権力の低下

 翌三月二日の夕方、仲麻呂は宿奈麻呂が取り調べを受けている左兵衛府をのぞいた。

 薄暗く黴の臭いがする土間で、宿奈麻呂は柱に縛り付けられ、力なくうなだれていていた。

 両腕は柱の後ろに回され、胸や胴は荒縄が食い込むまでに縛り付けられている。ぼろぼろに破れた衣の下には、杖で打たれた跡が生々しくのぞいていた。髪は乱れて垂れ下がり、顔は赤や青の痣ができて腫れている。袖が破れた右腕には、血が二筋垂れていた。

 奈良麻呂が梁から吊されていた姿が宿奈麻呂に重なって見える。奈良麻呂の時は土間にあふれるほどの人が取り調べを受けていたが、今回は宿奈麻呂一人だけだった。いずれ、土間は人であふれ、泣きながら許しを請うようになるだろう。

 早朝の雨で冬に戻ってしまい、建屋の中でも吐く息が白くなる。

「宿奈麻呂は白状したのか」

 取り調べに当たっていた元忠は首を横に振る。

 衛士が桶にあった水を勢いよく宿奈麻呂にかけると、宿奈麻呂は顔を上げて仲麻呂を睨みつけてきた。水が血を洗い流して落ちてゆく。何回も水がかけられたらしく、宿奈麻呂が縛られている柱の根元は、泥になっていた。衣はびしょ濡れになっていて、見ているだけでも寒くなる。

「どんなことをしても良い。今日中に仲間の名前と企ての全貌を自白させよ」

 元忠の振るう杖が、鈍く嫌な音を立てて宿奈麻呂の体に食い込むと、衣から水しぶきが飛び散った。

「自白すれば楽にしてやろう。私を殺すことを誰と一緒になって考えた」

「俺一人で考えたことだ」

「嘘を言え!」

 仲麻呂の怒鳴り声が部屋の空気を揺らした。再び杖が振るい下ろされて鈍い音が出る。

「お前が佐伯今毛人や石上宅嗣とつるんでいたことは分かっている。大伴家持や淡海三船も関係しているのか」

「俺一人で考えたことだ。他の奴など知らない」

「しらを切り通すのもよかろう。私を殺そうとした者は、従兄弟だからといって容赦はしない。奈良麻呂たちと同じように杖下で苦しみながら死ね。お前の自白がなかろうとも、私に逆らう者は一網打尽にする。じきに今毛人や宅嗣が連れられてきて、お前と並んで責められるようになる。誰が一番大きな声で泣くのか楽しみだ」

