保良宮の宴

 日が沈むと保良宮の大極殿に五位以上の公卿が集まった。六位以下の百官は宮の庭に用意された床几に座る。

 完成したばかりの保良宮は木の香りが心地よい。新品の柱に、汚れも染みもない床板、天女を描いた天井や南にそびえる山を景色の一部に取り込んだ庭など、贅と趣向が随所に凝らしてある。保良宮は平城宮の大きさには及ばないが、大極殿だけは平城宮のものよりも大きく感じられた。

 大極殿は数多くの火皿が惜しげもなく置かれ光に満たされた。公卿たちの前に、采女らが何品もの料理を置き、上質な酒が、よく熟れた果物のような香りで部屋を満たした。庭は篝火の炎で昼間のように明るく照らされ、百官の元にも十分な酒と料理が用意されて宴会の準備が整った。

 孝謙がねぎらいの言葉を下すと、公卿百官が万歳を叫んだ。宮が震え、篝火の炎が大きく揺れる。大声に驚いた川鵜が一斉にねぐらの木から飛び上がった。

 雅楽の演奏が始まり、黄色の衣を着た女の子が天女のように舞ながら部屋の中に入ってきた。庭の百官たちはすぐに大騒ぎを始める。

 孝謙太上天皇、淳仁天皇に、皇后の粟田諸姉は、かいがいしく酌をする。二人は数献傾けると赤い顔になった。宇比良古は尚侍として料理や酒が切れないように采女たちを指揮して忙しそうに動いている。

 雅楽が変わるたびに舞子が交代して、様々な踊りを披露し、庭からは幾つもの歌や手拍子が聞こえてきた。

 石川年足、藤原千尋、山背王、藤原巨勢麻呂、塩焼王ら仲麻呂派の面々、藤原永手、藤原八束、淡海三船、石上宅嗣、文室浄三、佐伯今毛人ら、仲麻呂とは距離を置く者たちも歓談している。

 孝謙に酒を勧めると、孝謙は満足そうな微笑みを返してくれた。

「大宴会で公卿百官が満足している様子を見ると、藤原卿の政がうまくいっていることを実感できます。いつもとは違う場所で、形式にとらわれない宴会は良い趣向です。湖の魚もおいしければ、お酒も絶品です」

 孝謙は土器を飲み干して、膳の上にコトリと置いた。

「最初の天女の舞は見事でした。宴会を大いに盛り上げてくれましたので褒美をあげましょう。褒美と言えば、日頃から職務に精励している公卿百官にも感謝の意を込めて贈りたいのですが……」

「ありがたきお言葉に、百官を代表して感謝申し上げます。公卿百官は太上天皇様のお言葉だけで報われます」

「難波宮を南宮なんきよう、保良宮を北京ほつきようとして、日本も唐国と同じように陪都制を整えることができました。二つの都ができたことの祝いを兼ねて皆の昇叙を行いましょう」

「それでは、お言葉に甘えて、文室浄三を御史大夫(大納言)に、塩焼王を参議、紀牛養を少納言、阿倍毛人を左中弁、石川豊成を右大弁、大伴家持を信部(中務)大輔にしていただけないでしょうか」

 孝謙は「よろしいでしょう」と言ってころころと笑った。

「藤原卿は欲が少ないことです。息子の朝狩は陸奥国で昇叙にふさわしい活躍をしているでしょう。朝狩だけではなく、真先まさき訓儒麻呂くずまろたちも良くできた子供であるとの噂を聞いています。早く昇叙させて活躍の場を与えなさい。藤原卿の手足となって働いている石川卿、山背王、藤原巨勢麻呂らも上げてやりなさい」

「真先らは未熟であれば、昇叙、任官はもう一年お許し下さい」

 孝謙は「藤原卿は奥ゆかしすぎる」と言って杯を勧めてきた。

「宇比良古の昇叙も合わせて案を作りなさい」

 仲麻呂は「もったいない思し召しです」と言って杯を空けた。

 息子たちは正月の人事で引き上げる予定だったが、都合の良いことに太上天皇が言ってくれた。永手や八束が悔しがる様子が目に浮かぶ。

「奥ゆかしい藤原卿は自分を上げることはできないでしょうから、私が上げてやります。保良宮を造り上げた褒美として、卿に正一位を授けます」

 慌てて孝謙を見つめると、酒で赤くなった顔をして孝謙は微笑を返してくれた。

「正一位を賜り光栄の極み。うれしさで身がはち切れそうです。我が藤原恵美の一族は、末代まで天皇様に忠誠を誓います」

 自分や身内の昇叙は都へ帰ってから天皇に言わせようと思っていたが、太上天皇が言ってくれた。笑いをこらえるのが苦しい。

 正一位大師(太政大臣)

 正一位は祖父不比等と父武智麻呂、橘諸兄に下賜されたが、不比等と武智麻呂は死んでから贈られたから実質二人目となる快挙だ。

 鎌足が藤原の氏姓を下賜されて、中臣から一族を興したように、自分は藤原恵美の一族を興した。不比等が功田を下賜されて藤原の繁栄の礎を築いたように、自分も余るほどの功田を得た。功田だけではなく、近江の鉄山を二つ手中にしたし、鋳銭と出挙すいこという国にしか許されない権利も得た。人臣位を極めることができ、曾祖父の鎌足、祖父の不比等、父の武智麻呂の三代ができなかったことを成し遂げたのだ。

 公卿百官で逆らう者はいない。伝統氏族に力はない。藤原一門も黙るしかない。皇族もすり寄ってくる者はいても、反対できる者はいない。まさに自分は国の頂点に立っている。

 新しい宮に、良い酒、旨い料理、賑やかな舞踏は、全て自分のためにある。

 笑わずにいられようか。天平宝字五年十月二十八日、我が人生最高の日だ。

  この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し花は 黄葉もみじたりけり

 霜が降ろうが、夏草が枯れようが、我が栄光は輝き続けるのだ。

 大極殿では鮮やかな衣を着た娘たちが踊り、保良宮の庭ではあちらこちらから笛や太鼓、手拍子が聞こえてくる。宴会は自分の昇進を祝うために開いているようなものだ。

 真っ赤な顔をした孝謙が頭を押さえるような仕草をした。

「どうなさいました」

「飲み過ぎたようです。先ほどから寒気がします」

「具合が悪いようでしたら、宴会を終わりにしましょうか」

「せっかく公卿百官が羽を伸ばし楽しんでいるのに、水を差してはいけません。酒と肴がなくなるまで楽しみなさい。私は寝屋で横になります」

 孝謙は宇比良古に支えられて退席していった。

 庭から大歓声と拍手が聞こえてきた。保良宮の宴会は絶頂を迎えた。

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