橘奈良麻呂の乱
山背王の密告
七月二日早朝、仲麻呂は田村弟で蝉の大合唱を聞きながら漢籍を読んでいた。朝餉の前の読書は、仲麻呂の日課となっている。東大寺から借りてきている書を開いてみたが、早朝から汗ばむ季節は読書には向かない。書を閉じ汗をふいて、部屋から空を見ると、真っ白な入道雲がむくむくと大きくなりはじめていた。午後を待たずに、一雨来るかもしれない。お湿りがあれば、暑い夏も涼しく過ごせる。
庭に植えられている桔梗も雨が降れば、青い花を咲かせてくれるだろう。花が咲いたら青梅と一緒に天皇に届けよう。
仕事が一段落したら、天皇と大炊王を誘って避暑に出かけたい。幼い子供たちと大津で船遊びもしたい。
戸口に気配を感じて振り返ると、朝餉の代わりに、佐味宮守が人を連れて入ってきた。
「
山背王は、長屋王と
山背王はキョロキョロと、あたりを探るようにして部屋の中に入り、仲麻呂の前に座る。宮守は王の後ろに控えた。
山背王が震える声で、
「内相様にお知らせしたいことがあります」
と言い終わる前に中庭で雉がギャーと大きな声を上げて鳴いた。山背王は思わず首をすくめた。
「
山背王は両手をついて頭を下げた。宮守が山背王に「おっしゃって下さい」と促してようやく山背王は顔を上げた。
山背王の目は充血していて隈ができていた。
「私の兄である
「悪事とはどういうことであるか」
「橘奈良麻呂殿が大伴古麻呂と合力して兵を用意、田村弟を包囲し内相様を殺そうとしています」
「奈良麻呂が私を殺そうとしているのか!」
仲麻呂の大声に、蝉の鳴き声や湿気も一気に吹き飛び、山背王は頭を下げた。
「五ヵ条の勅で奈良麻呂たちを完全に押さえ込めたと思っていたのに何ということだ。詳しく話せ」
山背王は「はい」と頷いて続ける。
「昨年の十一月に
「歌会に集まったのは?」
「私と黄文王、安宿王、大伴家持、
「家持以外は小者ばかりで大事を起こせるとは思えない」
「歌会での話は冗談だと思っていたので、忘れていましたが、四月に皇太子が道祖王から大炊王に代わると、奈良麻呂殿の屋敷で儒教の講義と称して密会が始まり、同志を集めるとか、兵の手配や乱の後の台閣の陣容など具体的な話になってきました。私も兄たちに連れられて密会に参加していたのですが、あまりにも恐ろしいことに身が震え、佐味宮守の助言を受けて内相様に奏上に参りました」
古麻呂のところに送り込んだ宮守が山背王を説得したということか。
「それで、奈良麻呂屋敷の密会の参加者は」
「道祖王、塩焼王、大伴古麻呂、小野東人、大伴池主、多治比礼麻呂たちです」
宮守は仲麻呂に対して頭を深く下げた。
「兵の手配はどのような具合か」
「奈良麻呂殿は、兵四百で田村弟を包囲し、内相様はじめ田村弟で暮らしている藤原南家の人々を殺します。同時に法華寺を包囲し、皇太后様から駅鈴と玉璽を奪います。平城宮にも兵を差し向け、孝謙天皇様、大炊王を拘束して二人を廃位します。そのうえで、右大臣藤原豊成様を台閣の長として、塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王の四人の中から新しい天皇を立てるという計画です。皇太后様や天皇様に手を上げるなどという恐ろしいことに身も心も震え、食事も喉を通りません。兄の黄文王や安宿王に、謀反をやめるように説得したのですが、二人は聞く耳を持ちません。逆に私を弱虫と罵り一緒に殺してしまうと脅してきました」
「兵四百で包囲して、私を殺すのか」
仲麻呂の鋭い言葉に、山背王はさらに身を小さくする。
「たとえ私を殺し、孝謙天皇や大炊王を引きずり下ろしたとしても、四皇子の誰が天皇になるかで揉めるだろう。ずさんな計画だ。豊成の名前が出たが、兄はどこまで関与しているのか」
「豊成様が密会に出られたことはありません。温厚で人が良いので御輿として担ぐだけです」
「奈良麻呂自身が左大臣になればよいのに。自分の名前で
「私は……」
山背王の声は消えていった。
「律令で謀反は八虐の一つに上げられていて、国家に対する重罪であり死罪と決まっている。大赦でも許されることはない。しかし、山背王は謀反の一味から離れて事前に告発に来た。忠臣と誉められても責められることなどない」
「黄文王や安宿王は謀反を企てているとはいえ私の兄です。死罪だけは免じてもらえないでしょうか」
「すべては天皇様の御裁可によるが、山背王のおかげで謀反を未然に防ぐことができるのであれば、私も口添えしよう」
山背王は「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
「五ヵ条の勅で都が落ち着きを戻したと思っていたので油断してしまった。山背王には危ないところを助けてもらったことになる。感謝する。仏様が山背王を遣わせて危機を知らせて下さったのだ。それにしても、五ヵ条の勅で一族の集会や兵馬を集めることを禁止している。奈良麻呂たちはどこで打ち合わせをしていたのだ」
「その質問には私から答えましょう」
石川年足は、「途中から立ち聞きしまして申し訳ありません」と言いながら部屋の中に入ってくると仲麻呂の前に座った。
「奈良麻呂殿は、昨日の夕方、太政官院で集まりを持っていました。集まっていたのは黄文王様、安宿王様、道祖王様、奈良麻呂殿、古麻呂殿、
「屋敷で集まれないから、宮中で集まっていたのか。それで奴らは何をしていた」
「近づくことができませんので分かりませんが、最後は全員で北の方角を向いて頭を下げていました」
「山背王に尋ねる。奈良麻呂たちが謀反を起こす日はいつだ」
「七月二日の夜です」
仲麻呂と年足が「今日ではないか!」と大声を出して立ち上がると、山背王は「申し訳ありません」と両手をついて頭を下げ、宮守は首を横に振った。
「私が見たのは必勝祈願でしたか。無理をしても捕らえれば良かった」
「兵四百で田村弟に討ち入ったうえに、法華寺や内裏にも兵を向けるとすれば合計で千は必要だろう。宮中の兵は兵部卿である石川殿に押さえてもらっている。どこに兵を集めているというのか」
年足と宮守が顔を見合わせたとき、
「摂津および山背国井出に兵を集めています」
と戸口から声がした。藤原千尋は部屋に入ると仲麻呂に一礼した。
「奈良麻呂の屋敷から下人が頻繁に出て行きますので、家人に跡をつけさせましたところ、摂津や山背国井出に兵糧や武器を蓄えていました。奈良麻呂は摂津大夫をしていたことがありますので土地の者たちとは親しいのでしょう。井出は諸兄様の時代から別荘があります。まさか今日の夜に事を起こそうと考えていたとは…… 下人から知らせを受けて嫌な感じがしたので、早朝は失礼かと思いましたが舅殿のところへ来て良かった。先手を打ちましょう。さっそく五衛府の兵を率いて奈良麻呂たちを捕縛します」
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