仲麻呂の上奏

 大極殿の上座に孝謙が座ると、仲麻呂は天皇の正面に腰を下ろした。光明皇太后が、宇比良古に付き添われて入ってきて孝謙の横に座った。

 ついに天皇の正面に座ることができた。自分が台閣の長となるときが来たのだ。頂点を目指すと誓ったときから長い時間が経った。自分の前には天皇しかいない。公卿百官、人民はすべて自分の背中を見ることになるのだ。実に感慨深い。

 自分が謀反について報告する前に、先走って首謀者を処分する詔を出すのは止めて欲しかった。だが、そんなことは些細なことだ。すべては、自分の掌の上にある。台閣を息が掛かった者で占め、二官八省のことごとくを手足として使えるように変えることができる。

 孫子の兵法は、兵は国家の大事であると説き、戦わずに勝つことを上策とするが、今回は兵法書にもないくらいの完璧な仕事だった。自分を誉めてやりたい。

 孝謙は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。孝謙の体から発せられる怒気は、大極殿に流れ込んでくる蝉や鳥の声の勢いをなくし、額に噴き出す汗を冷や汗に変えた。

 自分がご機嫌なのに対して、女帝様はお怒りなのだ。久奈多夫礼くなたぶれ麻度比まどい乃呂志のろしと、ひどい名前を付けただけのことはある。四十歳になる独身女の怒りは恐ろしい。

 せっかくの美人も怒りを表に出しては台無しだ。奈良麻呂の謀反が発覚する前の孝謙は、若い娘のように瑞々しく華やかであったが、今日は、枯れた花のように残念な雰囲気になっている。香を炊き込み、華やかな衣に身を包んで見た目は変わらないが、十も年をとったように見える。

 仲麻呂は天皇と皇太后に向かって深く頭を下げた。

 仲麻呂は頭を下げたままで深呼吸をする。

 大極殿の清浄な空気を胸の中に入れると、朝廷の権威と権力が体の隅々まで行き渡っていくことを感じることができる。ゆっくり息を吐き出すと、今度は、自分の気が大極殿を満たしていくのが分かる。いや、自分の気は、内裏、平城京、天下あめのしたの全てに行き渡ってゆくのだ。文字どおり、力は山を抜き、気は世を蓋う。笑わずにはいられないし、歌も出てくる。

  そらにみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ

  しきなべて 我れこそせ 我れにこそ らめ 家をも名をも

 今日から名実共に自分の時代になったのだ。

 仲麻呂は笑いをこらえるため、しっかりと口を閉じて頭を上げた。

「先ず、謀反の全貌について教えて下さい」

 仲麻呂は天皇に報告書を奉ると説明を始めた。

「橘奈良麻呂や小野東人らは六月に三度会合を持ちました。一回目は奈良麻呂の屋敷、五ヵ条の勅が出てからは、図書寮ずしりようの倉近くの庭、太政官の建物の庭です。集まった者は、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多冶比犢養、多治比礼麻呂たじひのいやまろ、大伴池主、多治比鷹主、大伴兄人おおとものえびとその他多数です。七月二日の深夜に兵を動員し、田村弟を襲い私と皇太子様を殺害、内裏へ兵を入れて天皇様を廃位、皇太后様の法華寺を囲み駅鈴と玉璽を奪取、右大臣の豊成様を台閣の首班とし、塩焼王、黄文王、安宿王、道祖王のいずれかを天皇に即位させる計画でした。奈良麻呂が使おうとした兵は、はた一族の一部です。摂津や井出に集結していたのですが、すでに解散させました。賀茂角足が、高麗福信こまのふくしん奈貴王なきおう様、坂上苅田麻呂、巨勢苗麿、牡鹿嶋足おがのしまたりらを額田部の屋敷に呼んで酒盛りを行い、謀反の際に、天皇様の元に駆けつけることができないようにする手はずでした。角足は田村弟の見取り図も作成し、佐伯古比奈などを勧誘していました」

「奈良麻呂は謀反にどのくらい関与しているのですか」

 皇太后の声は、聞き取れないくらい細くて小さい。

「奈良麻呂は謀反の首謀者です。他には道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養、小野東人が主要な役割を果たしていました。奈良麻呂は今回だけではなく、以前から謀反を考えていたようです。一回目は十二年前に聖武太上天皇様が難波巡幸の際に病を得られたとき、二回目は五年前の孝謙天皇様の大嘗祭、三回目は去年、聖武太上天皇様が崩御される直前に、黄文王、佐伯全成、小野東人らと謀を巡らせていました。いずれも全成が反対したので実現しませんでした。四回目に当たる今回、全成は陸奥守として赴任しており、奈良麻呂を止める者がなく実行直前まできていたようです」

 皇太后は「崩御直前に」という言葉を口の中で繰り返した。

「奈良麻呂は、私の同母兄あにである左大臣諸兄の一人息子…… 甥として目を掛けて役職や位を与えてきたのに…… 何ということでしょうか。奈良麻呂は悪友にそそのかされたのでしょうか」

