光明皇太后の説諭

 日の光が降り注ぐ朝堂院の中庭は暑かったが、内裏はひんやりとしていた。

 広間の上座には光明皇太后と孝謙天皇が待っていた。二人の難しい顔が広間の空気を固くしている。

 広間に入ってきた者たちはあわてて二人の前に座ってゆく。

 光明皇太后は公卿たちが揃ったのを見計らって口を開いた。

「皇族はもとより、橘、藤原など倭以来の一族は心を同じくして天皇にお仕えしなければなりません」

 皇太后の声は穏やかだが、憤りが含まれていた。

「お前たち公卿が天皇をもり立てて政を行うからこそ国が立ちゆくのです。しかし、先ほど天皇が百官の前で詔したように、王臣の中に謀反を企てる者があるという話が聞こえてきています。国には法があり、法に従って政を行わねば、国家の権威、朝廷の威信が落ち世の中が乱れてしまいますから、謀反の心を持っている者は国法によって処罰しなければなりません。お前たちは位階をいただく前から亡き太上天皇様にお仕えしてきました。太上天皇様はしばしばお前たちを召して、『朕が亡き後は天皇に尽くし国を支えよ』と仰せになったことを忘れてはいないでしょう。皆が心を一つにして天皇を助け、国を治めてゆかねばならないときに、謀反などという不忠が人の口に上ってはいけません。橘と藤原はみな私の甥です。大伴、佐伯の一族は歴代の天皇の親衛隊としてお側に仕えてきた氏族です。大伴は私の実家の縁戚でもあります。石上いそのかみ、石川は大臣を出した名族で、多治比、中臣も官人を輩出してきました。皆、皇室と祖を同じくし、倭以来この国を治めてきた家族なのです。争うことをやめ、清く明るい心を持って天皇に仕えなさい」

 集まっていた公卿たちは、一斉に頭を下げた。

 最前列にいた仲麻呂には、後列の奈良麻呂たちの顔を見ることができない。気配も感じることはできなかった。

 仲麻呂が顔を上げたとき、皇太后と天皇は依然として難しい顔をしていた。

 皇太后様と天皇は、奈良麻呂たちの企てをどこまでご存じなのか。橘といっしょに藤原の名が上がったことが気になる。伝統氏族の名前を一つ一つ挙げられたから気にすることはないのか、それとも、謀反は奈良麻呂に近いものだけではなく、朝廷全体に広がっているというのだろうか。

 右大臣の豊成が

「公卿百官は皇太后様、天皇様のご意志に背くようなことはせず、これからもお仕えします」

 と宣誓して解散となった。

 仲麻呂は公卿たちが引き上げた後に皇太后と天皇の前に出た。

「仲麻呂は口を開いてはなりません」

 皇太后はきつい口調ではあったが、顔には当惑の色が出ていた。

「仲麻呂は内相をいただいています。天皇から国家を預かり民を治める者の言葉は重いのです。ひとたび口を開けば、国家を乱そうとしている多くの者を罰することになるでしょう。あの子たちを罰するのは忍びがたいのです。天皇と私で説教しましたから、あの子たちは心を入れ替えて努めを果たすと思います。今回は見逃してやって下さい」

 仲麻呂は二人の顔を見比べた。

 母娘はそろって渋い顔をしている。

 事を荒立てないという考えは、本当に二人の意志なのだろうか? 皇太后様は自分と同じように、甥である奈良麻呂もかわいがっているが、天皇は疎遠な従兄弟程度にしか思っていないはずだ。天皇は皇太后様の説諭の間、憤然としていた。本当は自分に刃を向けようとした奈良麻呂たちを処分したいが、母親には頭が上がらないからしかたなく従っているのではないのか。説教で済まそうと考えていらっしゃる皇太后様には、自分も頭が上がらない。皇太后様ではなく、天皇を操れば奈良麻呂や黄文王たちを一掃できるかもしれない。

「承知いたしました。皇太后様の思し召しに従い、今回は事を荒げずに悪しき心が、清い心に入れ替わることを見守ります」

 内裏を出ると、年足と千尋が待っていた。

「奈良麻呂や黄文王たちも謀反の計画が天皇や皇太后様に知られたことを悟ったろう。石川殿が言うように、奈良麻呂たちも今回はおとなしくする他はない。皇太后様には動くなと釘を刺されてしまった」

「それでは小者を捕らえるという話は?」

「当面中止する」

 二人は難しい顔をしている。

「念のため平城宮や法華寺の警備を強化します。田村弟にも目立たないように兵を送り込みますのでお許しください」

「自分は、奈良麻呂や古麻呂らの屋敷の近くに兵を張らせます。井出や摂津に人を送り集められている兵の様子も探りましょう」

 仲麻呂が年足と千尋の申し出を許可すると、二人は一礼して去っていった。

 平城宮の空には、何羽もの雲雀がとどまって、騒がしく鳴いている。

 雲雀のように超然として上から眺められれば生きることは易しい。世の中は川の流れのようなもので、流れの中にいる人間は、泳ぐことに夢中で先や全体を見通すことができない。色々な人間の思惑が混じり合って濁流となり、多くの人は流されてゆくしかない。自分は川に流される者から、川の流れを司る者になりたい。

 先ずは、黄文王や奈良麻呂たちへの対処だ。

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