第四章 凋落の兆し

淳仁の謝罪

和解工作

 雨は上がっているが空は厚い雲に覆われている。じきに雨が降ってくる。梅雨末期の大雨で、都の大路・小路は泥だらけになり、佐保川や堀川は氾濫しそうなくらいに水嵩が増している。平城宮の庭も水浸しになっていて、沓は濡れ、歩くたびに裾から水が上がってきて気持ち悪い。舎人や采女が水を掻き出しているが、再び雨が降ってきて無駄になるだろう。蛙はうれしそうに歌っているが、人々は外出を控え、宮も都もひっそりとしてた。大雨は人々の気分を重くする。からっと晴れた夏空が待ち遠しい。

 人生が雨粒のように、上から下に真っ直ぐ落ちるだけならば世の中に苦労はない。人生は、川の流れのように、あちらの岩に砕け、こちらの山にぶつかって曲がりくねるから苦労が絶えない。苦労や悩み事は良い思い出として振り返ることができるが、渦中にあって見通しが持てないときは辛いだけだ。台閣の頂点に上り詰め、天下を手の中に入れれば人生は思いのままで、気楽に楽しく過ごせると思っていたが、問題は思ってもないところから湧いて出てくる。人生とはままならない。

 仲麻呂は宇比良古に仲介してもらい、淳仁天皇を連れて法華寺を訪れた。

 詔によって、孝謙太上天皇と淳仁天皇の仲が悪いことが公になってしまった。国の頂点である二人の仲違いは、梅雨のじめじめとした空気以上に朝廷の雰囲気を悪くしている。

 二人に仲直りさせて、朝廷の風通しを良くしなければならない。

 法華寺も境内のあちこちに泥水がたまり、伽藍も植栽も雨に濡れて色をなくしている。

 天皇の車駕が到着したのに、誰も迎えに出てこなかった。

 境内は、無人とも思えるほど静かで、デーデポッポという山鳩の鳴き声だけが聞こえてくる。

 淳仁は車駕を降りると、水溜まりをよけながらふらふらと講堂に向かう。宇比良古があわてて淳仁に寄り添って支えた。

 講堂に入ってから淳仁の足は、錘を付けられたように遅くなり、孝謙の部屋の前で立ち止まってしまった。淳仁の後ろに付き添っていた宇比良古が、「天皇様」と優しく語りかけると、怪我をした足を引きずるように一歩踏み出した。

「天皇様は、ひたすら謝って下さい。私と宇比良古で太上天皇様のお気持ちをほぐします」

 仲麻呂の言葉に、淳仁は微笑もうとしたが、顔が引きつって笑うことはできなかった。

 孝謙は薄暗い部屋で仏頂面をして待っていた。固く結んだ口は怒りを溜め、険しい目は恐ろしいほどに光っている。仲麻呂たちは思わず孝謙の前にひれ伏した。

「天皇様はつまらぬ噂を拾い上げて、太上天皇様のお気持ちを害したことを深く反省しています。なにとぞお許しください」

 孝謙が口をへの字に曲げて、何も言わずに淳仁を睨みつけると、淳仁は上げた顔を素早く下げてしまった。

 仲麻呂は淳仁を肘で小突くと、淳仁は話し出そうとしたがうまく言葉が出ずに、激しく咳き込んでしまった。隣に座っていた宇比良古が、淳仁の背中を優しくさする。

「ほ、保良宮…… 保良宮では大変失礼いたしました」

 淳仁は言葉を継げず、再び頭を下げてしまった。

「天皇様は、太上天皇様のお怒りを買ってから食事も喉を通らないほどに反省しております」

 仲麻呂の言葉に孝謙は答えることなく、気まずい沈黙が流れる。

「私をはじめとして公卿百官は、太上天皇様が明るく清い方であること。道鏡法師は品行方正な僧であり太上天皇様とは身分が違いすぎることをよく知っていますので、太上天皇様と道鏡法師の間に何かあるなどとは思っていません。天皇は年若く、人生経験が少ないので下賤の者たち噂話に惑わされたのです。十分反省しておりますれば、なにとぞお許しください」

「噂話ですか……」

 孝謙の表情は相変わらず険しい。

「噂話をしている采女や都人は厳しく叱っておりますので、じきに噂は消えてなくなることでしょう」

「都でも人の口に上っているのですか?」

 淳仁天皇が、

「誠に申し訳ありませんでした」

 と声を絞り出すように言って頭を下げた。

「反省が足りません」

 孝謙の冷たい声が淳仁をたたきのめすと、淳仁は背を丸めて小さくなった。

「私が保良宮で受けた屈辱は今でもありありと思い出すことができます」

「太上天皇様と天皇様が不和であれば公卿百官が困ります。公卿たちは、太上天皇様が朝議にお出ましにならないので、朝議で決めたことを再度太上天皇様の前で説明しなければならず、政が滞るようになったとこぼしています。百官たちは、太上天皇様と天皇様のどちらに付いたらよいか話し出す始末です」