「いいえ、謀反の首謀者です。友をそそのかし、都を脅かしたのは橘奈良麻呂です」

 皇太后は目頭を押さえて崩れそうになった。宇比良古があわてて皇太后を支える。

 皇太后は「気分が悪くなりました」と言い、宇比良古に付き添われて広間を出て行った。

「皇太后様は……」

「お母様は、奈良麻呂や黄文王が謀反を企てていたことや、佐伯、大伴の一族から多くの者たちが謀反に荷担していたことに衝撃を受けて寝込んでいらしたのです」

 自分は反対派を一掃できて晴れ晴れとした気分であるのに対して、皇太后様や天皇の憤りは深いらしい。無理もないことだ。

 孝謙は口を一文字に閉じて難しい顔をしていた。蒸し暑い空気とやかましい蝉の鳴き声が、広間の中をさらに不快にしてゆく。

「藤原卿は多くの人間を取り調べていると聞いています。謀反に荷担した者は総勢でどれくらいになりましたか」

 孝謙の斬りつけるような声に、仲麻呂は思わず平伏した。

「四百三十名ほどです」

 孝謙の顔は見る間に青くなり、大極殿に満ちていた怒りの空気は、火に水を掛けたように消えた。

 孝謙は肩を落とし右手を付いて「四百三十名も……」とつぶやいく。声は哀れなほどに細い。

「私には天下を治める徳がないのでしょうか。上は右大臣から、下は無冠の者たちまで奈良麻呂の謀反に関係していたとは…… 私は百官や民から嫌われているのでしょうか」

「天皇様に徳が備わっていらっしゃるからこそ、天神あまつかみが奈良麻呂の悪事を罰したのです。もし徳がなければ、都に火の手が上がり、私は冥府をさまよっていたことでしょう。天皇様の徳をお慕いするからこそ、山背王や巨勢堺麻呂のような高位の者から、上道斐太都や佐味宮守のような下位の者までが奈良麻呂の謀反を知らせてくれたのです。天皇様のご恩に報いるため、百済王敬福や高麗福信らが懸命に取り調べを行い、四百余名におよぶ悪人をあぶり出したのです。太陽の光が空から地面を照らすように、天皇様の徳は天下に行き渡っているのです」

 仲麻呂の世辞に、孝謙は少しだけ口元を緩めた。

「それで、四百三十名の処分はどのようにするのですか」

「首謀者については先ほど詔を下されました。五位以上の勅許者の処分についてご覧下さい」

 仲麻呂は、横に置いていた上表文を孝謙に捧げた。

 安宿王、佐伯大成、大伴古慈斐、多治比国人ら謀反の主要人物は配流。多治比広足は中納言解任、塩焼王は関与が不明とされ処分対象から外された。

「六位以下の者については一任下さい。四百三十人の内、三百人程度は身分も罪も軽い者たちですから、都から追い払うだけで充分であると考えています」

 先ほどの詔で、孝謙は罪一等を軽くすると言ったがすでに遅い。橘奈良麻呂、黄文王、道祖王、大伴古麻呂、小野東人、賀茂角足、多治比犢養は取り調べの拷問によって死に、佐伯全成も、任地の陸奥国で取り調べを受け謀反を自白した後「自経」している。いや殺したのだ。自分を殺そうとした者に情けは不要だし、情けを掛けて救った者に復讐されては困る。死人に口なしという。誰が首謀者なのか結局はっきりしなかったが、もはやどうでもよい。奈良麻呂のおかげで、自分に逆らう者や反感を持っている者を上から下まで一掃できるのだ。奈良麻呂たちは、川の魚、山の兎よろしく、自分の餌食になった。餌ではかわいそうだな。自分の権力の礎になったと言ってやるべきか。

「裁可をいただければ直ちに実行いたします」

 孝謙は、うんざりしたという様子で大きなため息をついた。

「兄の豊成ですが、巨勢堺麻呂が小野東人らの企みを報告したにもかかわらず、動くことも奏上することもしませんでした。さらに、奈良麻呂は豊成を台閣の首班にする予定でした。息子の乙縄は奈良麻呂と親しく、足繁く橘の屋敷に出入りしていました。豊成が謀反に関与したという証拠は得られませんでしたが、謀反について不作為であったことは確かです。謹慎していますが、天下に法の権威を示すために処分が必要です」

「藤原右大臣は、私の近くにあって政を支えてくれました。人柄も温厚であり慈悲の心で許してやりたいのですが、貴卿はいかに考えますか」

 温情のない政は人々を苦しめるだけだが、情けを掛けるところを天皇は分かっていない。天皇として養育され漢籍や仏法を修めてきたかもしれないが、政の感覚は書で養うことはできない。しょせん、天皇は奏上された政に、可、不可を朱書きするだけの存在なのだ。これからは、自分が天皇に代わって政を司らなければならない。

「豊成は謀反に関わっていなくても、台閣の長として不作為の罪は大きいものがあります。しかし、私の実兄であり、罪を軽くしたてやりたいと悩んでいたところに、天皇様のご温情をいただきました。豊成については、右大臣の位はそのままに、大宰員外師だざいいんがいのそちにしたいと考えます」

 孝謙は目をつむって「よろしいでしょう」と答えた。

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