初春──③

 エコは下僕の巨大虫たちを引き連れながら、雑然とした青空市場の中心に向けて歩いていた。テントで開店準備しているケダモノたちのなかにはシスター服の娘に目をやるものもいたが、すぐに興味を失ったように自分の作業に戻った。

 青空市場の中央には傘型の屋根をした大きめの小屋が建っていた。看板には東洋の漢字で『虎屋』といびつな文字が書かれているが、これを読めるケダモノはこの街でも数十人といないだろう。マリアヴェルの住民たちの識字率は高くない。

 虎屋のこじんまりとした店内に、金色の体毛に全身を覆われたケダモノがいた。エコよりも背の低い、ひょろりとした体格の鼻の高い狐で、名を三日月といった。しゃんと伸ばした背筋に東洋の着物を着こなした初老の彼は、まぶしいくらいに照り付ける太陽の下で狐類特有の細く鋭い目を細めた。彼なりの愛想笑いだ。

「ようランチェスターさん。今日はどんな野菜をもってきてくれたかね」

 エコはなじみの店主に柔らかく微笑みかけた。立ち止まった女主人の背後で昆虫たちが整然と並び、触角を上げて敬礼のポーズをとる。

「主に果物をお持ちしました。オレンジやイチゴ、それにリンゴですね。あと、かぼちゃも育ててみました」

「果物ねえ。うーん」

 狐の店主は渋い声を出して頭上に浮かぶ雲を見上げた。思慮深げな風体に似つかわしく、彼は金銭の勘定が得意である。ケダモノたちは基本的に数学を苦手としており、彼の存在はこの青空市場では生ける銀行として重宝されていた。

 狐人の三日月は早朝の青空市場において、問屋のような役割を担っている。野菜や果物の生産者から農作物を大量に入荷して、それを街の八百屋や果物屋に小売するのだ。エコにとって三日月は街の住人たちとの接点のひとつであるといえた。

 その三日月が細い目をさらに細めてエコを見上げた。

「いまのところ、果物の在庫は間に合ってるんだな」

「あら、そうなんですか」

「人間たちの暮らす隣国から戻ってきたキャラバンが、ごっそりと果物を仕入れてきてね。それもメロンやバナナなど、この地方では採れないものばかりだそうだ。そっちの在庫が余ってるから、イチゴやオレンジは……まあ受け取れないこともないが、高い金は払えないな」

「メロンやバナナ、ですか」

 エコは困ったように背中のかごを地面に下ろした。ぎゅうぎゅうに詰め込まれたイチゴたちが甘い香りを放っているが、三日月の話によると、これらは現在、二束三文の価値しかないらしい。

「メロンはともかくバナナまで作ってしまうなんて」

 エコは人間へのそこはかとない畏怖を覚え、そっと自分の肩を抱いた。

 植物の精霊であるエコは植物を育て、操ることを得意としている。

 そのエコの植物操作の能力を用いても、南国原産のバナナを早熟、および生産させるとなると地面から相当な栄養を吸い上げなければならない。輪作も難しいし、なによりマリアヴェルの風土とバナナの性質がそぐわないのでまともな成長が望めない。へたに地中の栄養を使いすぎると教会の土が砂と化してしまうため、バナナは庭で生育する農作物のリストにすら入っていなかった。

 それを人間はいとも簡単に育ててしまうらしい。

 キャラバンがバナナを仕入れたという隣国は、このマリアヴェルとさして変わらない気候であるはずなのに。

 植物を統べるドライアドとしての自負を、エコはちょっとだけ失いかけた。

「ああ、勘違いするなよ。なにも人間たちは隣国でバナナを作っているわけじゃない」

「……?」

「バナナを育てているのははるか南の島国さ。フィリピン……とかいったかな。そこに群生しているバナナを集めて箱に詰め、巨大な船で世界中のマーケットに分配しているらしいんだ。人間の数が多いから可能な芸当だな」

