初春──②

 エコは鏡台の前でくるりと一回転して自分の格好に粗相がないかを確かめた。

 黒色を基調にしたシスター服はきれいに水洗いがされていて、新品同様に染みのひとつも見当たらない。茶色の革靴は土で汚れてあちこちが痛んでいるものの、まだ数ヶ月はもつだろう。レース編みの黒ベールは頭にかぶらない。いっぱいの日差しを体中に受けたいからだ。

 衣服の風体を確認していた視線をそのまま顔に移した。

 丁寧に櫛でとかした腰まで伸びる新緑色の髪の毛は、民芸品の織物のように見事な光沢を放っている。この芸術的なまでにつややかでしっとりとした毛髪は、巷では高級な健康食としてプレミアがついているらしい。が、エコには自分の身体の一部を売り買いをする気は毛頭なかった。

 やや長めの前髪の下には、彼女の髪と同じ色をした緑色の大きな瞳がある。大きな──ひとつだけの瞳。エコは単眼人種である。大きなひとつの眼球が眉間の位置にある以外は普通の人間とさして変わりのない──しかし、この世に多くはびこるふたつの目を持つ双眼人種とは明らかに異なる、マイノリティな人種だ。自分の姿を鏡越しに確認するその大きな瞳には聡明で穏やかな光がたたえられていた。ふたつ目の人間よりもやや低い位置にある鼻と、きゅっと引き締まった口元。化粧はしていない。もともと化粧を必要としないケダモノばかりのマリアヴェルではすっぴんでいることは珍しくないことだった。

 幼少のころから栄養のあるものを食べていたためか、エコは一八歳の女性の平均をやや上回る身長をしている。肌の血色もよい。畑仕事を日課としているにもかかわらずあまり筋肉がつかないのは彼女の体質によるものだろう。余計な贅肉をまとっておらず女性らしいスタイルを保持している。

 よし。

 緑髪をふっとかきあげてから、エコは自室の扉を開けて、日光の照りつける教会の庭へと向かった。

 野菜や果物を主とした植物の生い茂る教会の畑で、エコ・ランチェスターはバラの蔓で編んだ大籠を背負った。籠のなかにはもぎたてのオレンジが積まれている。両手には真っ赤に熟したイチゴがぎっしりと詰まったバスケット。膂力のないエコが持てるのはこれが限度だった。重いカボチャや青リンゴなどはお付きの下僕たちにもってもらうほかない。

「みんな、準備はいい?」

 エコは背後で待機していたしもべたちを振りかえる。人間の赤ん坊くらいのサイズの巨蟻数十匹が徒党を組んで彼女の背後に参列していた。黒いじゅうたんと化した彼らは頑丈な樫の板をくみ上げて作ったリヤカーを引きずっていた。つぶらな瞳で女主人を見上げる彼らもホエホエミツバチと同様、エコにとって不可欠な生活のパートナーである。

 シスター服のスカートをひるがえしてエコは教会の庭から足を踏み出した。向かう先はマリアヴェル最大の青空市場だ。そこでは食物の売買を目的とした露店がところ狭しと並んでいる。これからエコもひいきにしてもらっている露店を回り、自作の野菜や果物を売りさばいて周る予定だった。農作物はお客さんに買ってもらうまでが一苦労なのだ。

 ふと振り返ると、背の高い白い教会がエコを見送るようにのんびりと朝の陽光に当たっているのが見えた。

 エコが暮らすホーリースター教会は、マリアヴェルの中心に位置する公園の中央に建っている。教会のだだっ広い公園は、昼は子供たちの遊び場として、夜は恋人たちのホットスポットとしてにぎわいを見せる。

 教会の背面には常識はずれに背の高い樹がそびえ立っている。樹齢二〇年も経過していないとはだれも信じられないほどの巨木である。扇のような分厚い葉を誇る広葉樹──大人が百人がかりで両手を伸ばしても囲めないほどの太さを持つ種類の判然としないその樹は、エコが暮らすホーリースター教会を飲み込むような形で成長してしまった。おかげで決して小さくないはずの教会の半身がその巨木に包まれてしまい、なかば教会と巨木とが癒合するような形になってしまっている。教会は南向きなので日照には問題がないものの、公園の四半面を木陰で覆われてしまうのが心苦しい。もっとも夏季にはその木陰を目当てに涼を取りにくる町民たちがこの公園に押し寄せてくるのだが。

 公園を出発し、しばらく歩くと青空市場に到着する。時刻がまだ早いためか、市場はさして賑わいを見せてはいなかった。白い布製のテントがいくつも立ち並んでいるものの、そのほとんどがまだ準備中のようだ。店員たち──そのすべてが人間ではない──は、みな忙しげに開店にむけて商品を並べたり、あるいは生魚をさばいて小骨をとったりする作業でおおわらわだった。

 大きなかごにぎっしりと詰められた売り物はほとんどが食料品である。生肉や生魚を販売している店もあれば、採れたての野菜や果物を陳列している店もある。生鮮食品を取り扱う露店の店番たちのなかに、人間の姿はない。当然だ。人間はみな、このマリアヴェルから追い出されてしまったのだから。

 いなくなった人間たちに代わって青空市場で店舗を構えているのが、元来、この街に住み着いているケダモノたちだ。

 右を見れば、テントのなかで毛だらけの腕の短い指を器用に操って鶏の羽根をむしっている、人間ほどの背丈の二足歩行の猫がいる。難しい顔をしているところからして、仕事が思うようにはかどっていないみたいだ。あ、鶏を地面にほうり捨てて不貞寝した。あのぶんでは、このテントは今日は開店しないかも。

 左の雑貨店では背中に翼の生えた巨大な鳥人が、不透明な液体の詰まった小瓶を販売している──あれはたぶん、お酒の類だろう。かつて人間たちが暮らしていたころはお酒などどこにでもあったものだが、彼ら不在の現在では、この街でお酒はそれなりのプレミアがついている。街の外──人間たちの暮らす都市まで行商にいき、そこで仕入れてくる以外にアルコールを入手するルートはない。酒類の製造法などケダモノには知るよしもないのだ。

 エコの足元を黒い水溜りのようなものが這いずっていった。知的スライムだ。彼らは人間の言語を解し、簡単な道具なら扱えるほどの器用さを併せ持つケダモノだ。見た目は不気味だが温和な性格をしており、人間たちとも仲がよかった。

 人間とは異なる進化をたどった亜人種──ケダモノ。彼らは人間ほどではないがそれなりの知能を有し、人間よりも優れた身体能力を持つ種族が多い。

 たとえば速く走れるが片言でしかしゃべることができない、人型でありながら猫のように全身を体毛に覆われて背中を丸めた種族。

 たとえば空を飛べるが両腕の使えない、二メートル以上の背丈を持つ巨鳥。

 たとえば日がな一日地中で土を食して暮らす、胴長のミミズ然に似た目の見えない芋虫人間。

 エコもそんなケダモノたちのひとりだ。

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