは思う。

 押し黙ったままそっぽ向くエコへ向けて、長身の狼男は感情のこもらない声をかけた。

「相手が俺を殺すつもりなら、俺も殺し返す。奴の死は、あいつ自身が望んだも同然のことだった。それだけだ」

「…………」

「ランチェスター。鳥人の遺体を腐れ穴へ放り込んでおくように部下へ命令してある。供養してやれ」

「それは市長としてのご命令ですか」

「ああ」

「……。仰せのとおりに、市長」

 エコは恭しく頭を下げた。このマリアヴェルで暮らす以上、市長の命令には服従しなければならない。それがこの街で生きていくうえでの絶対の掟だった。さもないと、街のケダモノ全員を敵に回すことになってしまうのだから。

 エコに興を失ったかのように狼男が踵を返すと、不意に青空へ向けて腹の底から声をあげた。

「きけいっ」

 狼男が放ったその一言で、昼の市場の喧騒がぴたりと途絶えた。だれもが作業中の手を、あるいは足を止めて息を飲み、毛むくじゃらのケダモノの次の言葉に耳を傾けている。

「先日とある市民から、人間の小娘がマリアヴェルに侵入したとの報告を受けた。見つけ次第、殺せ。以上だ」

 そう告げるなり狼男の市長は悠々とした足取りで市場から去っていった。わざわざ市場まで足を運んだのはそれを市民へ命じるためだったのだろう。昼時にもっとも人が集まるのはこの中央市場なのだから。卑屈な小男もそそくさと市長のあとを追って小走りで去っていく。

「仰せのとおりに、市長」

 市民たちは直立したまま、口々に市長に対する服従の意を示した。彼らの瞳には一様に畏怖の色があった。

 マリアヴェルにおいて市長に逆らうことは禁忌とされている。それはこの街で数百年と続いている絶対のルールであった。

 市場で午後のひとときを楽しんでいた住民たちは、市長の背が見えなくなるまで胸に手を置いて全身を硬直させていた。

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