腹心の死

石川年足薨去

 宇比良古が死んだ三ヶ月後には、石川年足の訃報が入ってきた。仲麻呂は淳仁天皇の許可を取って葬儀が行われている飛鳥の山田寺に出かけた。

 山田寺は孝徳朝で右大臣みぎのおおおみを務めた蘇我倉山田石川麻呂が発願した蘇我氏の寺である。近くを流れる小川沿いに小さな集落があり、門前に広がる田は稲が重そうに穂を垂れ刈り入れを待っていた。後ろに控える山はまだ青く、紅葉まで時間がかかるらしい。空は鰯雲で覆われ、やわらかい日の光が降り注ぐ。何本もの旗が立てられ、紫の吹き流しが、気持ちの良い秋風に泳いでいる。

 普段は近くの村人ぐらいしか訪れる人がいない山寺は、葬儀に来た人であふれ、厳粛な雰囲気と読経の声に包まれていた。

 寺は百年以上前の造りなので、東大寺や法華寺に比べると小さく、門前には、境内へ入れない人のために臨時の祭壇が設けられていた。

 こざっぱりした喪服を着ているのは、年足が長官を務めている式部省の関係者や石川一族の有力者であろう。着古した喪服は近くの村長かもしれない。久しぶりにあった人同士で挨拶を交わし、年足の親族にはお悔やみを述べている。野良着の男たちも大勢来ていて祭壇の前で、神妙な顔をして手を合わせていた。

 石を合わせて作られた即席の竈で煮炊きが行われ、女たちが炊き出しや接待に忙しく動き回り、母親にかまってもらえない幼子が泣いていた。篝火も十数基用意されている。石川一族だけではなく、近郷の村人総出で葬儀を行っているらしい。

 仲麻呂が門前で輿から下りると、白い喪服姿の青年が出迎えてくれた。

「石川年足の長男の石川名足いしかわなたりと申します。生前は父が大変お世話になりました」

 蘇我氏の本流は天武天皇から石川の氏を賜って年足まで続いていた。

 名足と妻と見られる女が一緒に頭を下げる。

「石川殿は名族の氏上にふさわしい見識と人柄を備えた人物であった。私ににとって兄のような存在で、時に意見もしてくれたし、公卿として私の代わりに太政官をまとめてくれてもいた。石川殿なくして今の自分はない。宇比良古が右腕ならば、石川殿は左腕であった」

「過分なお言葉ありがとうございます。父も泉下で喜んでいることでしょう。父同様に私もお引き回しください」

 名足に案内されて中門をくぐると、天皇が弔問に派遣した佐伯今毛人さえきのいまえみし大伴家持おおとものやかもちに出会った。新調した喪服に身を包んだ二人は無言で頭を下げ、仲麻呂の背中に回った。

 境内は年足の性格を表すようにきれいに掃き清められていた。寺の中央には空に伸びる五重の塔があり、朱色に塗られた柱は、寺を囲む白壁の塀と良く合っている。先端の相輪は金色に輝いて天を突き、金堂は百年の風雪に耐えた威厳を備えていた。

 金堂に入る順を待っていた人は、仲麻呂に気づくと道を空け、立て膝になって頭を下げる。

 七十五歳という天寿を全うし、誰もが大往生したと考えているせいか、声を上げて泣く人や目を腫らした人はおらず、悲壮感はただよっていない。

「石川殿は多くの人に惜しまれて亡くなったのだな」

 名足は「恐縮です」と頭を下げた。

 金堂に入ると十人の僧たちは読経を止めた。

 仲麻呂たちは祭壇の前に座って両手を合わせ頭を下げる。

 佐伯今毛人は、持ってきたしのびごとを読み上げ始めた。十人の僧侶、名足をはじめとする石川一族五十人ほどが頭を下げる。

 奥に鎮座する薬師如来は亡くなった年足と参列の人々を包み込むような眼差しで見つめていた。如来の前の祭壇は多くの秋の花で飾られていて、中央に年足が横たわっている。

 苦しむことなく、子供や孫に看取られて亡くなり、年足は満足そうな顔をしていた。

 多くの供物が年足の遺徳を偲ぶように供えられている。年足が出雲守を務めていたときに、善政を聖武天皇から褒賞されたときの詔が枕元に立ててあった。

 正三位御史大夫(大納言)兼文部卿神祇伯石川年足。

 私と出会ったときは従五位下出雲守と官位官職が低かった。何故に出世が遅れていたかは知らないが妙に気が合い、私の足りないところを補ってくれた。一緒に政を行い、一緒に出世してきた。私が正一位になれたのも、世辞ではなく石川殿のおかげだ。七十五歳の高齢でしかたがないこととはいえ、惜しい人を亡くしてしまった。宇比良古と同様に、なくしてから大きさが分かる、自分にとってかけがえのない人だった。

 皇太后様、藤原乙麻呂、巨勢堺麻呂、宇比良古、石川年足…… 自分が頼りとし、手足となってくれていた者たちが次々と死んでゆく。悲しいと感じるが、涙が出てこないのは年をとって枯れてしまった証しだろうか。手はかさかさに乾き、顔の張りはなく皺が深くなった。髪は白髪の方が多く、少し歩けば息が切れるようになった。自分も五十七歳であればじきにお迎えが来るかもしれない。まだまだ元気で気力に満ちている、今のうちに真先まさきたちのためにできることをしておかなければならない。

 できること……

 真先や訓儒麻呂くずまろにしっかりと権力を渡すことだ。

 保良宮の一件以来、孝謙にはすっかり嫌われてしまった。いわれのない怒りだが、昔のように「父と思う」などという関係には戻れそうにない。孝謙は親が憎けりゃ子も憎いとでもいうのだろうか。天皇に親しい者や私の息子たちにも冷たい。法華寺には道鏡をよく呼んでいるというし、永手や八束たちも出入りしていると聞く。

 はっとして祭壇を見ると、今毛人と家持の誄は終わっていて、天皇からの下賜品が披露されていた。

 抹香の香りが強くなったと思ったら再び読経が始まった。読経が終われば葬列が組まれ荼毘に付されるのであろう。

 仲麻呂は金堂から砂利が敷き詰められた境内に下りた。参列者は増えていて、きちんとした喪服を着た人でさえも境内には入れないほどの人数になっていた。

 門を出て、仲麻呂は、鰯雲が広がる空を見ながら深いため息をついた。

 石川殿は石川一族の氏上として一族から頼りにされていただけではなく、近郷の村人たちにも慕われていたらしい。良い葬儀というのは変な言い方であるが、石川殿の葬儀は本当によい葬儀であった。自分が主催した聖武天皇様や光明皇太后様の殯儀ほどの盛大さはないが、多くの人が心から死を悼み参列していて、敬意を感じることができる。心のこもった葬儀で送り出されるのは、石川殿の遺徳と言うべきだろう。

 自分の葬儀の際には、きっと真先が正一位にふさわしい葬儀を営んでくれる。田村弟から東大寺へ葬列は仏を送るように荘厳華麗。都中の人が泣き、天皇、皇后が自ら誄を読む。大赦が発布され、鰥寡孤独には救恤米が施されるのだ。きっと石川殿の葬儀に負けない良い葬儀が営まれるに違いない。

 仲麻呂は、名足や石川一族に見送られて山田寺を後にした。

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