太上天皇の病気

 大宴会の翌日から孝謙太上天皇は寝込んでしまった。仲麻呂は平城京の諸寺から僧を呼び看病禅師団を作った。薬石や滋養のある食べ物が保良宮に集められたが、孝謙の病気は長引き、翌年の五月まで起き上がることができなかった。

 仲麻呂は生まれたばかりの子猫を宇比良古に持たせて、孝謙の寝室に入った。

 南向きの戸が開けられて、春の暖かい日差しと気持ちの良い風が部屋の中に入ってくる。宮の近くに船が出ているらしく、威勢の良い漁師歌が聞こえてきた。寝室から見える山の新緑は、部屋の中に生気を運んでくれ、軒下の燕の巣では、雛が孵ったらしく盛んに鳴いて、生きる喜びを教えてくれている。

 孝謙は座椅子にもたれて、看病禅師と楽しそうに話をしていた。

 禅師の髪は全て白いが、肌は日に焼けて黒く顔は彫りが深い。細めの体は六十過ぎに見えるが、若い頃に鍛えたらしく体格はがっしりしている。目の奥には光があった。卑しい雰囲気はないが、狐のずるがしこさを思わせる風貌をしている。

「看病禅師の弓削道鏡ゆげのどうきよう様です」

 宇比良古が子猫を孝謙に渡しながら紹介してくれた。

「弓削というと河内物部の一族か」

 道鏡は「さようでございます」と頭を下げた。声に濁りはなく、青年のような張りがある。

「道鏡様は、法相宗の義淵ぎえん様に師事し、梵文ぼんぶん(サンスクリット語)と禅を修められ、路豊永みちのとよなが様に儒学を学ばれたそうです。若い頃に役行者えんのぎようじやが住んでいたという葛城山で修行され呪験力を身につけられたことが認められて、内道場へ上がることが許されたそうです」

「和上は唐国へ留学したことはあるか」

「留学の経験はありませんが、仏教、儒教について留学生るがくしように負けるところはありません」

「道鏡の修業時代の話はおもしろくってよ」

 宇比良古から受け取った猫をなでながら孝謙がうれしそうに言った。

「葛城山で天狗を見たとか、生駒山に入って亡者の群れと戦ったとか、聞いていてはらはらします。仏教の造詣も深く、道鏡の話で今まで霧が掛かっていたところが、青空のようにすっきりと分かりました」

 道鏡は「畏れ入ります」と孝謙に頭を下げる。

 孝謙は近頃になく良い顔をして、娘のように笑った。

 老いらくの恋? 四十半ばの女と六十半ばの老人ではあり得ない。第一身分が違いすぎる。物部の一族でも石上いそのかみならまだしも、弓削では田舎の里長と同じではないか。田舎者は分をわきまえなければならないのだ。

 孝謙は猫をなでながら道鏡と楽しそうに言葉を交わす。猫は時々合いの手を入れるようにニャーと鳴いていたが、何を思ったのか孝謙の手の中から飛び出していった。

 宇比良古が「捕まえて参ります」と言って退出した後を追って、仲麻呂も孝謙の前を辞した。

「道鏡とは何物だ。年老いているにもかかわらず目は輝きを失っていない。言葉には芯があり、体からは青雲の志が立ち上がっていた。狐のような人相は、孝謙に取り入っているのは出世をもくろんでいる現れだ」

「あなたが都から呼び寄せた看病禅師団の長をしています。迫力がある祈祷をしたかと思えば、おもしろい話で采女たちを笑わせることができるお方で、評判は上々です」

「太上天皇との関係は」

 宇比良古は首をかしげた後に微笑んだ。

「太上天皇様は大病を患われたことがありません。体が動かなくなるほどの病気で心細くなっているときに、目覚めれば道鏡様がいつも枕元においでになり、うれしかったのでしょう。聖武太上天皇様、光明皇太后様がお亡くなりになり、お寂しい心の隙間に道鏡様がしっくりはまったということです。しかし、懸念されているような男と女の関係はありません。身分が低く、貧しい家で生まれた者が、還暦を超えてから権力者の近くに侍ることができて舞い上がっているだけでしょう。ただ、へつらいすぎると感じるときがあります」

「権力志向が強い小者か」

 宇比良古は子猫を見つけると、「お猫様」といって走り出し、仲麻呂は廊下に一人残された。階から庭に降りると、西の山には梅雨の雲が掛かっていて、目の前を飛んで行く燕が湿った風を運んできた。

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