権力にさす影

天皇の失言

 梅雨に入って何日も雨が続く。外に出られないので、東大寺から借りてきていた漢籍の写本は進むが、退屈は積もってゆく。瀬田川は増水して濁った水となり、琵琶湖も荒れているために、気分転換の散歩はできない。

 梅雨明けまで半月くらいはかかるだろうか。お日様を拝むことができず、灰色の雲の下で降る雨を見ているとうんざりしてくる。

 戸口から見える遠くの山々は雨に煙っていた。屋根からは簾のようになって何本もの水が落ちている。気温も高くなってきて、体にまとわりつくような湿気がうっとうしい。雲は早足で北に流れていた。

 保良宮の廊下は采女が毎日拭き掃除をしているが、じっとりと湿っていた。琵琶湖が近くにあるせいか、平城宮より湿り気が高い。

 仲麻呂が宇比良古に奏上文を持たせて歩いていると、孝謙の寝室から大きな声が聞こえてきた。宇比良古と顔を見合わせ急いで寝室に入ると、孝謙太上天皇の前で、淳仁天皇が頭を垂れていた。孝謙よりも体が大きいはずの淳仁が、子供のように小さく丸くなっている。

 顔を真っ赤にして怒っている孝謙の気迫に、仲麻呂と宇比良古は思わず立ち止まってしまった。

「藤原卿も、私が道鏡と褥を共にしたと思っているのですか」

 孝謙の鋭い視線と言葉が仲麻呂を貫いてきた。

 保良宮に広まっている噂を、天皇は太上天皇に奏上したのか。父母ちちははに独身を強いられ、男を知らない太上天皇に、ふしだらなことをしていると言えば怒るに決まっている。天皇は何と言ったのか。そもそも、言って良いことと悪いことの区別がつかないのか。天皇は大馬鹿者だ。

 さて、怒っている孝謙をどう収めるか……

 孝謙は淳仁天皇に向きを変えてかん高い声をぶつけた。

「天皇は誰から噂を聞いたのですか。噂の主を言いなさい。捕まえてきつく仕置きます」

 淳仁は消え入りそうな声で、「誰からと言われましても」と答えた。

「天皇様も悪気のあってのことではありません」

「悪気があろうとなかろうと、私が淫らなことをしているとは何事ですか。卿も私が道鏡と寝たと思っているのですか」

「めっそうもありません。太上天皇様が道鏡をよくお召しになるので、下々の者が噂しているのでしょう。お気になさいますな」

「私は道鏡を一人だけで部屋に入れたことなどありません」

 宇比良古は孝謙に相づちを打った。

「誠に申し訳ありません」

 淳仁は大きな体を小さく丸めて、消え入りそうな声で謝った。

「天皇様には私からよく言っておきますし、保良宮の舎人や采女たちには、悪い噂を信じないようきつく命じておきます。なにとぞ、お気を静めて下さい」

「何を人ごとのように言っているのですか」

 孝謙の握り拳は震えていた。顔は真っ赤になり、口は一文字に閉じ、目はつり上がって奥には怒りの炎が燃えていた。

 孝謙は、すっと立ち上がった。

「人を馬鹿にし、貶めるにもほどがあります。みんな今すぐ出て行きなさい」

 宇比良古は淳仁を抱えるようにして出て行く。

「私はこのような汚い場所に居たくありません。都へ帰ります。車駕を用意しなさい」

 孝謙は体を震わせながら部屋を出てゆこうとする。

「お待ち下さい。外は雨です。それに平城宮は改修中であれば、内裏は使えません」

「雨がなんだというのですか。内裏が使えなくても法華寺があります。とても不愉快なのです。保良宮にいたければ卿だけが残ればよい」

 肩を怒らせながら、仲麻呂の横を孝謙がすり抜けてゆく。

 まったく、天皇は余計なことをしてくれるし、太上天皇は癇癪が過ぎる。年寄りの道鏡には何もできないだろうと高をくくっていたが、噂になった時点で都に返せば良かった。

 仲麻呂は孝謙の後ろ姿を見ながら「ふう」とため息をついた。

 雨が屋根で大きな音を立てはじめた。庭に面した廊下にも雨が降り込んできた。

 仲麻呂はもう一度大きなため息をついた。

 有無をいわせず孝謙は都に向けて車駕を出したので、淳仁天皇、仲麻呂たち公卿百官も後を追うことになった。

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