第五章 藤原仲麻呂の乱

仲麻呂排斥の動き

人事抗争

 花は秋になると枯れてしまうが、種を残して次の世代に命を繋いでゆく。葉を落として死んだようになっている木々も、来年のために幹の中で芽を育んでいる。母猫は乳を分け与えて子猫を育てる。子猫は大人になって子を産み育てるようになる。人も草木や獣と同じように、次の世代に命を繋いでゆくが、人は命の他に、財産や権力も渡してやることができる。

 真先たちを参議に上げたが、官位官職を与えただけでは権力を継承することはできない。子供たちは大きく立派に育ったが未熟だ。権力を繋いでゆくためにできる限りのことをしてやりたい。漢籍を開けば、権力の継承に失敗して滅びた人や国は実に多い。権力の継承は実に難しいが、一代で終わる権力者は愚か者だ。真先たちに権力を渡し、藤原恵美の家を末永く繁栄させたい。そのために、やっておかなければならないことがある。

 天平宝字七年(七六三年)も押し迫った十二月二十日、仲麻呂は、年始の昇叙・任官案を持って法華寺を訪れた。

 木枯らしが落ち葉を散らし、晴れた空から冷気が降りてきて厚着をしていても手がかじかむ。風は冷たく、手を擦り合わせても温かくならない。吐く息はすぐに白くなった。

 短い冬の日は、すでに日が傾き空は茜色に染まり始めている。

 仲麻呂が輿から降りると、正面から強い風が吹いてきた。風は体温を瞬時に奪ってゆき、仲麻呂は両腕を組んで体を震わせた。

 法華寺の庭は広く、輿を止めた南門から本堂までは遠い。掃き清められていて、雑草や木の葉一つも落ちていない。隅に置かれた大岩もきれいに掃除されていて、苔はおろか泥も付いていない。背の低い木はきれいに剪定され、悪趣味なくらいに整っている。木々はすべて葉を落としていて、根本には落ち葉が集められていた。

 大きな樫の木には、烏が列をなして止まり、うるさいくらいにカア、カアと鳴いている。供の下男が石を投げつけると、烏たちは一斉に飛び立ち、樫の木は寂しそうに、葉のなくなった枝を揺らした。

 枯れた木を見ると五十八歳になってしまった自分を見ているようでわびしくなる。最近は輿の乗り降りも億劫になってきた。若い頃は一生懸命で周りを見る余裕はなかったが、年をとって、相応の分別を持つことができるようになってきたと思う。しかし、法華寺の主は年をとって分別をなくしたようで、太政官たちの悩みの種となっている。

 仲麻呂は本堂を見上げた。

 風雨にさらされてきた屋根や柱は独特な味を出していた。伽藍は年月を経て荘厳さが増している。総国分尼寺とされている法華寺には、人を拒むような威厳があった。

 本堂の玄関で陽候が数人の尼僧を連れて出迎えてくれた。宮中と同じように、法華寺の中では年末の大掃除や新年を迎える準備に尼僧たちが忙しく動いていた。

 陽候は、今日も、水が切れた花のように元気がない。田村弟たむらだいに戻ってくるたびに、孝謙に仕えるのは気が滅入ると愚痴を言う。ひょっとしたら、自分の代わりに孝謙にいじめられているのかもしれない。宇比良古と違って、采女の長以上になれない陽候には、孝謙の世話は荷が重すぎる。

 憂鬱な気分になるのは陽候だけではない。太政官に法華寺に行ってこいと言うと嫌な顔をされるようになってしまった。法華寺に裁可を求めに入る太政官は、あれこれと文句を言われたり、取るに足りない事を問題にされたり、延々と議論したあげくに最後は良きに計らえと投げ捨てるように言われる。特に宿奈麻呂の一件があってからは露骨になってきた。孝謙は自分へ意趣返しをしているつもりだろうか。

