上道斐太都の急報
執務室で黄文王や奈良麻呂への対処を考えているうちに一日が終わってしまった。日が西に傾いてきたので田村弟に帰ろうとしたときに、年足が上道斐太都を連れてやってきた。初めて仲麻呂の前に出た斐太都は恐縮して小さくなった。
仲麻呂の「顔を上げて報告せよ」という命令で斐太都は話し始めた。
「本日の昼過ぎに
「奈良麻呂たちは皇太后様の説諭を聞いていなかったのか。奈良麻呂は皇太后様のお気持ちを踏みにじった。せっかくお許しをいただいたのに大馬鹿野郎だ」
目を見開いた仲麻呂の気迫に、斐太都は下げた頭を床に打ち付けてしまった。
「それで、決行の日は」
「本日の深更ですので、急ぎ報告に参りました」
「今日の夜だと!」
仲麻呂の大声が執務室に響き、顔か見る間に赤くなった。握り拳は小刻みに震えている。斐太都は再度頭を打ち付けた。
「奈良麻呂は救いようのない奴だ。説諭の日に事を起こすのであれば、皇太后様であってもかばうことはできない。だが、こちらにとっては好都合。皇太后様には今回は見逃せと命じられたが、我慢する必要はなくなった」
年足を見ると「兵の用意はできています」と返してくれた。
「石川殿は五衛府の兵を率いて、道祖王、奈良麻呂、黄文王らの捕縛を」
「お待ち下さい。道祖王様は前の皇太子、黄文王様らは皇族、奈良麻呂殿は諸兄様の息子で参議を務めています。藤原様の一存で捕縛したら立場が悪くなります。先ずは小野東人や答本忠節ら下位の者を捕らえます」
「石川殿は奈良麻呂たちを野放しにしておくつもりか」
「千尋殿や巨勢麻呂殿に兵を率いてもらい、奈良麻呂殿らを屋敷に軟禁します。その間に東人や忠節に謀反の全容を白状させましょう。証拠があれば、皇太后様や天皇様であっても奈良麻呂殿をかばうことができません」
「斐太都の報告を聞いて頭に血が上っていたようだ。石川殿はよく言ってくれた。さっそく千尋や巨勢麻呂に命じよう」
立ち上がった仲麻呂の足下に斐太都は小石のようにひれ伏していた。
昼間の油蝉に代わって蜩が盛んに鳴き始め、茜色に染まった空に明星が輝き始める。
「斐太都は良い知らせを持ってきた。事が終わったら必ず褒賞する。自分と一緒に内裏の天皇様のところで話をしてくれ」
「藤原様は、斐太都を御前に連れて行って何をされるのですか」
「皇太后様は何事も穏便に済まそうとされるが、天皇は若いから違う。斐太都の話を直に聞かせれば、天皇は怒って奈良麻呂たちを許さないと言うだろう。奈良麻呂たちには権力の恐ろしさを味あわせてやる。そして私に反感を持っている奴らを一掃してやる」
仲麻呂は年足を見送ると、斐太都を連れて内裏に向かった。
天皇の前で斐太都は道ばたの石ころよりも小さくなって平伏し、東人の件について報告した。
「なんということですか! よりによって今夜謀反を起こすとは、私やお母様の話を全く聞いていなかったのですか」
天皇の大きな声に、斐太都は「申し訳ありません」と震える声で答えた。
「あなたが謝る必要はありません! 許せないのは奈良麻呂や道祖王たちです。お母様は悪事を知っても身内だから許そうと説諭をしたのに…… 奈良麻呂たちはお母様の思いやりを無視しました」
「御宸襟を騒がすのは良くないと考えて報告しませんでしたが、山背王様の上申によれば、奈良麻呂の一味は、精鋭四百を率いて田村弟に押し入り私を殺し、返す刀で内裏に兵を向けて天皇様も殺す。大伴古麻呂は任地の陸奥国へ向かう途中の不破の関で、関所を閉鎖して平城京から東国へ抜けようとする者を捕らえるという計画を立てているようです」