「藤原卿は私と天皇のどちらに付くのですか」

「もとより国家は太上天皇様と天皇様のお二人があって成り立ちます。臣下筆頭の私はお二人にお仕えします。なにとぞお怒りを鎮めて下さい」

「私を辱めたことを忘れよと言うのですか!」

 孝謙の勢いに三人は圧倒されてひれ伏した。

「太上天皇様は国家の中心であり、天皇をお導きくださるよ……」

「お黙りなさい」

 孝謙は仲麻呂の言葉を遮った。

「藤原卿は天皇の見方をするのですか! 卿も私のことをふしだらな女と思っているのでしょう。帰って顔を洗って出直してきなさい。卿が変な噂を流したのではないですか」

「決してそんなことはありません」

 孝謙天皇の表情は、仲麻呂たちが入ってきたときよりも険しくなっていた。顔は赤くなり、怒りの気迫が周囲を押しつぶすほどに出ている。睨むような目は人を殺しそうな勢いがある。

 大雨が屋根を叩く音で、仲麻呂は我に返った。土砂降りの雨はさらに激しくなり、大きな音と一緒に細かい露が流れてきた。

 反論もできないほど、頭ごなしに叱られたことは何十年となかった。部屋に入ってわずかな時間しか経っていないのに、一日よりも長く感じられる。宇比良古でさえ頭を下げたまま何も言えないでいる。孝謙に許してもらうことはできそうにない。

 仲麻呂は淳仁と宇比良古を連れて退席するしかなかった。

 廊下に出た淳仁は、気の毒になるほど青い顔をして足下もおぼつかない。

「いずれ太上天皇様の御勘気も解けるでしょう」

 本当は淳仁を叱りたいが、孝謙のあまりのつれなさと、淳仁の気の毒なほどのやつれように何も言えなくなった。

 皇太后様が生きていらっしゃれば、孝謙をなだめ、淳仁との仲を取り持ってくださったろう。いまさらながら皇太后様のありがたみを実感する。生まれながらの天皇としてわがまま放題に生きてきたから中年になっても分別がない。孝謙は母親という重しがなくなって「素」が出ているのだろうか。

 仲麻呂は、雨に煙る中庭を見ながらため息をついた。

 孝謙は私が噂を流したと疑ったが勘違いもはなはだしい。私が孝謙を陥れても何の益もないし、道鏡など物の数ではない。

 保良宮から帰ってきて何日にもなるというのに、孝謙の怒りはいっこうに収まっていない。むしろ、詔を下したときよりも怒りが増しているような気さえする。誰かが火に油を注いでいるのだろうか。道鏡かそれとも永手だろうか。孝謙に信頼されている宇比良古でさえ、ものが言えないのだから、男の二人が何か言うことはできまい。

 いずれにせよ、触らぬ神に祟りなし。孝謙には頭を冷やしてもらい、しばらくは孝謙抜きで政をすすめるしかない。しかし「国の大事は私か決める」といっている手前、無視すれば、へそを曲げて話がこじれそうだ。位人臣を極めたが、悩みは尽きない。

 沓を履き土間を出ようとしたが、土砂降りは、数間先の車駕が見えないほど激しい。雨幕が通り過ぎる毎に雨音が大きくなる。雨が小降りになるまで法華寺の中で待つしかない。

 孝謙の怒りが満ちている寺に留まるのか。仲麻呂がため息をついたときに、淳仁を横から支えて歩いていた宇比良古が崩れるように倒れた。

 宇比良古は真っ青な顔をして苦しそうな息をしている。淳仁と仲麻呂はあわてて宇比良古を起こそうとした。

「大丈夫です。少し休めば良くなります」

 宇比良古は額に脂汗を浮かべていった。

「大丈夫なわけがない。いつから具合が悪かったのだ」

「今年の正月から……」

 宇比良古は目をつむって荒い息をした。

「正月から? どうして言わなかったのだ。天皇は采女に命じて部屋を用意。薬師を呼んできてくれ」

 淳仁が走り出すと、宇比良古は小さな声で「ありがとうございます」とつぶやいた。

 法華寺で倒れた宇比良古は、薬石効なく数日後にあっけなく死んでしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る