「船……ですか? 水の上に浮かぶ、あの?」

 マリアヴェルは三方を平原や丘陵に囲まれており、南側には果てなく続く大海原を背負っている。海岸は主に人魚たちのテリトリーで、真夏には陸のケダモノたちが涼をとるために砂浜へと集まってくる。人魚たちにとって海水浴客は大事な収入源であり、シーズン中は貝類やエビ、イカなどが格安の値段で売買されるだけでなく、旬の海藻を潜って採る観光ツアーも開催されている。エコも子供の頃はよく海に足を浸して遊んだものだ。

 海はケダモノたちにとって大事な狩猟の場でもあり、人魚や鳥人の水夫たちが素潜りで、あるいは小舟に乗って沖へと発ち、クジラやイルカなどを狩る。その船は人間が授けてくれた設計図を元にして製造したものだ。彼らの知恵がなければ、ケダモノたちはいまだに船の建造法を知らなかっただろう。

「ランチェスターさんは小舟しか見たことがないだろうが、船ってのはものによってはちょっとした小島ほどのサイズのものまで存在するんだ。そいつに地域特産の食料品を何トンも載せて世界中に分配する。そうやって、人間は世界中の食べ物を食えるようにしてるってわけさ」

 その時、遠くの空から耳の奥をかき乱すような低い轟音が接近してきた。テントの屋根や地面が空気の振動でビリビリと痺れるような音を発する。聴力に優れるタイプのケダモノは不快げな面持ちで耳をふさいだ。

 きた、とエコは思った。

 憧れに潤んだ眼差しで頭上を見上げると、灰色の巨鳥が、遥か高い澄み渡る空を横切っていくところだった。

 エコはその大きなひとつ目を細めて、かの鳥が東の空へと見る見る小さくなっていくのを眩しげに見送った。

 きくところによれば、あの巨大な灰色の鳥(飛行機という名前だそうだ)には百人を超えるたくさんの人間が乗っているという。

 人間。

 およそこの世でもっとも多く世界に繁栄している知的生物である。

 非常に知性が高く、年中繁殖期でぼこぼこと子孫を産んで、聞く話によると一時期は七〇億人まで数を増やしたという。それが人間同士の世界規模の戦争を契機にして徐々に個体数を減少させて、いまは二〇億人ほどで増えもせず減りもせず落ち着いているのだとか。

 呆然と空を見上げるばかりのエコの横顔を、三日月が毛だらけの指でつついた。

「どうした、飛行機なんて珍しいものでもなかろうに」

「ええ、ちょっと興味がありまして。あれはいったい、どういう仕組みで空を飛んでいるんでしょうね」

「そんなの、鳥人が翼を広げりゃ空を飛べるのと一緒だろうさ。よく知らないけどな」

 三日月はたいして興味のなさそうに粗雑な会話の流し方をしてきた。早く商売の話に移りたいのだろう。

 彼はつんつんに尖った黄色い耳をなでつけながら、オレンジやイチゴの香りを嗅いだ。

「そうだねぇ。先の理由であまり高くは買い取れないが、これだけ大きくて熟れていれば、相場の二割増しでも十分利益は望めるでしょう。まあ、これくらいでどうかね」

 狐の短い指が示した価格は、決してエコを愉快な気持ちにする数値ではなかった。が、それでも多少の色をつけてくれた善意の額であるには違いない。

「わかりました。それでお願いします」

「まいど。ところであんた、一応きいておくが、こっちが副業なんだよな」

「? こっちといいますと」

「農業のことさ。あんたの能力を使えば野良仕事は楽にはかどるだろうし、けっこうな収入にもなるだろう。でもそれにかまけて本業がおろそかになったりしないのかい」

「ん……ええ」

 エコは言葉を濁した。

 三日月の好奇心がエコの胸にちくちくと刺さる。

 エコも農作業という副業が嫌いというわけではない。ただ、本業だけで生活していくことが困難であることが面映ゆいのだ。

 ホーリースター教会の主としてマリアヴェルの住民たちの神への信仰をうながし、日々の生活に根付いた小さな悪の芽を摘み取れるよう彼らの心に倫理と平穏を浸透させることがエコの本懐だ。毎週日曜日には街のひとびとを対象としたミサをおこない、神のメッセージをひとびとの心に届けられたらどれだけ素晴らしいことだろうと思う。

 そしてそれが理想論に過ぎないことをエコは身をもって知っていた。

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