「奈良麻呂が田村弟を包囲するという話はお母様から聞いて知っていましたが、天皇である私を殺そうとは許せません。思い上がりも甚だしい。内相はなぜ私に知らせなかったのですが」
孝謙天皇の感情を抑えきれない怒りが部屋の中を切り裂き、仲麻呂と斐太都を突き刺した。平伏している斐太都はブルブルと震え出した。
「事実の確認をしてからと考えまして」
孝謙は仲麻呂の言い訳を遮る。
「私を殺そうという話は真っ先に報告すべきです。御宸襟を騒がすとか事実確認とかの前に話に来るべきです。直ちに奈良麻呂や関係者を捕らえて獄につなぎなさい。律令に従い厳しく罰します」
「お待ちください」
「内相は何を待てと言うのか。私や内相を殺そうとしているのですよ」
「謀反については断片的に分かっているだけで全貌はおろか首謀者すら明らかになっていません」
「奈良麻呂や道祖王が首謀者ではないのですか」
「現状では名前が挙がっているだけです。名前が挙がっている者だけを捕らえては首魁を取り逃がすことにもなりません。先ずは斐太都を誘った小野東人を捕らえて調べ、謀反の全貌と関係者を洗い出したいと思います」
「何を悠長なことを言っているのですか。今にも兵が乱入してくるかもしれないのですよ。ぐずぐずしていないで逮捕に出かけなさい。紫微内相の役職は伊達ですか」
「すでに、石川卿や千尋を向かわせていますのでご安心下さい。小野東人は勅許の官、道祖王は皇族ですので、逮捕には天皇様のお許しが必要と考えて、夕餉の時間でしたがお邪魔しました」
「謀反は大罪です。謀反を企てるような不忠者は、公卿であろうと私の裁可を待たず、内相の判断で捕縛しなさい」
きりりと口を結んだ天皇は、目の奥に怒りをたたえていた。直視されれば、心臓が止まるかもしれない。怒りのために顔は真っ赤になり、斐太都のような小者であれば吹き飛ばすほどの気を出している。
「天皇様からいただいている内相の職を懸けて謀反人たちを成敗します」
仲麻呂は頭を下げて、固まっている斐太都を連れて退席した。
内裏の外に出るとすでに暗くなっていた。月はすでに西の山に沈み、晴れた空には天の川を中心に星が輝き始めていた。宵の明星がひときわ明るく輝いている。
「斐太都は石川殿を助けよ」
仲麻呂の「行け」の言葉に、斐太都は闇の中に消えていった。
夜の闇と同じように、人生も一寸先が見えない。昼間の説教で奈良麻呂たちの謀反はなくなったものと高をくくっていた。もし斐太都が通報してくれなければ、自分は奈良麻呂に殺されて、明日の朝日を拝むことはできなかったろう。東人が愚かにも斐太都を誘ってくれたおかげで、逆に奈良麻呂に明日はなくなった。
皇太后様は皆で力を合わせて天皇を盛り上げろと言われたが、自分の命を狙う者を許すほどお人好しではない。奈良麻呂の謀反を奇貨として自分に反感を持つ者らを一掃してやる。人間万事塞翁が馬とは自分のことを言うのだ。
昼間の熱気は去っていたが、庭に敷き詰められた玉石はまだ温かかった。玉石を踏みしめるとジャリジャリという音が暗くなった庭に響いていった。
石川殿が言うように、奈良麻呂たちを屋敷に軟禁して動きを封じる。その間に、東人たち小者を拷問して謀反や関係者を自白させる。天皇に奏上して、奈良麻呂や皇族を捕らえる許可をもらい、罪を認めさせ仲間ともども処分してやる。ついでに、自分を邪魔に思う者たちも連座させて権力を手に入れる。
頂上への道筋が見えてきた。
仲麻呂のつぶやきに答えるように、烏の群れが鳴いた。
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