五箇条の勅

 手で庇を作って見上げると、雲一つない真っ青な空が広がっていた。早朝だというのに、夏を思わせる太陽は、じりじりと肌を焼くような光を落とし、立ち止まれば汗がにじんでくる。

 仲麻呂は輿を使わずに、長い太刀を佩いた五人の舎人を従えて、朱雀大路を平城宮に向かって歩いていた。道幅が四十間(約七十二メートル)もある朱雀大路は、真っ直ぐ北に延びて朱雀門に当たり、南の端には羅生門を持っている。荘厳華麗な朱雀門と羅生門に囲まれた大路は文字どおりの王道である。天皇が行幸に出かけるとき、車駕は必ず朱雀大路を南下する。授刀舎人を連れて大路の真ん中を歩くだけで気持ちが大きくなる。人々は淡い紫の礼服を着た仲麻呂を見ると道を空けてひれ伏した。

 大路は行き交う人や荷車で賑わっていた。絹の反物を背負って納めに来た青年たち、馬の背に袋一杯の塩を運んでいる役人や、荷車一杯に油の入った瓶を乗せて、一人が前で曳き、二人が後ろから押して西市へ運ぼうとしている商人がいる。通りに店を広げ、座り込んで野菜を売っている老人は、だみ声を上げていた。どこからか物売りの威勢の良いかけ声も聞こえてくる。堀川で洗った着物を持った女たちが、辻の角でおしゃべりに興じていた。子供が三人、白黒ぶちの猫を追いかけて遊んでいた。どの人の顔も明るく生き生きと輝いている。大路から奥へ入ったところには新しく建てられた家が何軒か見え、槌の音も聞こえてきた。

 通りの賑わい、民の服や表情、町屋の様子を見ることで、国の実情を肌で感じることができ、政に生かすことができる。宮中から出ることのない天皇、輿に乗って参内することが権威であると考えている豊成や永手にはできないことだ。

 風が吹くと土埃の臭いがする。梅雨の時期なのに雨は降らず、道は埃っぽい。

 このまま雨が降らなければ、秋の実りが心配になる。天皇に雨乞いを奏上して、諸国の神社に幣帛みてぐらを奉らなければならない。

 不意に誰かに見られているような感じがして、仲麻呂は立ち止まって辺りを見回した。供の舎人が「いかがなさいました」と尋ねてくる。

「田村弟を出たときも感じたが、誰かに見張られているような感じがする。お前たちは何も感じないか」

「我らは田村弟の内外、参内の道々を警護していますが、あやしい者は見かけていません。内相様に何かしようという不逞な輩がいるとは思いませんが、もしいたとしても我らが取り押さえ、内相様には指一本さわらせませんゆえ、ご安心下さい」

 鎧に身を包み、長い太刀を佩いた舎人は、額から流れる汗を拭いながら答えてくれた。

 平城宮に入ると護衛は衛士府の兵に替わる。町の賑わいは門で止められて、宮中は厳粛な雰囲気に包まれていた。

 仲麻呂が兵を従えながら、平城宮の庭、朝堂院の廊下を行くと、百官、舎人や采女たちはいつものように跪いて頭を下げてくれる。

 しかし、何かが違う。

 常に視線を感じる。柱の影、板壁の向こう側、庭の隅からいつも見張られている気がする。不審な人間が跡を付けているのならば護衛の兵が気づくであろうから、気のせいかも知れないが……

 仲麻呂が式部省に立ち寄ると、奈良麻呂と黄文王が話をしていた。二人は仲麻呂を見つけると立ち上がって頭を下げ、連れだって部屋から出て行こうとした。

「橘卿はしばらく朝議を欠席していますが、次の朝議では雨乞いと、難波津の改修について話し合います。摂津職を経験した貴卿にはぜひ出てきて意見をもらいたい」

 奈良麻呂は獲物を狙う鷹のような目で見返してきた。

「私は今まで父の喪に服していたので朝議に出ませんでしたが、次回の朝議に内相様が出るようにと仰せであれば、必ず出席いたします」

 奈良麻呂は、表情を変えず抑揚のない声で答えると、黄文王と共に仲麻呂の横をすり抜けていった。

 宮内省では永手と八束に会ったが、二人共に口を利かずに仲麻呂から遠ざかっていった。道祖王は仲麻呂を見つけると、踵を返してどこかへ行ってしまった。

 大規模人事で大勢の官人を引き上げた当初は宮中の空気が代わったと感じたが、二十日もしないうちに元に戻ってしまった。

 来年の人事で公卿たちを懐柔すればよい。どのみち私を妬むだけで何もできはしない。

 仲麻呂が太政官室で執務をこなしていると年足が入ってきた。

「橘屋敷に潜り込ませた斐太都の報告によりますと、奈良麻呂殿は黄文王様や大伴古慈斐おおとものこしびらと頻繁に連絡を取っているようです」

「奈良麻呂と黄文王の組み合わせならば先ほど式部省で会った。私に対して敵意むき出しだったが、奴らは何か企んでいるのだろうか。もし私に対して刃を向けてくるようであれば返り討ちにしてやる。ただ、道祖王を引きずり下ろしたことで、官人や都人の私を見る目が冷たい。宮中や都の雰囲気が変なことも気になる」

