造池使の決定

 天平宝字八年(七六四年)九月一日、仲麻呂は定例の朝議を招集した。

 天候不順だった夏が終わり筋雲と一緒に秋が来ている。心地よい風が開け放たれた扉から部屋に流れ込んでくるが、数年続く不作に会議の雰囲気は重い。会議の雰囲気を悪くしているのは、不作だけではない。

「大師がすすめている新銭鋳造のおかげで物の値段が上がっている。新銭一枚を旧銭十枚と等価にしたために、銭を蓄えていたまじめな民は馬鹿を見ている」

 仲麻呂は永手を睨みつけたが、永手はすました顔で続ける。

「米の値段がこの一年で三倍にも四倍にも跳ね上がった。米につられて酒や衣などの値段も上がっており、百官からは悲鳴に近い訴えが儂のところに届いている。物の値段の上昇は新銭を出した時期と重なっており、不用意に新銭を出したことが失策であったことは明らかである」

「万年通宝を出したのは四年前。米や酒の値段が上がっているのは二年前からで、原因は改銭のためではなく不作のためである。言いがかりも甚だしい」

「庶民が苦しんでいるのは同じだ。都には物乞いがあふれている」

「物乞いについては悲田院に活躍してもらっているし、土師嶋村はじのしまむらのように私費を投じて貢献している者を褒賞している」

 永手の横に座っている八束が手を上げた。

「都も苦しいが、諸国はもっと苦しんでいる。美濃、飛騨、信濃の地震では多くの家が倒れた。河内は長雨で堤防が決壊した。一昨年は畿内が不作、昨年は東海、今年は山陰、山陽が不作になった。飢饉によって弱った民を疫病が襲い、四国では今年は種籾さえなかった」

「飢饉の訴えが上がってきた国に対しては、救恤米や田租の減免を行っている。淡路島の種籾不足については、余裕があった紀国から回した。米価を安定させるために常平倉も開いた」

「その倉ですが」

 話に割って入ってきた中臣清麻呂を全員が見た。

「諸国の正倉が神火で消失しているという報告が何件も上がってきています。しかし神火が続くとは調子が良すぎます。本当に神火なのでしょうか」

「諸国の正倉については、鍵を朝廷に持ってこさせて、勝手に開けられないようにしている」

「鍵を朝廷に返納することで、税の徴収不足が発覚し職務怠慢を責められることを恐れた役人が火を放っているとも、飢饉につけ込んで一儲けするために、正倉から米を持ち出してから、証拠を消すために火を放っているとも言われています」

 干魃、飢饉や物の値段の上昇には的確に対応しているはずだ。第一、永手らが言っていることは、今年になってからの太政官会議で話し合って決めたことで、皆も承知していることではないか。今になって、自分一人を詰問するのは筋違いだ。

「聖徳太子は『上に礼なきときは、しも整わず』とおっしゃっています」

「八束は何が言いたいのだ」

 仲麻呂の強い口調に、八束は顔を横に向け、永手が代わりに口を開いた。

「太上天皇様も、この数年の飢饉と値段の上昇には御心を痛めておられます。太上天皇様は、飢饉や干魃に対して、畿内に溜め池を作ってはどうかとおっしゃっています。もっともなご意見ですので、さっそく溜め池作りに民を動員したいと考えますが、諸卿の意見はいかがでしょうか」

 塩焼王が、

「太上天皇様はどのくらいの溜め池を考えていらっしゃるのか」

 と永手に尋ねた。

「近江、山背、大和、河内、摂津、泉、播磨などに数カ所ずつ。それぞれ三百から四百人ぐらい動員する。来年の干魃も心配であるので太政官会議で決定しだいすぐに取りかかりたい」

「溜め池の有用性はわかるのですが、農耕が暇になる冬にしてはいかがでしょうか」

「太上天皇様のお考えでもあるし、人々に仕事をさせることで禄を与えることができ一石二鳥となる。すぐにでも実施したい。諸卿の意見はいかがか」

 永手が八束に目配せすると、八束は小さく肯いた。

 永手の提案には、八束、中臣清麻呂、石川豊成などが賛成した。真先たち若手は隣同士で話を始め、白壁王や文室浄三、百済王敬福など古株は腕を組んで永手を見つめた。

 今まで永手と八束が絡んできたのは、溜め池のためと称して人を動員するための前振りという訳か。溜め池作りは力仕事であれば、寺の建立のように技術を持った者ではなく、屈強な男たちを集めることができる。数百人単位で集めた男たちに武具を配れば即席の軍団になる。都を囲む国々で軍を作り、標的は自分という訳だ。