 仲麻呂が声を出して笑うと、再び宿奈麻呂が睨みつけてきた。顔は血と涙でぐしゃぐしゃになっているが、目は怒りで燃えていた。

 元忠は何回も杖を振るい、宿奈麻呂はうめき声を上げる。

 ぼろぼろになってきた衣の下に、血にまみれた肌が見えてきた。宿奈麻呂は首を垂れて声も出さなくなった。杖を振るうのに疲れた元忠が水を飲んで休憩を取る。

「強情な奴だ。本人が口を割りそうにないときは、肉親が痛めつけられるのを見せるのがよい。古美奈こみな詫美わびみを連れてこい」

 宿奈麻呂は、人を殺しかねないほどの怒気を出して睨みつけてきた。

「卑怯な! 古美奈は女で、詫美は子供ではないか。お前に人の情はあるのか」

「人の情けを知るからこその策だ」

 仲麻呂は鼻で笑う。

「なぜ私を殺そうという馬鹿なことを企てたのだ」

「お前が朝廷を私しているからだ。親子四人が参議になるなど前代未聞。人徳がないにもかかわらず太政大臣におさまり、台閣をお追従で固めている」

「太政大臣ではない大師という。お前の位階が十数年上がらないのは、お前が無能だからだ。有能な者がお前を追い越すのは当然だ」

 宿奈麻呂が手足を動かそうとしたときに、外が騒がしくなった。

「今毛人や宅嗣が連れられてきたらしい。地団駄踏んで見ていろ。じきに古美奈や詫美にも合わせてやる」

 部屋の中に男が一人だけで入ってきて、仲麻呂の前に跪き、

「藤原北家の永手様、八束様からです」

 と言って木簡を差し出してきた。

 木簡には、「宿奈麻呂の取り調べをすぐ止めて家に帰すよう。従わない場合、藤原北家は仲麻呂と縁を切る。太政官会議で問題にする」と書いてあった。

 二人とも自分のおかげで従三位中納言になったというのに、恩を仇で返すとは、許さない。宿奈麻呂の件が済んだら左遷決定だ。いや、宿奈麻呂の件に絡めて、官位官職を取り上げて流罪にしてやる。

 仲麻呂が木簡を放り投げると、替わって真先が男を連れて入ってきた。

 男は仲麻呂の前に跪くと「藤原京家の浜成様からです」と言って木簡を差し出してきた。

 木簡の内容は、永手からのものと同様であった。

 仲麻呂は木簡を宿奈麻呂にぶつけた。宿奈麻呂の額が割れて、血が流れ出した。

 次いで、訓儒麻呂が、式家の百川、蔵下麻呂を連れて入ってきた。二人は鎧に身を固め、大太刀を佩いていた。

「宿奈麻呂の取り調べ中だ。式家の人間は帰れ。それに、宮中で鎧を身にまとい太刀を持つとは何事か。お前たちも宿奈麻呂と一緒に謀反を起こそうというのならば捕縛する」

「帰れと言われて帰る訳にはいかない。宿奈麻呂を返してもらおう」

 百川と蔵下麻呂は、鎧甲に身を固めた屈強な男十人を土間の中に招き入れた。それぞれに大太刀を佩いていて、うち二人は、矢筒を背負い弓も持っていた。

 仲麻呂、訓儒麻呂、元忠らは壁際に追いやられてしまった。

 北家、京家に続き、式家までが強気に出てきた。従兄弟を憐れんで情けを掛けようというのではあるまい。そもそも、公卿の列にさえ入っていない百川や蔵下麻呂が、正一位の自分に対して、兵を従えて恫喝するなどありえない。

 自分を襲うというのは、宿奈麻呂と今毛人、宅嗣だけの企みかと思っていたが根が深い。おそらく永手たちも何らかの関係があるに違いない。

 藤原式家を潰すことは容易いが、藤原一門を潰せば都は騒然とする。

 いかにすべきか。

 百川、蔵下麻呂は自信に満ちた顔をしている。

 大師の自分に剣を向ければすなわち謀反だ。蔵下麻呂たちは謀反には問われないという自信があるから強気でいられる。公卿百官の筆頭である自分を恐れる必要がない、剣を持って立ち向かえる人間は…… 孝謙太上天皇?

 土間で仲麻呂と百川たちがにらみ合いをしているときに、山背王と藤原千尋が入ってきた。二人の顔は、仲麻呂と蔵下麻呂たちの険悪な雰囲気に、みるみる固まってしまった。

 今すぐに争いが始まる訳ではないと判断した山背王は、仲麻呂と蔵下麻呂を交互に見ながら状況を報告してきた。

「佐伯今毛人殿、石上宅嗣殿、大伴家持殿は太上天皇様のお召しにより法華寺に入っています」

「太上天皇のお召しで法華寺へ? 奈良麻呂の時のように説教をしているというのか」

「いえ、陽候殿の話では、太上天皇様は酒や肴を出してもてなしているそうです」

「今毛人たちは孝謙に守られているとでもいうのか」

 山背王や千尋は困った顔をした。

 柱に縛り付けられてうなだれている宿奈麻呂が、薄ら笑いしたように見えた。

 宿奈麻呂が強情をしていられるのは孝謙とつながっているからだ。永手や八束、蔵下麻呂も孝謙が後ろ盾になっているから強気で釈放せよと要求してくる。

 今毛人や宅嗣が法華寺にいて孝謙にもてなされていては手出しができない。

 すべてが孝謙でつながった。

 孝謙との仲は保良宮以来うまくいってないが、敵対されるいわれはない。黒幕は、永手や八束だ。奴らは孝謙に取り入って自分を陥れるために、あらぬ事を吹き込んでいるに違いない。孝謙は永手たちの讒言を見抜けない愚か者で、大恩がある自分を排除しようとしている。

