氏姓下賜
「豊成卿を大宰府に向かわせれば、左大臣と右大臣の席が空いてしまいます。卿も内相のままでは政がやりにくいでしょうから、卿は右大臣となって台閣を率いなさい」
仲麻呂は「ありがとうございます」と言って平伏した。
瓢箪から駒の展開だ。右大臣就任については折を見て上奏しようと考えていたが、向こうから言ってくれた。今日はよい日だ。
「右大臣を賜り恭悦に存じます。私は、用水を掃除する農夫のように、これからも国家の流れに逆らおうとする者、天皇様の清い政を汚そうとする者を片付けてゆきます」
孝謙天皇はもう一度ため息をついて口を閉じ、遠くを見るような目をした。
「人を処分するばかりでは気が滅入ります。奈良麻呂の謀反を未然に防ぐに当たって功績があった者を褒賞しましょう」
「褒賞について、案を作成しています」
孝謙は「手回しの良いことです」といって、仲麻呂から書を受け取った。
仲麻呂は、山背王、巨勢堺麻呂に従三位、下位であった上道斐太都、県犬養佐美麻呂、佐味宮守らに五位以上を、その他功績があった者の昇叙を上奏した。
孝謙は上表文を斜め読みしてゆく。
「褒賞について可とします。山背王たちは功臣です。今後も朝廷で活躍してもらいましょう。しかし、この上表文には藤原卿の名前がありません。奈良麻呂の乱における勲功第一位は卿です。天智天皇は中臣鎌足の献身に感謝して藤原の
変な名前にされてはたまらない!
「それではお言葉に甘えまして、新しい名前は、
「なるほど、漢籍に詳しい藤原卿らしい良い名前です。しかし、藤原は不要なのでは?」
「藤原の名前は天智天皇様よりいただき、不比等、武智麻呂と使ってきましたので今後も使いたいと思います」
「よろしいでしょう。卿に藤原恵美押勝の名前を下します」
「処分も褒賞も決まりました。奈良麻呂の乱の後始末は今日で終わりです。明日からは乱れた人々の心を安らかにしなければなりません。人心一新のための策を作りましたのでご覧ください」
小首をかしげる天皇に、仲麻呂は上表文を差し出した。
「先ずは改元を行います」
「改元ですか……」
「時代が変わることを人々に示したいと考えます。奈良麻呂が謀反を起こしたから年号を変えるのでは外聞が悪いので、駿河国から献上された蚕の卵が吉兆文字に見えたからという理由にします」
「吉兆文字とは?」
仲麻呂が差し出した木の板には一面に小さな卵が産み付けられていた。卵の並びは文字のようにも見える。
「開下帝釈、標知天皇命百年息、と読むことができます」
「この文字を
「無事ではなく、奈良麻呂が謀反を起こしましたが」
「奈良麻呂は一兵も動かすことができませんでした。平城京には一筋の煙も、一滴の血も流れなかったのです。下界をご覧になった帝釈天の目には、水面に広がる波紋ほども、風に揺られる柳の枝ほども乱れていないと映ったことでしょう」
孝謙は少しだけ笑った。
「蚕は虎のような模様と馬のような口を持ちながら争わず、成長して人々に衣服を与えるありがたい神虫です。神が蚕を使って、天皇様の治世が長く続くことをお示し下されたのです。奈良麻呂の乱という禍がおさまったので天下の人々と共に瑞祥を祝い、改元いたします」
蚕が気まぐれに産み付けた卵でも、白い雉でも、赤目の亀でも、何でも理屈をつければ人々は納得するのだ。
「それで新しい年号は何とするのですか」
「めでたい文字にちなんで『天平宝字』といたします」
仲麻呂は、天皇が上表文を読み進むのに合わせて説明する。
「没収した賊徒の財産は官人と民に分け与えます。民の負担となっている雑徭を三十日に半減し、東国防人を停止します。国々に問民苦使を派遣して民が困っていることを解決させます。官職や官庁の名前を唐風に改めます」
「上表書に書いてある大師とか鎮国衛とかですか?」
「さようです。太政大臣は大師に、中衛府は鎮国衛に、その他の官職や官庁の名前も唐の制度に合わせて変え、公卿百官に時代が変わったことを実感させます」
「納得しました。すべて
「と、申しますと?」
「お父様が崩御されてから太上天皇の位が空いています。太上天皇と天皇で国を治めてゆくという体勢が崩れたことが、奈良麻呂の乱を誘発したのです。私は高御座を大炊王に譲り太上天皇として国を支えてゆこうと思います。私がお父様にしていただいたように、太上天皇として天皇を後見し訓導すれば、人心も安定するでしょうし、若い大炊王が即位することで朝廷に新風が吹くことでしょう」
孝謙は迷いのない澄んだ瞳と晴れやかな顔をしていた。
天皇は何か勘違いをしているが好都合だ! 二度目の瓢箪から駒。薹が立った天皇よりも、小さい頃から手元で育ててきた大炊王の方が扱いやすい。
「聖武太上天皇様は、二十五年にわたって天皇を務められましたが、天皇様の在位はまだ七年です。大炊王も若いことから、天皇様にはこれからも頑張って天下を治めていただきたいと思います」
「譲位については、お母様にも相談し了解をとっています。お母様は、お父様を亡くした悲しみが癒える前に、かわいがっていた奈良麻呂が謀反を起こしたことで、体を壊されてしまいました。悲しいことです。私は民に孝行せよと説いてきましたので、孝行を実践しなければなりません。多忙な天皇を譲りお母様に孝行を積みたいのです」
仲麻呂は深く頭を下げた。
「天皇様の慈しみの心に感激しております。私の息子たちにも見習わせたいと思います。御心にかなうように手配しましょう」
天皇は意見が受け入れられて満足そうな顔をしているが、喜びの声を上げたいのは自分の方だ。死んだ奈良麻呂には大いに感謝しよう。
思わぬ展開に戸惑ってしまうが、すべてが自分にとって良い方に進んだ。目障りな者を滅ぼし、奏上した政は全て裁可された。
今日は実に良い日だ。日頃はうるさいとしか思えない蝉の声は、自分の昇進を祝う大拍手のように聞こえる。額に流れ落ちる汗も、遠乗りをしたときに出る汗のようにすがすがしい。夏の強い日差しに、大極殿の中が輝いて見える。宮も平城京も、日本のすべてが、私の足下にある。田村弟に帰ったら、皆で祝杯を挙げよう。
仲麻呂が孝謙天皇の前を辞し内裏から出ると、石川年足、藤原千尋、藤原宇比良古、藤原巨勢麻呂が待っていてくれた。宇比良古が撫子、女郎花、藤袴で作った花束を渡してくれた。年足や千尋も満面の笑みで祝ってくれる。
仲麻呂は雲一つない青空の下、四人を連れて歩き出した。爽やかな風の中を燕が空を切って飛んで行き、色鮮やかなアゲハチョウが優雅に舞った。空の上では、鳶が甲高い声を出した。
孝謙天皇は譲位して太上天皇に、大炊王が
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