権力の継承

 年足の葬儀が終わって十日も経たない日の朝、仲麻呂の第二妻である氷上陽侯ひかみのようこうが大伴犬養の使いを連れて部屋に入ってきた。

「主人である大伴犬養は昨日の夜半に亡くなりました。生前は大師様にかわいがっていただき感謝しております。残された家族も同様によろしくお願いします、との遺言でございます。葬儀などは決まっておりませんが、先ずはご一報に参上しました」

 犬養の家人は一礼すると仲麻呂の前を去っていった。

 仲麻呂は大きなため息をついた。

 陽候を連れて階を中庭に降りると、山から登ったばかりの朝日が顔を照らしてきた。筋雲を朝日が照らして、鮮やかな朝焼けを作る。庭の木々は葉を落とし冬支度を済ませていた。吐く息はまだ白くないが、寝間着をなでてゆく風は冷たく、瞬く間に体温が奪われて凍えた。

 大伴犬養。

 大伴氏の傍流で、氏上うじのかみである家持とは折り合いが悪いから、自分に近づいてきた。若くて、行動力も決断力もある男だった。何を任せてもそつなくこなすから、自分に石川殿がいたように、真先の知恵袋にしようと引き上げていたのに…… まだ、死ぬような年ではない。石川殿に続いて、犬養まで失ってしまった。

広刀自ひろとじには?」

「さっそく話してきます」

 陽候は母屋へ駆けていった。

 宇比良古うひらこならば、真っ先に犬養の娘である広刀自に知らせたろうに。陽候は宇比良古ほど頭の回りが良くない。お姫様育ちだからおっとりとしすぎている。典侍ないしのすけとして法華寺に送り込んだが、孝謙は私を警戒しているから、陽候は采女の立場を抜け出ることができないでいる。宇比良古ならば孝謙に意見もでき、動向も逐一教えてくれたろうに。宇比良古が生きていれば、孝謙との仲も取り持ってくれたろう。陽候では宇比良古の代わりにはなれない。

 日が昇るにつれて、朝焼けは散ってゆき、朝餉の支度に田村弟たむらだいの中が騒がしくなってきた。

 仲麻呂は縁側に腰を掛けた。板の冷たさが寝間着を伝わってくる。

「光明皇太后様の後を追うように、一人ずつ逝ってしまう」

 仲麻呂は「ふっ」と鼻で笑った。

 誰もいないのに話しかけるとは、自分も年をとってしまった。

 宇比良古、石川殿、そして今日は大伴犬養が死んだ。櫛の歯が欠けていくように、自分の回りの者たちが死んでゆく。変わらないと思っていても、時は空に浮かぶ雲のように流れてゆくのだ。

 自分は聖武天皇様の亡くなった年を追い越し、光明皇后様の亡くなった年に近づいている。気力、体力があり体の自由がきくうちに、人生の総仕上げをしておくべきだ。

 力は山を抜き、気は世を蓋う

 白髪は嫌になるほど増えてきたが、子供たちは人もうらやむほどに頼もしくなってきた。藤原恵美の一族が末代まで栄える基盤を作り人生の総仕上げとしよう。

 人の気配に横を向くと、朝日に照らされて真先が立っていた。

 真先には仲麻呂にない若さがあった。

「大伴犬養殿が……」

「ああ、聞いた。弔問に行ってくれるか」

 真先は黙った肯いた。

 真先は参議にしてから頼もしくなった。自分とは違い、ぬばたまの髪の毛で、顔の艶はよく、腹もたるんでいない。目は将来を見て、押さえきれない生気が体から出ている。藤原恵美の嫡男として、一族を任せるに足りる人間になってきた。

 しかし、まだ子供。政の経験や人を動かす迫力に欠ける。自分が死ぬ前に、真先や子供たちが存分に権勢を振るえるようにしておかなければならない。

「今年は訓儒麻呂くずまろ朝狩あさかりを参議に加える。辛加知しかちには越前守、執棹とりさおには美濃守を任せ、一、二年たったら都に戻して参議の列に加える。幼い子供たちも二十一になったら五位を与える」

「親子四人が参議になるとは前代未聞のことです」

「驚くことはない。自分は則闕そつけつの官とされている大師になるなど、前代未聞なことを幾つもやってきた。藤原北家は、永手、八束、清河、千尋と四人の参議を出している」

「清河叔父さんは在唐で千尋叔父さんは父様の派閥ではないですか。藤原恵美の家から四人も参議に出したら、台閣を乗っ取ると批判されます。台閣は伝統氏族から一人、多くても二人を出して構成してきました。恵美の人間で台閣を占めれば、他の氏族や分家から嫉まれます。それに、越前は愛発関、美濃は不破関を持つ重要な国で、近江は昔からお父様の元にあれば、都を恵美一族で囲むことになり、日本を乗っ取ろうとしていると陰口をたたかれます」

「都を囲むようにとは、良い言い方をする。畿内の国司には息が掛かったものを配置し、私になびかないものは遠国に飛ばそう」

「それでは……」

「お前はまだ政というものを知らない。権力は生き馬の目を抜くようなものだ。盤石にしておかなければ足をすくわれる。山背王と石川豊成も参議に加えて、台閣を藤原恵美の色で塗りつぶせば、他の氏族は自然と力がなくなり、藤原恵美の門に頭を下げるようになるのだ」

「ですが、北家の永手叔父さん、式家の宿奈麻呂叔父さんたちや、太上天皇様が……」

 孝謙がほぞを噛んでも、永手や宿奈麻呂が何を考えようが、家持のように、僻地で歌を詠むことしかできなくなるのだ。

 大伴家持、石上宅嗣いそのかみやかつぐ佐伯今毛人さえきのいまえみし。奴らは倭以来の伝統氏族であることを誇りにし、藤原恵美を歴史が浅いと心の中で笑っているかもしれない。しかし、伝統がなんだというのだ。権力の前に伝統など無力ではないか。

 永手、八束、宿奈麻呂の従兄弟たちも同じだ。親が高位に上ったから蔭位おんいの制で位をもらい大きな顔をしているだけで、何の仕事もしていなければ、成果も出していない。親の七光りだけの人間は歴史に埋もれれば良いのだ。

「台閣構成に不満が出るようであれば、白壁王と中臣清麻呂を参議に加え、文室浄三には神祇官を与えよう。藤原恵美に頭を下げることが得か、陰口をたたくことが利口か、愚か者でも分かるようにしてやる」

 風は冷たいが、朝日に照らされて体は心地よく温かくなってきた。

「曾祖父中臣鎌足は、天智天皇に尽くし藤原の氏姓と大織冠をいただいた」

 真先は肯いた。

「祖父不比等は大宝律令を作り国の基礎を築いた。父の武智麻呂は三代の天皇に仕え名声を得た。私は奈良麻呂の乱を未然に防ぎ、朝廷を唐風に変革して藤原恵美の氏姓を賜った。私の代から藤原氏は藤原恵美に代わる。真先は藤原恵美の二代目として、人々を従え家をもり立てよ」

 真先は力強く返事をした。

「まずは、大伴犬養の弔問に行ってくれ。惜しい人間をなくした……」

 仲麻呂は真先の後ろ姿を見送ってから、腰を上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る