 自分は正一位大師だ。何故に最高権力者に逆らおうとする愚か者が多いのか。全員許すことはできない。

 ただ、いくら権力を握っているとはいえ、太上天皇を担いで束になって攻められれば分が悪い。孫子は「十なれば即ちこれを囲み、少なければ即ちこれを逃れ」と言う。宿奈麻呂を杖下に殺し、永手と八束を左遷し、佐伯今毛人や石上宅嗣を流罪にしようとすれば、回りじゅう敵だらけ、四面楚歌の状況になってしまう。永手や今毛人たちを分断し、折を見て一人ずつ片付ければよい。

 だとすれば、宿奈麻呂の件を長引かせて敵の術中に陥ってはならない。

「真先は宿奈麻呂を家に帰してやってくれ」

 百川と蔵下麻呂は薄ら笑いすると、兵を使って宿奈麻呂を柱から解き始めた。

「お父様。宿奈麻呂は謀反を企てて我らを殺そうとしたのです。謀反は一人ではできません。このまま帰して良いのですか」

 真先と蔵下麻呂は睨み合った。

「状況が変わった。宿奈麻呂の望みどおり、一人で企てたことにする」

 縄をほどかれた宿奈麻呂は仲麻呂を睨みつけ、何かを言いたそうに口を開けたが、崩れ落ちるように座り込んでしまった。

 百川と蔵下麻呂は、宿奈麻呂を戸板に乗せて出ていった。

 仲麻呂は蔵下麻呂たちの後を追うように、黴臭い土間から出た。左兵衛府の外は夕焼けで赤くなっていた。

「お父様は宿奈麻呂をお咎めなしにするつもりですか」

「官位官職、氏姓を奪い放逐する」

「それだけでいいのですか。今毛人や宅嗣、家持はどうするのですか」

「広嗣は単独で兵を挙げたから、殺しても文句は出なかった。むしろ藤原一門に迷惑をかけたから、式家は冷遇さた。今回の宿奈麻呂の背後には、永手や八束、孝謙がいる」

「今毛人や宅嗣だけではなく、永手叔父や八束叔父がいるとは」

「もし、二人と宿奈麻呂に関係なければ、広嗣のように見捨てるだろう。宿奈麻呂をとらえて間もないというのに釈放を要求してくるのは、宿奈麻呂が口を割って関係が明らかになるのを恐れたからだ。いずれにせよ宿奈麻呂を殺せば、藤原一門が騒然となる」

「太上天皇様は?」

「今毛人や宅嗣、家持をかくまっている。法華寺に入って今毛人らを捕まえるのはたやすいが、孝謙と正面から衝突することになる。孝謙の元に人が集まっているときに、正面からぶつかるのは分が悪い。宿奈麻呂が謀反を企てたことは自白したが、名前を奪って追放するぐらいしかできない」

 真先は唇を噛み、山背王、千尋、訓儒麻呂は顔を見合わせた。

 烏の群れが仲麻呂をあざけるように鳴きながらねぐらへ飛んでゆく。夕焼けは終わり黒い雲が広がってきた。夜中に一雨来るらしい。

 奈良麻呂の乱の時のように後手に回ってはいけないと考えて、すぐに動いたが拙速だった。弓削男広が「日時や兵の手配までは話が進んでいない」と言ったのだから、裏をしっかり取れば良かった。

 孝謙、永手、八束、今毛人、宅嗣、家持…… 絶対に許しはしない。いずれ片を付けてやる。

 仲麻呂は真先たちと別れて太政官院へ向かった。

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