第8幕「ただいまとお帰り」
自宅の門の前に立った時、狙ったようにスマートフォンが震えた。詠多朗は、学生服の内ポケットからとりだすと、そのパネルを操作する。
そして、着信した最新のメールタイトルに感心。
――情報屋に連絡を取れるようにしました。
それは真理からのメールで、
(この様子なら、気のせいか……)
詠多朗はスマートフォンに並ぶ文字を見ながら、別れ際の真理の様子を思いだす。普段から変な人ではあったが、あの時はさらに変であった。というより、いきなり空気が悪くなった気がしたのだ。
だから、詠多朗はすぐに後悔した。そんなに
ところが、こちらの勝手なお願いに対して、迅速な対応をしてくれた。呆れた彼女から縁を切られることもあるかもしれないと不安だったが、この様子だとそんなことはなさそうだ。そう考えると、詠多朗はかなり安堵した。
彼としては、彼女のことが好きだった。それは恋愛的な話ではなく、友人として好きだったのだ。変わった人間だが、会話は面白い。会話で疲れるところもあるが、それさえも彼女の味だと思っている。それに、趣味に対する彼女の情熱的な部分は好ましかった。なにより自分のような普通の人間が、彼女のような優秀な人間と対等に話せることは僥倖と言ってもいいほどのことだ。だから、できる限りこの関係は大事にしたいと詠多朗は思っている。
ちなみに、ありえないと思ってはいるが、もし真理から恋人になって欲しいと言われたら、詠多朗はコロッと落ちる自信があった。あんなに胸が素敵で、容姿端麗で、胸が素敵で、頭脳明晰で、胸が素敵なのだから、こちらがコロッとどころか、あちらがポロッと出して欲しいぐらいだ。ごく普通の青年男子として、女性の胸に興味津々な彼にとって、彼女は本当に魅力的であった。特に胸が。
ただ、それでも詠多朗は理性で抑えるつもりだ。コロッと落ちて、ポロッとして欲しい想いは強いが、彼女は
それに今は、落花のこともある。詠多朗は落花に対して責任があると思っている。恋人や妻という関係ではないが主従関係があり、しかも恋慕を向けられている以上、それを無視して別の恋人を作るなど、詠多朗にはできなかった。
(……しかし、まさかこんなことになるとは)
詠多朗はスマートフォンをポケットに戻すと、改めて自分の家を見つめる。
木製の門構えには、観音開きの扉がひとつ。その向こうには、バトミントンの試合ぐらいならできそうな庭があり、さらに別に中庭まであった。そして瓦葺きの古めかしい木造建築だが、ダイニングキッチン、リビング、その他に7部屋もある。さらに趣味で風呂場もかなり大きく露天風呂まである。その規模は、近所で有名なお屋敷だ。
家族5人で住んでいた時でも広すぎた建物は、独りになればなおさらその規模を感じさせる。ポツンとリビングで立っていると、無駄に広すぎる空間から責められているかのようだった。何故、この空間を独りで使っているのかと。なんで、独りでここにいるのかと。どうして、お前だけいるのかと。そんな幻聴が周囲から聞こえてくる。
だが、そこにリディが加わり、今は落花まで住むことになった。
なんとなく、詠多朗はわかっていた。リディはたぶん、自分のために落花を一緒に住まわせたのだろう。高校生にもなって、寂しいと口にだしたり顔にだしたりすることはしなかった。しかし、彼女が自分の未熟な心に気がつかないわけがない。もちろん、落花自身のためもあったのだろう。しかし、リディは不思議と詠多朗を気にかける。理由はわからないが、それはまちがいなかった。
おかげで、家族を失った事件から家に帰るのが辛かったというのに、今では少し楽しみになっている。それに少し前まで、女の子に縁などなかったというのに、
「……ただいま」
詠多朗はそんなことを考えながら、玄関の鍵を開けてドアを引いた。
そして最近、また言い始めた言葉を口にすると、元気な声が返ってくる。
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
少し離れたところから、パタパタとしたスリッパの足音が聞こえてくる。
靴を脱いで玄関に上がり、靴をそろえた頃には、エプロン姿の落花が姿を現した。なぜそんなに嬉しそうなのかと不思議になるぐらいニコニコと笑顔を見せながら走りよってくる姿は、まるで犬のようだ。ジーンズのような藍色の短めのエプロンに、健康的なかるく焼けた四肢が覗いている。
「遅かったんだね。あ、鞄もつよ!」
「い、いや、そんなことしなくていいから」
「えー。せっかくだからやらせてよ!」
「……なんで楽しそうなんです?」
