橘奈良麻呂逮捕
仲麻呂が左衛士府に入ると、中にいた五人の衛士が四尺の杖を持ったまま頭を下げた。
晴れているのに、衛士府の中は薄暗く湿っていて黴臭かった。厩が近いためか馬の臭いも漂っている。土間は湿っていて、浅沓が沈んで衣の裾を汚した。建屋に天井はなく、茅葺き屋根の裏が見え、茅の薄いところから日の光が漏れていた。落ちてきた茅の切れ端が土間に散らばって、埃が泥のようになって積もっている瓶が並ぶ。近くに壊れた手桶が無造作に捨ててあった。板壁には達筆で当番表が書いてあったが、表の下には稚拙な落書きが書かれている。部屋の角の大きな蜘蛛の巣に、捕らえられた蛾がバタバタともがいていた。
薄暗い土間の中ほどに、後ろ手に縛られた黄文王が転がっていた。髪はぼさぼさに乱れ、顔や衣は泥と血で汚れている。顔は腫れて半開きの目はうつろで、緩く閉じられた口からは血が出ていた。体はくの字に曲がり、足の親指があらぬ方向に曲がっていた。ぼろぼろに破れた衣の下には、青い痣や赤い傷口が見える。傷からでた血は赤黒く固まっていた。
「黄文王は白状したか」
「安宿王や奈良麻呂にだまされたと言っています。黄文王が名前を挙げた者については順次逮捕に向かっています」
仲麻呂は「良し」と肯き、
「皇族であっても謀反は大罪であり許されない。もっと痛めつけて吐かせろ」
と命じた。
「このまま取り調べを続ければ死んでしまいますが、よろしいでしょうか」
「かまわぬ。黄文王は謀反人である。謀反は死罪であれば、どのみち死ぬ時期が早いか遅いかの違いしかない。黄文王の命よりも謀反の全容を究明せよ。関係した者をすべて洗い出して都に巣くう魑魅魍魎どもを退治する。お前たちが天皇様のご恩に報いる良い機会である。心せよ」
衛士たちは一斉に背筋を伸ばし、杖で土間を突いて答えた。
隣の土間に、大伴古麻呂、多冶比犢養、小野東人、賀茂角足、道祖王らが息絶え絶えの様子で、血と泥にまみれて転がっていた。
道祖王は仲麻呂に気がつくと、顔だけ上げてきつい視線を向けてきた。何か言おうとしたが、口を開くだけで言葉を出すことはできず、しばらくすると仰向けになり目をつむった。
仲麻呂の後ろに来た巨勢麻呂が尋ねた。
「下級の者はともかく、皇族相手にやり過ぎ何じゃないか」
「秋霜烈日という言葉を知っているか?」
巨勢麻呂は首を横に振る。
「国家を治めてゆくためには、秋の冷たい霜や夏の激しい日差しのように、刑罰を厳かにしなければならないと言う意味だ。もとより我々を殺そうとした者に情けは無用だ。皇太后様のように温情だけの政では何度でも謀反を起こされる。自分は天皇様から全てを任されたから問題ない」
山から切り出してきた丸太のように転がされている道祖王たちを見ていると、石川年足と藤原千尋が寄ってきた。
「井出に集められていた秦一族は奈良麻呂に兵として雇われていたようです。謀反に関係した者どもを次々に捕まえていますが、小者までいれると百や二百ですみそうにありません。」
「二百人も関係しているのか。自分も嫌われたものだ。だが、二百くらいで済まそうとは思っていない」
仲麻呂の言葉に小首をかしげる千尋に年足が答えた。
「藤原様に反感を抱いている者は、奈良麻呂の謀反に関係ない者でも捕らえるのです。反藤原様を朝廷から一掃する良い機会なのです」
仲麻呂は肯いて年足に答えた。
「罪状は後から作ればよい。日頃から私に反発している者を片っ端からとらえよ。ところで、藤原一族で、奈良麻呂に関係した者は?」
「無節操に人を集めていた奈良麻呂でも、藤原の者を仲間に加えようとは思わなかったようです。藤原一族で名前の挙がった者はいません。ただ、右大臣豊成様の息子である
千尋は、
「右大様の息子を捕らえるのは……」
と言葉を濁す。
「千尋の懸念は無用。奈良麻呂を捕らえて拷問に掛けているが、そもそも奈良麻呂は前左大臣の息子。現右大臣の子であろうとも、天皇様に反旗を翻す者を許してはならない」
「豊成様は舅殿の兄君で、乙縄は甥に当たりますが……」
「豊成は兄ではあるが、堺麻呂から計画を知らされても、天皇に報告もしなければ、自ら動こうともしなかった。私を見殺しにしようとしたのだ。奈良麻呂も馬鹿ではないから、企みが露見する危険を冒してまで乙縄を陣営に引き入れようとはしなかったろうが、好都合だ。乙縄を梃子に、私を見捨てた豊成を追い落とす。長男だからというだけで無能な男は、台閣から退場願う」
豊成が朝廷からいなくなれば、自分が太政官筆頭として名実共に朝廷を牛耳ることができるのだ。ついに自分が国の頂点に立ち、国を治めることができるのだ。奈良麻呂の謀反を利用して、皇太子を替えたときから続く不穏な空気を吹き飛ばし、都を自分の色で染めてやる。
「乙縄殿を捕らえるのはしかたありませんが、黄文王や道祖王のように杖で打ち据えたら、豊成様や永手様など藤原様のご一門から批判されないでしょうか」
「石川殿の言うとおり、奈良麻呂に親しかったからという理由だけで、身内を打ち殺したとあっては外聞が悪い。千尋は、豊成の屋敷を兵で固めて人の出入りを止めよ。豊成も乙縄も禁足させ、そのうちにすべてを終わらせてやる」
右衛士府から、杖の音と悲鳴が聞こえてきた。捕らえられた者たちが厳しい取り調べを受けている。
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