「都の雰囲気と言えば、亡者の群れが佐保川を下ってゆき四条大路のあたりで消えたとか、ほうき星が吉野の山に落ちていったという話が広まっています。都人たちは、国に変事が起こる前触れだと囃しています」

「亡者が四条大路で消えたとは、田村弟に入ったと言いたげだな。国の変事とは、日照りや流行病はやりやまいではなく、私がどうにかなるということだろうか」

「東西の市で米を大量に買う者がいて、米の値段が上がっています。また、河内や山背で練兵していたという知らせがあります。亡者の群れはともかく、何者かが良からぬ動きをしていることは確かです」

「奈良麻呂が本気で謀反を企てていると」

「斐太都はまだ奈良麻呂殿の懐に入りきれていませんので、奈良麻呂殿が画策しているかどうかは不明です」

「皇太子を替えたことに憤りを感じる者や、権勢を嫉む誰かが私に危害を加えようとしているのだろうか。近頃は妙に視線が気になる。私を殺したいとまで思う者は、道祖王と奈良麻呂ぐらいだろうが……」

「黄文王様、古慈斐、古麻呂、全成、永手様、兄君の豊成様もです」

「石川殿は容赦がない。そんなに敵の名前を挙げなくても良いではないか」

「一人の首謀者の元に集まっているのか、何人もが個別に企てているのか分かりませんが藤原様に敵対して、一騒動起こそうとしていることは確かです。太上天皇様が不予の時と同じように、紫微中台と中衛府の兵を動員して未然に防ぎたいと考えます」

 宇比良古が戸口できょろきょろとあたりを見回すようにして入ってきた。

「最近誰かに見張られているような気がして落ち着きません。采女たちの中には誰それが兵を挙げる準備をしていると噂している者や、都が戦火に飲まれるから泉や飛鳥に逃れた方がよいと話している者がいます」

「誰が兵を挙げると」

「言っている本人を呼び出して問い質しましたが、又聞きで誰かはっきりしませんでした。噂話をしている者たちをきつく叱っておきましたが、長屋王様と吉備内親王様の亡霊が西池にたたずんでいるのを数人が見ていて、采女たちに動揺が広まっています」

「悪意ある噂を振りまいている者がいるようだ」

「下級の舎人たちも同様で、誰が勝つとか、勝ち馬に乗るためには誰の元で働くべきかとか不埒なことを話題にしています」

「舎人たちの間で名前が挙がっている者は?」

「道祖王様、奈良麻呂様、黄文王様、永手兄様などです」

「私を公然と嫌っている人間を上げても意味がない。舎人たちの言うことは当てにならんな」

「ただ、采女の一人が、西の市で飼い葉が大量に取引されたのを見ています。宮中や都のギスギスした雰囲気からも誰かが企んでいるようで怖いです」

「藤原様に先ほど申し上げましたように、都に兵を配して不穏な空気を鎮めます」

 仲麻呂は出て行こうとする年足を呼び止めた。

「実は私も石川殿と同じことを考えていた。今回は辻々に兵を立てるだけではなく、勅令も用意した」

 仲麻呂が年足に見せた紙には、氏族の集会の禁止、武器の携行禁止など五ヶ条の禁止事項が書いてあった。事実上の戒厳令である。

「勅令と紫微中台の兵をもって都の不穏な動きを封じる。力で押さえつけて悪巧みをする者たちの心をくじいてやる。隙があれば、律令に則って処分してやる」

 年足から受け取った書状を読んだ宇比良古が質問してきた。

「力ずくで都を押さえたら仲麻呂様の評判が悪くなるのではないでしょうか」

「太上天皇様の遺詔に背き道祖王を引きずり下ろした時点で、自分の評判は悪くなっている。だからといって倒されるわけにはいかない。逆に首謀者に全てを押しつけて、自分が英雄になって見せる。というわけで、石川殿は首謀者の特定を行ってくれ」

「都に兵を出すのは?」

「宇比良古は巨勢麻呂と千尋のところへ行って、紫微中台と中衛府の兵を出すように伝えてくれ」

 宇比良古が一礼して部屋を出て行くと、年足も

「斐太都や宮守とつなぎを取ります」

 と言って出ていった。

 二人に代わって、部屋の外から湿った風が吹き込んできた。ひと雨来るらしい。

 仲麻呂が出した「五ヵ条の勅」と紫微中台の兵のおかげで、都は再び平静さを取り戻していった。

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