 法華寺は平城宮の東隣にあるというのに田村弟よりも遠い。

「道鏡様が今日も同席されます」

 陽候が耳打ちしてくれた。憂鬱の種が二つになる。

「また道鏡が出てくるのか。太上天皇は道鏡に籠絡されてしまったのか。保良宮の時は何もなかったのかもしれないが、今でも本当に何もないのか」

 陽候は分からないというそぶりをした。

 せわしく働いている尼僧を横目に見ながら、陽候に案内されて部屋に入ると、上座に孝謙太上天皇と、盛装した道鏡が仲良く並んでいた。盛装しても道鏡に狐のような人相を隠すことはできない。部屋は西日が差し込んで明るく暖かいが、空気は重い。

 道鏡は心の中で落ち度を探そうと舌なめずりしているに違いない。何故に孝謙は道鏡などという心根が賤しい者を側に置こうとするのか。

「正月の昇叙案です。お目通しをいただきたく持参しました。すでに天皇様には承認していただいております」

「国家の大事は私が裁可すると言ったはずです。先に天皇に見せるとは何事ですか」

 孝謙の刺のある言い方が仲麻呂の心を逆なでする。

 すでに案は送ってあるから今日は挨拶程度で済むはずなのに、最初から突っかかってくるとは、孝謙に何か含むところがあるのだろうか。それとも、すまし顔で横に座っている道鏡が何か仕掛けてくるのか。

「賞罰は太上天皇様がお決めになります。天皇と太政官で議論した案について、最終判断をいただきに参りました」

 孝謙から昇叙案を渡された道鏡は、ちらりと見ながら語る。

「造東大寺判官の葛井根道と礼部れいぶ少輔しようゆう(次官)の中臣伊加麻呂が酒の席で朝廷を誹謗したと聞いています。昇叙の前に二人を遠国に配流すべきです。造東大寺長官の市原王にも監督責任を求めるべきでしょう」

 道鏡は若者のように張りのある声をしているが、言葉には嫌みが籠もっている。仲麻呂は道鏡を睨みつけた。

「誰の密告を聞いたのかは知りませんが、法師殿は政に口を出すべきではないかと」

「道鏡禅師は仏教のみならず四書五経や律令にも通じています。私が特別に許可しました」

「酒の席の戯言ですので、寛大な処分で済ませてやってはいかがでしょうか」

「大師様の温情に臣下は感激するかもしれませんが、根道や伊加麻呂の言葉は指斥乗輿しせきじようよに当たりますので厳しく罰しなければなりません」

「聖武太上天皇様は、橘左大臣が酒の席で愚痴を言ったことを笑ってお許しになりましたが、法師殿はどのような量刑をお望みかな」

「指斥乗輿は死罪です。法は厳格に守らねば権威が下がり誰も従わなくなりますが、恩情がなければ鋭い刃物となります。死罪にすべきところを、罪一等を許し、葛井根道は隠岐に配流、中臣伊加麻呂は大隅守に左遷、市原王は造東大寺長官を解任し散位(無役)がよろしいでしょう」

 山法師が知った風な口をきく。

「市原王は今年の四月に役職に就けたばかりです。部下の責めを負わせるのはいかがなものかと。指斥乗輿の事実があったかどうか調べ、朝議に処分の案を諮ります」

「禅師の言うとおり、二人を左遷、市原王を解任しなさい。私が国家の大事を裁可するのです。後任の長官には、大宰府から吉備真備を呼んで当てなさい」

 言わせておけば、いちいち癪に障る。孝謙は自分が持ってきた昇叙案に「可」と朱書きするだけでよいのだ。

 二人が朝廷の悪口を言ったかどうか知らないが、自分の息がかかった市原王を東大寺から追い出して、後任に、孝謙に近い真備を据えたいということか。みえすいた理由など出さずに、市原王を解任して真備を呼び戻したいと言ってくれた方が何倍かすっきりする。

「真備には大宰府で行軍式を作らせ、新羅討伐の用意をさせています。行軍式には軍事に精通した真備が必要です」

「卿は、行軍式はできあがっているが、軍船や武器の準備が不十分だと言いました。真備を都に戻し、東大寺を作らせると共に、軍船や武器についても監督させます」

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