保良宮の宴
夏の野に見し花
光明皇太后の一周忌が終わり秋が深まってきた、天平宝字五年(七六一年)十月、仲麻呂は近江国
砂浜を歩くと、サクッという音がして足が沈む。海とは違い磯の臭いはしないが、海と同じように夕日に照らされた波が金色に光り、サワサワという音を立てて浜に打ち寄せている。水鳥の群れが波に上下しながら羽を休めていたが、何かに驚いて一斉に飛び立った。水鳥たちは、湖の上を飛んでいた群れと空で交わった。不思議なことにぶつかって落ちる鳥はいない。沖合には漁師の小舟が十艘ほど浮かび、投網の音が小気味よく聞こえてくる。遠くて見えないが、地引き網をしている人々に子供が交じっているらしく、可愛らしい歓声も聞こえてきた。山の麓に見える家々からは、竈の白い煙が真っ直ぐ上り、近くの林に戻ってきたらしい川鵜や椋鳥の声がやかましい。
深呼吸をすると、冷たくて爽やかな空気が体の中に入ってきた。
大伴家持は因幡国へ飛ばした。大和以来の武門氏族であると言っても、家持はせいぜい歌を詠むことしかできない。藤原北家、式家、京家も自分に逆らう者はいない。何よりも自分は藤原恵美の家の祖なのだ。今までは藤原の一族が大きな顔をしていたが、これからは藤原恵美の時代となるのだ。
太上天皇と天皇は言うがままであれば、天下は自分の掌の上にある。
背後に人の気配を感じて振り返ると、孝謙太上天皇が寄ってきていた。
艶のある髪と肌は、四十を超えたとは思えない美しさを保っている。金糸銀糸に彩られた衣は、夕日にキラキラと輝き、そよ風が焚き込んだ香を運んできた。
「すいぶんと寒くなりましたが、保良宮から眺めた
「この地より、近江海を右に見ながら北へ数里行ったところにあったと言われています。近江守をいただいたときに、国を見て回りましたが、大津宮は跡形もなく、年寄りが言い伝えている程度でした」
「柿本人麻呂は、茜色の空を映して金色に輝く近江海を詠んだといいます。
近江の
「大きな湖は人に感動を起こさせます。大津宮があったと言われる場所からさらに北へ行くと三尾の古城があります。古城から越前の愛発関までは目と鼻の先です。保良宮の東にある瀬田橋を渡った向こうに見えるのが、近江の国衙です。近江路を東に進むと不破の関があります」
孝謙は仲麻呂が指さす瀬田橋を見た。河原は枯れた草で一面茶色になっている。
「今年の夏に来たときには、橋のたもとの河原に、紫の
「来年になれば、再び太上天皇様の目を楽しませてくれます」
孝謙はお付きの采女から木簡と筆を受け取った。
この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し花は
「栄華を誇るように川原を占めていた花が、霜が降りて枯れ野になっている様子がよく出ていて、叙情にあふれる良い
「私も枯れた沢蘭かもしれません」
「太上天皇様は今でもお美しくあられますし、政の中心です。まだまだ、枯れてなどいません。枯れているのは五十六にもなってしまった私です」
仲麻呂が声を上げて笑うと、孝謙もクスリと笑った。
世間から見れば五十六歳は充分な年寄りだ。白髪は増え、顔の艶や張りはなくなってきた。早足で歩けば息切れするし、腕力はなくなって息子たちには勝てない。遠くの物がかすんで見えなくなってきた。しかし、自分は枯れてなどいない。政においては誰にも負ける事はない。東北の蝦夷を完全に教化し、新羅を屈服させるのだ。
力は山を抜き気は世を蓋う。
自分は枯れることのない花だ。
「藤原卿は保良宮を特別な宮にすると聞きましたが」
「唐国は陪都制を取っています。我が国も唐国に倣いいくつかの都を持ちたいと考えています。国の中心はあくまでも平城京ですが、南の難波宮、北の保良宮を陪都にします。ただし、民の負担を考え、難波と保良には条坊制を敷きません、宮といっても内裏と大極殿程度の小さいものにします」
聖武天皇は恭仁京、紫香楽宮、難波宮と遷都を繰り返したので国が混乱し、民を疲弊させた。自分は聖武天皇の過ちを繰り返さない。自分は問民苦使を派遣して民の苦しみを吸い上げ、政に生かすことができる、善政の人間なのだ。優柔不断だった聖武天皇とはひと味もふた味も違う。
「太上天皇様には狭いところで申し訳ありませんが、平城京の改修が終わるまでご滞在下さい。本日の宴会は保良宮の落成式も兼ねております。大いに楽しんで下さい」
冷たい風が湖面を渡ってきた。思わず身震いして衣の衿を絞めると、仲麻呂は孝謙を誘って保良宮に向かった。
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