反対分子一層

 仲麻呂が左衛士府を出ると、いつの間にか空は灰色の雲で覆われていた。

 千尋が報告したとおり、右衛士府は人であふれていた。捕らえられた人々は、後ろ手に縛られて土間に座らされていた。黴や厩の臭いに混じって人の臭いで息苦しい。部屋の角には取り調べが終わったらしい者たちが縛られたまま転がされている。衣は裂け血糊がべったりと付いていた。数人が取り調べ中で、捕らえられた人たちの前で杖で打たれている。杖が体に当たる鈍い音と同時に悲鳴やうめき声が上がる。取り調べを待っている者たちは顔を背けたり目を固く閉じたりしている。取り調べのむごさに、ガタガタと震え出す者や泣き出す者もいる。

 取り調べに当たっている百済王敬福が寄ってきて頭を下げた。使い古された鎧と、愛用の四尺の杖がよく似合っている。

「都の人間は何回か叩くと白状し始めます。蝦夷に比べればちょろいものです。今日中に謀反の全容を明らかにして見せましょう」

 敬福が大きな声で笑うと、捕らえられている人々は一様にうなだれた。

外記げきを呼んで記録させよう。ところで、奈良麻呂はどこにいる」

 敬福に連れられて隣の土間に入ると、奈良麻呂は大根を干すように、両手を縛り上げられて梁から吊されていた。足がちょうど地面に着くように高さが調整してあり気を抜かなければ立っていられるが、逆に気を抜けば、両手が締め付けられ痛い思いをする。杖に打たれながら、両腕を上げて立ち続けるのは体力を消耗して苦しそうだ。

 縄は奈良麻呂の血で赤く染まっていた。縛られている手首は縄でこすれて赤剥けている。衣の袖はずれ落ちて、血の気を失って白くなった腕が出ていた。髪はぼさぼさに乱れて垂れ下がり、顔は腫れて左の頬には大きな痣ができていた。杖で打たれた衣はぼろぼろに破れ、体には打たれた痕が赤く付いていた。足や衣の裾は泥だらけになっている。

 奈良麻呂は仲麻呂に気づくと、顔を上げて睨みつけてきた。

「美男子も形なしだな。だが謀反人にはよく似合う。左大臣の息子が、なぜ謀反を起こそうとした」

「お前の政が無道だからだ。口で言っても無駄だから力をもって正そうとした」

 奈良麻呂の声は意外にはっきりしている。

「あいかわらず口だけは達者なようだ。お前は私の政を無道と言ったが、何をもって無道と評するのか」

「東大寺の造営で人々は苦しんでいる。心ある官人は東大寺や大仏に国帑が費やされてゆくことを憂いている」

「東大寺はお前の父である諸兄が台閣の長であるときに始めたものだ。息子のお前が言うのは理が通らない。正直に言ったらどうか。私を倒して己が一番になりたかった。天下を取りたかったと。天皇と私が嫌いだと言ったらどうか」

 奈良麻呂は何も言わずに睨み返してきた。

「図星のようだな。お前が太上天皇様の御代から何回も謀反を企ててきたことは、取り調べで明らかになった。人々が苦しんでいるというのは口実に過ぎない。私に忠誠を尽くせば、大納言として使ってやったのに」

「誰がお前のために働くというのか。藤原がでしゃばるようになってから世の中がおかしくなってきたのだ。不比等の息子が四人も太政官となったから、瘡病かさのやまいが流行し、広嗣の謀反で優柔不断な天皇が遷都を繰り返して人々は右往左往した。そしてあろうことか、藤原の血を引く女が天皇になった。今は藤原南家で右大臣と内相を占めている。藤原の力はいずれ皇室をないがしろにする。倭以来、台閣には伝統氏族から一人ずつ登ることがしきたりだった。氏族が互いに牽制するから天皇が日本ひのもとの頂点としていられるのだ」

「お前で二代目の橘は伝統氏族ではないがな。それにお前は諸兄が左大臣の時に参議になっているではないか。言うことがめちゃくちゃだ」

 仲麻呂が「ふっ」と鼻で笑うと、奈良麻呂はうなだれた。

「お前は世の中が変わったことを理解していないのだ。律令が整い国が定まってからすでに五十余年。人々はうじではなく個人として官位官職を賜るようになっている。大伴氏の氏上である家持は一族を諫めたが、大伴から何人もがお前の下に来た。佐伯も同じだし、秦一族も、すべてではなく一部の人間を兵として雇えただけではないのか。お前には藤原が一枚板に見えるかもしれないが、すでに四家はばらばらに動いている。豊成と私は実の兄弟だが見ている夢は全く違う。北家の永手や八束は私のことを快く思っていないが、同じ北家でも娘婿の千尋は私の言うことを良く聞いてくれている。なによりも、お前が天皇に担ぎ上げようとしていた諸王たちもそれぞれに思わくが違う。お前は武力を持って権力を得ようとしたが、広嗣の失敗から何も学んでいない。律令によって国家が定まっているから、壬申の乱のように、武力で国をひっくり返すことなどできないのだ。武力ではなく、正当な手段で私に挑むべきだった。お前の考えは時代遅れなのだ」

 奈良麻呂は足下の土を蹴り上げたが、仲麻呂の元には全く届かなかった。反動で体が揺れる。

「太上天皇様が遷都を繰り返したことは確かだが、お前の父親は諫言の一つもせずに、むしろ天皇様の思いを遂げようと一生懸命に働いていた。怒りをぶつけるのならば、太上天皇様ではなく父親の方だ」

 奈良麻呂の目から大粒の涙が落ちた。

「お前は私と皇太子を殺した後、塩焼王、安宿王、黄文王、道祖王のいずれかを天皇にすると考えていたようだが、本命は誰だったのか。私や天皇を殺した後は四人の王で争いを始めるつもりだったのか」

 敬福が奈良麻呂の体を大きな音がするほどに打ち据えたが、奈良麻呂はうめき声を上げるだけで話す様子はない。

「お前の友である大伴家持はどの程度関わっているのか」

「家持のような日和見な奴は知らない」

 奈良麻呂は吐き捨てるように言った。

「佐伯全成は陸奥国から駆けつける予定だったのか」

「全成は全く関係ない」

 奈良麻呂は再び顔を上げて睨んできた。

「お前は嘘がつけない人間らしい。全成も処分者の名簿にいれることにしよう。他に首謀者はいるのか」

「俺一人でやったことだ。全成や黄文王は関係ない」

 奈良麻呂が精一杯張り上げた声は、部屋の中に散っていった。

「奈良麻呂についてはもう少し調べますがその後いかがしましょう」

「吊しておけ」

「このまま吊しておくと死んでしまいますがよろしいでしょうか。参議の方をこのままにしておくのは……」

「参議ではない。謀反人だ。謀反は死罪だ」

「天皇様の処分が出ておりませんし、皇太后様の思し召しでは……」

「天皇には私から言上しておくので敬福は心配しなくて良い」

 敬福は当惑顔で見返してきた。

「心配するな。言い訳は後から荷車一杯に持ってきてやる。勝ったものが歴史を作ってゆくのだ」

 雷が二、三度鳴ったかと思うと、打ち付けるような雨が降ってきた。雨音で人の声が聞き取れなくなり、雨に打ち上げられた土埃が部屋の中に入ってきて血の臭いと混じって鼻を刺激してきた。

 雨が汚いものを流してゆくように、奈良麻呂のおかげで不満分子を一掃できる。

 禍を転じて福となす。一時は危ないとこであったが、すべてが自分にとって都合良く動いてくれている。

 仲麻呂は差し出された傘を手に、太政官院へ向かった。

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