孝謙天皇の詔
仲麻呂が年足、千尋、宇比良古を連れて参内したとき、公卿百官はすでに朝堂院中庭に整列していた。仲麻呂は皇太后に会うことをあきらめて、整列した官人の先頭に立って皇太后が大極殿に出座するのを待った。
衛士府の兵が総出で平城宮の中を警護している。すべての宮門には普段の倍の兵が立っていて、大極殿の前と中庭の出入り口には、鎧甲に身を包んで長い太刀や槍を持った衛士が緊張を高めていた。
官人は役所別、位階順に整列して並んだが、行事が予定されていたわけではなく、突然の招集に不安な顔で周りの人間とささやき合っている。
高く昇った太陽がじりじりと人々を焼いていた。
仲麻呂が奈良麻呂たちを探していると、佐味宮守が寄ってきて、小さな声で、
「奈良麻呂様、黄文王様ら先ほど名前が出た方々はすべて揃っておいでです」
と言って下がっていった。
代わって光明皇太后と孝謙天皇が大極殿に現れた。
ざわざわとした話し声は一瞬で消え、公卿百官は立て膝になって頭を下げた。
「公卿百官に集まってもらったのは他でもありません。都に不穏な空気が漂っています」
孝謙天皇の凛とした声が中庭に響いてゆく。
「諸王や諸臣の中に反逆の志を抱く者がいて、私兵を備えて大宮を包囲しようとしていると何人もの奏上がありました。私は、公卿百官が明るく清い心で朝廷に仕えてくれていることを知っていますから、逆心を持つ者がいるとは考えられず、初めて奏上されたときには聞き流そうと思いましたが、同じ事を多くの人間が奏上してくるので捨てておけなくなりました。謀反は八虐に数えられる重罪であり、いったん取り調べを始めれば、多くの人を処分しなければならなくなります。政は法に従って厳粛に行うことが大切ですが、温情を忘れては成り立ちません。今回だけは無謀で愚か心を持っている者たちが改心することを期待します。身に覚えがある者は、すでに事が発覚していることをよく知り、人に咎められるようなことをしてはなりません。反逆の心を改めようとしない者は、私が慈悲の心を大切にして許そうと考えていても、国法が裁くことになるでしょう。おのおのは、自らの家や一族の名を汚さぬよう、これからも清く明るい心を持って職務に励みなさい」
皇太后、天皇が大極殿の中に消え、「解散」の号令が掛かると、百官は立ち上がり一気に騒ぎ出した。あちらこちらで集まりができ、天皇の言葉を巡って議論や憶測を始めた。橘卿とか藤原卿などという声が聞こえたが、大半の百官は事情が分からず、謀反という言葉におびえながら、それぞれの庁舎目指して歩き出した。中庭に敷き詰められた玉石を踏む音が蝉の大合唱と協奏する。
空からは肌を焼くような強い光が降り注いでくる。
仲麻呂は奈良麻呂、安宿王や黄文王を捜した。
奈良麻呂は仲麻呂とは対極の位置にいて古麻呂と立ち話をしていた。二人の様子に緊迫感はない。
奈良麻呂は孝謙天皇が自分の事を言ったのだという自覚がないのだろうか。それとも大衆の面前で取り乱すのを押さえているのだろうか。
安宿王や黄文王は見つけることができなかった。
いつの間にか横に来ていた年足が頭を下げる。
「塩焼王様は顔色をなくしてらっしゃいました。石川一族の者たちは、皆何を言われたのか分からない様子でしたのでほっとしております」
「藤原一族は?」
仲麻呂の問いには年足ではなく、千尋が答えてくれた。
「藤原一族でも狼狽えた人間はいませんでした。兄の永手や八束も何食わぬ顔をしていましたし、宿奈麻呂や浜成はきょとんとした様子でした」
「豊成は?」
「豊成殿は見かけませんでした」
「うろたえたのは、塩焼王だけというわけか」
「塩焼王様がどのくらい絡んでいたのかは分かりませんが心当たりがあることは確かなのでしょう。ほかにも下位の官人で狼狽している者がいました」
「今の説諭の中で、多くの人間が奏上してきたとあったが、宇比良古が言っていた人間以外にも皇太后様に密奏したものがいるのだろうか」
「奈良麻呂殿の計画は杜撰で、むやみに仲間を募っているようですから、山背王様や堺麻呂殿のように、誘われても不安や保身のために、天皇様に訴え出る者がいたのでしょう」
官人はそれぞれの庁舎に引き上げ、朝堂院の中庭には人がまばらになってきた。奈良麻呂や古麻呂の姿も消えていた。
「天皇の説諭を受けて奈良麻呂はどのように動くであろうか」
自分が奈良麻呂の立場ならば……
「奈良麻呂殿はもともと天皇様に批判的ですから、お言葉など意に介さないでしょう」
「石川殿は、奈良麻呂が改心せずに謀反すると考えるか」
年足は頷いて答えてきた。
「奈良麻呂殿は天皇様を畏れませんから謀反をあきらめないでしょう。ただ、今回のことは皇太后様や天皇様に知られてしまいましたから、しばらくは鳴りをひそめると思います。問題なのは天皇様が『改心を期待する』とおっしゃったので、奈良麻呂殿ら一味を捕縛することが難しくなったことです」
「奈良麻呂を捕縛できないのならば、山背王が名前を挙げていた下位の者たちをつかまえで自白に追い込み、山芋の蔓を引っ張るように奈良麻呂たちを陥れてやるまでだ」
日差しが強くなって、思わず手で庇を作ったとき、若くてかわいらしい采女が、
「内相様、兵部卿様、皇太后様が、五位以上の方々を内裏にお召しです」
と伝えてきた。
見れば、采女たちが走り回って何かを告げている。
「何があるのでしょうか?」
千尋の言葉に、仲麻呂と年足は答えることができず顔を見合わせた。
朝堂院はいつもの活気を取り戻し、蝉はうるさいほどに鳴きはじめた。気温がどんどん上がり蒸し暑さも増してきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます