太上天皇の宣言

 都に戻った孝謙は平城宮には入らず、光明皇太后が使っていた法華寺に入った。

 翌日、孝謙は公卿百官を朝堂院に招集した。

 雨は上がっているが、雲の隙間に青空が見えるだけで、梅雨が終わったわけではない。朝堂院の中庭は水がまだ引いておらず、玉石の薄いところには水溜まりが残っている。気温が上がり始め、蒸し暑い一日になることを予感させた。

 保良宮から慌ただしく帰ってきた百官はおおよその事情を知っているため、渋い顔をして黙っているが、平城宮に残っていた者たちは、不安そうにひそひそ話をしている。事前の連絡がない急な帰還に、謀反が起こったと推測する者までいた。

 孝謙太上天皇は淳仁天皇を連れて大極殿に現れた。ざわついていた朝堂院中庭は、水を打ったように静かになる。仲麻呂は頭を下げ、百官は跪いた。

「今日は皆に重要な話があります」

 孝謙の決意の籠もった声に、淳仁天皇はうつむいて体を震わせている。

 孝謙は淳仁を見ることなく詔書を広げた。

「私は、聖武天皇様から高御座を受け継ぎ政を行ってきましたが、天武天皇の皇統が絶えてしまうという皇太后様のお言葉に従い、大炊王を天皇に立てて二人で政を見てきました。しかし、大炊王は私を敬うことも従うこともせず、仇敵を罵るように、言ってはならないことを言い、してはならないことを行いました。私には大炊王が非難するようなことをした覚えはありません。私に徳が備わっていないので、大炊王が言うのだろうと思うと、慚愧の念に堪えません。これは、菩薩の世界に身を置くようにとの、仏様の思し召しであり、私が別宮に住めば言いがかりをつけられることもないと考え、出家することにしました。出家はしますが、私には聖武天皇様から引き継いだ大事な国家があります。今後、天皇は恒例の祭祀など小事を行い、私は国家の大事と賞罰の二事について決裁します」

 淳仁天皇は頭を下げ両肩を小刻みに振るわせていた。

 公卿百官たちは石像のように固まって動けない。咳払いする者さえいない。太陽が雲に隠れて暗くなり、暑かった空気は一気に冷えた。

 孝謙が踵を返して大極殿に消えると、公卿百官たちの間からため息が漏れてきた。へなへなと座り込んだ淳仁が、宇比良古に支えられるようにして大極殿に入ると、残された百官たちは一斉に議論を始め中庭は一気に騒がしくなった。

「言ってはならない事とは何か」

「太上天皇様は出家なさるのか」

「国家の大事を行うとは。天皇様から権力を取り上げるということか」

「天皇様のご様子は。保良宮でいったい何があった」

 保良宮から帰ってきた者の回りに人だかりができた。

 仲麻呂は近くにいた百済王敬福に、

「百官はそれぞれの庁舎へ戻って仕事をせよ。詔を云々する者は処罰する」

 と怒鳴らせた。百官たちはざわつきながら、それぞれの庁舎向かって歩き出す。

 灰色の雲の間に青空が斑に覗いているが、雲は早足に北に流れていて、空を覆おうとしている。晴れたのは朝のうちだけで、もうじき雨が降ってくる。

 太上天皇と天皇が不和であることを公にしたことは愚の一言に尽きる。太上天皇が大衆を前に怒りで取り乱し、天皇がへたり込んでは権威などなくなる。もう少し分別が付かないものか。

 額に冷たいものが額に当たって、仲麻呂は歩き出した。中庭の玉石は、いつもと同じようにシャリシャリと音を立てる。

 孝謙が天皇に対して怒っていることは分かるが、天皇を引っ張り出して、百官の前で非難して恥をかかせるとは良い趣味をしている。奈良麻呂の乱の時には、黄文王たちに、久奈多夫礼くなたぶれとか麻度比まどいとか、ひどい名前をつけていたことを思い出す。四十半ばの独身で癇癪持ちの女は手に負えない。

 孝謙が帰京した翌日に詔を出すなどとは思っても見なかった。淳仁から良く事情を聞いて、宇比良古を使ってなだめれば良かった。皇太后様がおいでならば…… 孝謙は、皇太后様が亡くなって心の抑えが効かなくなったのかもしれない。死んだ人間を頼ってもしかたがない。なにはともあれ、国家の大事は孝謙が裁可すると公卿たちの前で宣言してしまった。譲位した天皇は写経でもしていればよいのに、政をかき回されてはやっかいだ。問題は孝謙が出した詔をいかにして実のないものにするかだ。公卿たちは何も言わないし言えないが、心の中では自分と同じことを考えているに違いない。触らぬ神に祟りなしと言うが、頭が冷えるまで好きにさせておくのがよいのか。

 仲麻呂が宮内省の建屋に入ると、雨音がするほどの本降りになった。

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