藤原宿奈麻呂の

藤原宿奈麻呂の変

 天平宝字七年(七六三年)三月一日の夕方、田村弟でくつろいでいた仲麻呂の元に、弓削男広ゆげのおひろという舎人が「申し上げたい儀があります」と尋ねてきた。

 仲麻呂は、無冠の男が田村弟まで来て謁見を求めることに腹が立って、追い返せと取り次ぎに命じたが、鶯の声に気をよくして、会ってみることにした。

 仲麻呂の前に現れた男広は、小さな体に貧相な顔つきをしていた。仲麻呂の権威に畏れをなし、土間でうずくまっている。夕日が土間から出て行き暗くなったので、家人が火皿を持ってきて灯した。

 仲麻呂が土間の上がり口にかがみ込んで「話せ」と命令すると、男広は声を震わせながら答えた。

「自分が仕えています藤原宿奈麻呂様が、佐伯今毛人様、石上宅嗣様、大伴家持様といった方々と密議をなさっております」

 藤原宿奈麻呂は、藤原式家の後継者である。兄の広嗣が大宰府で兵を挙げたときに、連座して伊豆へ流されたが、その後許され越前守や上総守といった地方官や、民部少輔などの京官を歴任していた。しかし、十七年以上にわたって官位はほどんど上がっておらず、四十七歳になっても従五位上であった。

 密議という言葉に、仲麻呂は血が頭に上るのを感じた。

「密議とは何か。橘奈良麻呂のように謀反を企てているのか」

 仲麻呂のきつい言葉に、平伏する男広は声も体も震える。

「都にて兵を挙げ、大師様とご一家を亡き者にしようと考えておいでです」

「何ということだ。奈良麻呂と同じ事を考えている」

 大声を上げて立ち上がった仲麻呂の前に、男広は蹴れば転がってゆくくらいに体を小さくした。

「私を殺そうとは思い上がりも甚だしい。公卿の末席にしか居場所がない者が、何を思って最高権力者である私を殺そうというのか」

 仲麻呂の怒鳴り声に、男広は言葉をなくした。何回か怒鳴られてようやく蚊の鳴くような声を出した。

「宿奈麻呂様は藤原式家の氏上ですが、ご自身の官位が上がらないことに不満を持っています。宿奈麻呂様よりずっと年下の真先様が参議になられたことにたいそうお怒りになり、今毛人様や宅嗣様を誘って大師様を亡き者にする話を始めました」

「企てはどのくらい進んでいる。他に誰が加わっている。いつ襲ってくる」

 矢継ぎ早の質問に、男広はたじたじになりながら答える。

「数回の会合を持ちましたが、未だ日時や兵の手配までは話が進んでいません。自分は大師様に弓を引くのが恐ろしいので密奏に参りました。なにとぞ……」

 男広の声は途切れていった。

 自分は大師として政を総覧し多くの人間から頼りにされている。宿奈麻呂にいかほどの権力や人望があるというのか。赤の他人ならまだしも、藤原の氏上を殺そうとする了見とは何か!

 仲麻呂は大声で陽候を呼んだ。

「こいつには聞きたいことがある。酒と肴を出してもてなしてやってくれ。山背王と藤原千尋に田村弟に来るよう使いを出せ。巨勢麻呂、真先、訓儒麻呂もすぐに呼んでこい。宿奈麻呂の大馬鹿者に身の程を知らせてやる」

 庭に面した廊下に戻ると、すっかり日は落ちて、明星が輝く空を黒い雲が覆い始めていた。夜半には雨になるだろう。

 冷たい風に吹かれていると、顔の火照りがおさまり、ねぐらに帰る烏の声が気分を落ち着かせてくれた。

 都には、宿奈麻呂のように、自分の権勢をねたむ者が燻っているのだろう。宿奈麻呂の企みを奇貨として、自分に反対する者はどうなるのか見せしめにしてやる。

 禍転じて福となす。

 奈良麻呂の乱では自分や天皇に反対する者を一掃した。宿奈麻呂、佐伯今毛人らに加えて、永手や八束など不満を持つ輩を一網打尽にして、朝廷の風通しを良くしてやる。宿奈麻呂は藤原恵美が栄えるための肥やしになってもらい、公卿百官に自分の力を思い知らせてやる。

 仲麻呂が深呼吸したとき、真先と訓儒麻呂が揃ってきた。

「宿奈麻呂を捕らえてこい」

 二人は顔を見合わせる。

「なぜ叔父さんを捕らえるのですか」

「宿奈麻呂は、兵を挙げて我々を襲う計画を立てていた。奈良麻呂の乱を再現して私に反対する者を一掃し、お前たちが朝廷で活躍しやすくしてやる」

「叔父さんを捕まえるというのは……」

「甘いぞ真先。宿奈麻呂は謀反を企てて我らを殺そうとしている。謀反は藤原一族であろうとも容赦してはならない。それに、我らはすでに藤原恵美の一族だ。北家、式家、京家とは違う」

 しばらくして、山背王と藤原千尋が息を切らせてやってきた。仲麻呂が事情を話すと二人も同様に驚いた。

 山背王が進言する。

「宿奈麻呂殿が昇進が遅れていることに不満を持っているのであれば、昇叙を餌に懐柔してはいかがでしょうか。二階級特進させれば、大師様に忠誠を誓うことでしょう」

「懐柔策は採らない。自分に反旗を揚げる愚かしさを公卿百官に示す。佐伯今毛人や石上宅嗣も関係しているという。千尋は二人をしょっ引いてくれ。真先は宿奈麻呂を捕らえ、百済王元忠くだらのこにしきげんちゆうに調べさせよ。拷問して謀反の全貌を自白させよ。山背王は逮捕する者の一覧を作れ。一覧には道鏡の名前も入れよ」

「道鏡殿が宿奈麻呂殿とつながっているのですか。それに、逮捕する者の一覧と言われましても……」

「藤原恵美の邪魔になる者や気に入らない者で良い」

「宿奈麻呂殿に関係ない者であっても?」

「関係があろうとなかろうとかまわない。宿奈麻呂が自白したことにして、一気に放逐してやる。証拠や罪状は後から荷車いっぱいに運んでこさせる」

「道鏡殿もですか」

「くどい! 道鏡は孝謙の側で政に口を出すようになってきた。孝謙は道鏡の言うことばかり聞き、我々の言うことを通さなくなっている。お前たちも困っているだろう。宿奈麻呂と道鏡に関係があってもなくても、一緒に葬ってやる。敵に後れを取れば我々が殺される。奈良麻呂の乱の時のように出遅れてはならない。宮中の兵を使いさっさと取りかかれ」

 真先たちは駆けだしていった。

 庭に出るとすっかり闇が降りていた。空は厚い雲に覆われて星は一つも見えない。

 天下は藤原恵美の一族のためにあるのだ。

 道鏡も連座させて遠国へ放逐してやる。道鏡がいなくなれば孝謙のまわりに人はいなくなって、自分の言うことを聞かざるを得なくなる。

 陽候が夕餉の準備ができたと告げに来た。

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