光明皇太后崩御

 六月七日、仲麻呂は光明皇太后の病変の知らせに法華寺を訪れた。

 出迎えてくれた宇比良古は

「皇太后様は、さきほどお隠れになりました」

 と、教えてくれた。

 立ち止まって見上げると、花曇りの空を一羽の鳶が北の空を目指して飛んで行くところだった。そよ風が衣の裾を揺らし、仲麻呂は空を見上げたままため息をついた。

「皇太后様が亡くなられたのか」

 六十歳であれば天寿を全うしたと言える。聖武太上天皇様が崩じられてから体調が優れなかったし、奈良麻呂の乱の心労が堪えたのかもしれない。

 皇太后様は甥である自分を幼い頃からかわいがって下さった。従兄弟は多くいるのに、なぜ自分だけがかわいがられたのか分からない。叔母と甥といっても、五つしか年が離れていないから、姉と弟と言った方がしっくりくる。子供の頃に姉さんが欲しくて、よく遊んでもらっていたからかもしれない。

 南家の長男は豊成であるから、自分はせいぜい四位止まりで、台閣の頂点に立つことなどできないはずだった。日本国を治める大師の地位にあるのは、若い頃に、皇太后様が引き上げて下さったからだ。どんなに感謝しても足りない。

 皇太后様は、悲田院、施薬院、法華寺や写経と色々なことをなされてきた。国分寺、国分尼寺が全国にあるのも皇太后様のおかげだ。東大寺の大仏様も、皇太后様が聖武天皇を難波の知識寺に誘ったことが発端だという。日本国に大きな足跡を残されたことは確かだ。

 一つの時代が終わった。

 僧たちの読経が、低く高く、音曲のように流れてきた。

 仲麻呂は、音を立てないようにして皇太后の寝室に入ると、僧侶たちの後ろに座って手を合わせた。

 孝謙太上天皇は、目をつむって頭を下げていた。皇太后お付きの采女たちが、部屋の角で声を殺して泣いていた。

 枕元で焚かれている香がただよってくる。

 読経が終わり、衣擦れの音と共に僧たちが退席していった。

 横たわる光明皇后は、眠っているようにしか見えないが、動く様子はない。

 皇太后様は崩じられたのだ。

「お父様に続きお母様も亡くなり、私一人になってしまいました」

 孝謙太上天皇の声は意外にしっかりとしていた。

「太上天皇様には、多くの皇族方、臣下がおります」

 とは言え、寝食を共にしない親戚は他人と変わらない。

 孝謙には皇族という名の親戚は多いがそれぞれに家を構えている。たくさんの舎人や采女が奉仕してくれるが、身分が違い親身にはなってくれない。夫も子供もいない孝謙は身内と呼べる人をなくし、一人になってしまったのだ。多くの人に傅かれているが、心を許せる者がいない孤独な天皇。天皇の娘に生まれなければ、基親王もといしんのうが皇位を継いでいれば、夫や子供に恵まれた人生を送れたかもしれない。国家の最高位であっても幸せとは限らない。

 自分の両親は昔に亡くなっているが、妻や多くの子供たちに囲まれているし、天皇夫婦も、幼い頃から手元に置いているので自分の子供のように思える。自分は孝謙に比べて幸せだ。

「淳仁天皇は、藤原卿のことを父と思うと言ったそうです。私も卿のことを父と思い頼って良いでしょうか」

「父上様ではなく、兄でよろしくお願いします」

 孝謙太上天皇は、微笑みを返してくれた。

もがりの儀については、私にお任せください。聖武太上天皇様をお送りしたときと同じように、仏様を送るような盛大なものにします」

「盛大な葬儀?」

 国葬は、誰が権力者であるかを示す儀式だ。大師の地位にある自分が取り仕切る葬儀は、盛大でなくてはならない。

「国母としての格式と威厳を備えた国葬を執り行います。御陵は、聖武太上天皇様の陵墓の隣、佐保山の東でよろしいでしょうか」

「仲の良かったお父様とお母様は、あの世でも一緒というわけですね。ずいぶんと手回しの良い…… 国母……」

 何か気に障ったのか? 「母」になれない女に国母はまずかったのだろうか。政に遺漏がないように様々な準備をしておくのと同様に、今回は崩御を予想して備えていた。手抜かりはない。

 孝謙は体の向きを変え、光明皇太后に向かって手を合わせ頭を下げた。

 仲麻呂も一緒に手を合わせ頭を下げる。

 孝謙は小さな声で経を唱え始めた。

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