「ん? なんか楽しいよ! ボク、こう言うの好きかも? ……あ! もうすぐ夕飯できるけど、ご飯にする? お風呂にする? それと――」
「――はい、ストップ! お約束はいいですから」
慌てて詠多朗はインターセプトする。お約束とは言え王道。王道故に強力。こういう萌えセリフはリアルでやられると、効果は抜群である。
「ちぇーっ。せっかく練習したんだから言わせてよ」
「ダメです」
「……あ、もしかして裸エプロンじゃないから?」
そう言いながら、落花はくるっとまわって見せた。その姿は、半袖のTシャツに、ホットパンツ姿。裸エプロンではなくとも十分に魅力的だ。
「違います。必要ありません」
「むっ……。ボク、やっぱり魅力ないのかなぁ」
「そ、そういう意味ではなくてですね……」
ガクッと頭をたれる落花に、詠多朗は黒縁眼鏡をあげながら慌てて否定した。魅力がないどころか、あふれ出ているから困っているのだ。それを伝えるべきかどうか悩むが、とりあえず話題をそらすことにする。
「あ、あとご主人様ではなく、詠多朗でいいですよ、
「えー。ボク、気にいってるんだけどな、『ご主人様』って」
「いや、外でもそんな風に呼ばれたら困りますし……」
「ならさ、ボクのことも落花って呼んでよ。名字で呼ぶのって、奴隷の呼び方としておかしいじゃん!」
「奴隷の呼び方って……なんか奴隷という言葉を取り違えていませんか?」
「あっ……もしかして、ボクなんかを名前で呼ぶのは嫌なのか?」
またシュンと落ちこむ彼女。やはり、餌をもらえなくて尻尾を垂らしている犬のように見えてしまう。不謹慎ながら、それが詠多朗には妙に愛らしく見える。
「そ、そういうわけではないですよ。……ら、落花さん」
「なんでそこで『さん』付けなんだよ! それにその呼び方、『落下傘』みたいで嫌いなんだけど……」
「しかし、呼び捨てはなかなかハードルが高いというか……」
「むうぅ……。なら、妥協するよ。でも、それならボクは、家では『ご主人様』で、外では『詠多朗様』って呼ぶからね!」
「……『様』はやめてください。呼び捨てでいいですから」
「奴隷がご主人様を呼び捨てで、ご主人様が奴隷を『さん』付けって変じゃん!」
顔を間近まで迫られて、詠多朗は狼狽える。本当は顔をそらしたかったが、彼女のクリクリとした瞳が、まっすぐと射貫いてきて首を動かすことができない。女性にこれほど迫られたことのない彼は、なんとか視線だけでもそらそうと眼鏡の下で瞳を泳がせる。
「い、いや、ほら……えーっと……そ、外では関係が秘密ですし……人前と家では違って……僕も……なんというか、普段のイメージのギャップのような」
「…………」
「…………」
「……わかった」
「わかってくれましたか!?」
「うん! ボク、わかったよ! なるほどねぇ。外では偉そうに冷たく呼び捨てにしている女の子が、家に帰ると『ご主人様』とかしずいてくれる……そのギャップと、秘密の関係がいいってことだね!」
「……え?」
「外ではツンツンしているけど、家ではデレデレ……つまり、ツンデレ好きなんだ! マニアックな要望だな!」
「マニアック!?」
「わかったよ、ご主人様! その命令に従っちゃうぜ! ちょっと楽しそう!」
「ちょっ――」
詠多朗が反論しようとした瞬間、まっすぐのびた廊下の奥からリディが出てきて「鍋が噴いてるわよ」と告げてくる。
すると、「いっけねー」と落花が慌てて駆け戻っていった。
おかげで詠多朗は、その場で口を開いたまま立ち尽くしてしまう。
「……おかえり」
そんな彼の目の前まで、パジャマ姿のリディが歩みよってくる。いつもの黒いドレス姿とのギャップは凄まじい。普段は見た目と異なる迫力を漂わせているが、今は年相応よりも幼く見えていた。
「ただいま戻りました」
「遅かったのね」
「すいません。実は、
「ああ、前に言っていた……」
「はい。狙っている
「そう。それはいいのですけど……一言だけ言っておくわ」
ふと、リディが腕を組んでかるくため息をもらす。
「な、なんでしょうか……」
「ずっと見ていたけど、玄関先でラブコメを始められるのは、さすがに恥ずかしいわね」
「そんなつもりはありません! ってか、ずっと見ていたんですか!?」
「わたしが貴方の困っている姿を見逃すはずがないでしょう?」
「……少しだけ独りが恋しくなりましたよ」
詠多朗は自宅に戻っても、もう寂しい想いをすることは
第2話・了
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