 明らかに軍略だ。永手や八束には考えられないとすれば、溜め池の策は吉備真備が絡んでいる。真備が絡んでいるとすれば、次々と手を打ってくるだろう。待っているだけではやられてしまう。山背王や千尋がいれば、溜め池作りの目的に気づいて対案を出すだろうが、真先には山背王や千尋のように権謀術策の経験がない。

 石川年足に続いて、仲麻呂派として台閣に席を持っていた山背王と藤原千尋は、今年になってから病没していた。

 清麻呂、豊成だけではなく、真先ら仲麻呂の息子たちも、溜め池作りの具体策について議論を始めた。

 若くて真面目な真先や朝狩では奸計を見抜くことができずに、真剣に話し合っている。自分の子供ながら物足りない。自分の傘下が台閣で多数を占めているとはいえ、真先たち息子の世代ばかりで、永手や八束のような老獪な人間相手には力不足の感は否めない。白壁王や敬福は溜め池作りの目的に気づいているらしいが、敢えて議論に加わっていない。永手や八束の企みを潰す一手を考える必要がある。

 仲麻呂が腕組みをして考えをまとめている間に、溜め池について結論が出てきた。

「大師殿。お聞き及びのように畿内諸国に灌漑用の溜め池を作ることで衆議は一致した。よろしいか」

「太上天皇様の思し召しであれば、私にも異存はない。ただ、先ほど清麻呂が言ったように正倉が燃える事件が何件か発生している。私のところにも、都に夜盗が出ていて困るという訴えが多く寄せられている。畿内各国から二十人規模で兵を募り都の治安維持に努めたい」

「五衛府があれば、十分であろう」

「太上天皇様の御座所が宮中ではなく法華寺であれば、衛士を宮中と法華寺に分けていて都の警護が手薄になっている。公卿百官の家を夜盗から守るためにも、都に兵を増やす必要がある」

「溜め池作りに動員することを決めたばかりではないか。干魃で苦しんでいる諸国に追加で人を出す余裕などない」

「八束の言うとおり、諸国は苦しんでいる。故に溜め池に動員する者の一割を割いて都の警護に当てる。一割であれば溜め池作りにはさほどの影響を及ぼすことはないし、諸国から合計で百人集めることができれば、都は安心できる。一石二鳥だと考える」

「大師殿の言うことは分かった。さっそく坂上苅田麻呂を長官かみに任じ兵を集め訓練させよう」

 永手は狸親父だ。私の発案を逆利用して、都に意のままに動かせる兵を作ろうとしている。自分の首を絞めるような間抜けたことをしてはいけない。

「苅田麻呂は武人として聞こえてはいるが、正六位上であり長官に任じるには位階が軽すぎる。都を守る大事な役目であれば、私自身が長官となろう」

「台閣の長が直接兵を統べるのはいかがなものか」

「私は、紫微中台、中衛大将を勤めたことがあり兵の扱いには慣れているから問題ない」

 何か言いたそうな永手と八束を制し、仲麻呂は会議を切り上げた。

 太政官室から人が出て行くに従って、熱い空気は冷えてきた。

 仲麻呂は部屋から出て行こうとしていた真先を呼び止めた。

「塩焼王、船王、池田王、和気王、大伴古薩、石川浜成らを今宵田村弟に呼べ」

 真先は真意は何かという不思議そうな顔で見返してきた。

「残暑見舞いとでも言って集めよ。お前には永手や太上天皇の考えていることが分からなかったのか」

 真先は首を横に振る。

「溜め池を作るというのは口実に過ぎない。宿奈麻呂が佐伯や石上の人間に頼って我々を殺そうとしたように、永手たちは集めた人間を使って我々を殺すつもりなのだ」

 真先は冷水を頭から浴びせられたような顔をした。

「権力は茨の道だ。気を抜けば怪我をする。分かったら早く行け」

 真先を追い立てると、ふっとため息が出た。

 式家の宿奈麻呂に続き、北家の永手と八束が孝謙とつるんで対決してきた。おそらく京家の浜成も敵対するだろう。本来ならば味方になるはずの藤原一族が総掛かりで自分をつぶしにきた。

 宿奈麻呂の変で果たせなかったことを実行してやる

 藤原恵美の家を日本ひのもとの中心に据えると決めていたから、ちょうど良い機会なのだ。佐伯や石上、大伴など自分に懐かない者たちも一緒につぶしてやる。自分は、災い転じて福となすことができる男だ。

 それにしても、一番頭に来るのは孝謙だ。

 娘の頃からめんどうを見てきてやったにもかかわらず、恩を仇で返そうとしている。孝謙から権力を奪い飛鳥に閉じ込めてやる。譲位した年増女はおとなしく写経でもしていればよいのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る