第二章 橘奈良麻呂の乱

五ヵ条の勅

大規模人事

 軒下の巣に燕が盛んに出入りしている。親燕が巣から出て行くと、子燕たちは淋しそうにピーピーと鳴き、親燕が戻ってくると、待ってましたとばかりに大合唱を始める。

 太政官室の仲麻呂は燕の鳴き声に筆を持つ手を休めて、開け放した戸口から庭を見た。

 花曇りの空の下で、新緑の木々は深みを増している。躑躅は花がすっかり終わり、紫陽花が出番を待つように蕾をふくらませていた。梅雨が近いせいだろうか空気が湿っぽい。

 道祖王を引きずり下ろして、大炊王を擁立することに成功した仲麻呂に、面と向かって逆らえる者はいなくなったが、すべての人間が傘下に入ったわけではない。宇比良古は「仲麻呂が内相になって政を一手に握ったので、貴族たちで嫉んでいる者が多い」と宮中の様子を教えてくれた。

 権力闘争の基本は敵と味方を峻別することにある。味方を優遇して結束を固め、敵は差別して殲滅する。誰彼かまわず味方にすればよいと言うものではない。反対に四面楚歌の状況に陥ってはならない。誰を味方にして敵にするか、誤った選択は自滅につながる。

 奈良麻呂や黄文王は敵だと分かっているが、奴らの与党がどのくらいの広がりがあるのか、永手や八束は正面から敵対してくるのかを見極めるために、大規模昇叙を行い、あわせて公卿百官の不満を鎮める。昇叙という餌につられておとなしくなる奴らは敵ではない。上げてやってもなお不満をくすぶらせる者は、奈良麻呂と一緒に葬ってやる。

 仲麻呂の目の前を親燕がすっと飛んだとき、子燕の騒ぎが聞こえなくなるような大歓声が朝堂院から響いてきた。仲麻呂は朝堂院の方に目をやった。

 大炊王の立太子で遅れていた昇叙と任官の発表が行われたらしい。位階が上がった者や昇任した者たちが興奮して喜びの声を上げているのだろう。

 自分も下位の頃は、人事の発表は、前日からそわそわしたものだった。二十九歳の時に、聖武天皇様から従五位下を下賜されたときの感動は今も覚えている。雲の上の存在であった天皇から、直接いただいた木簡は今も大切に取ってある。あまりの緊張に、木簡を受け取る手の動きや、お辞儀がぎごちなかったことは、思い出すと笑えてくる。今回の人事は大盤振る舞いしたから、天皇から辞令をもらうのではなく各省のかみ(長官)からもらう手はずになっている。天皇からではなく卿から渡されるのでは、ありがたみが少なく感じられるかもしれないが、昇叙した者たちの興奮はよく分かる。

 下位の官人の感想など気にする必要はない。問題は、人事に口を出すことができなかった豊成や永手、自分を快く思っていない者たちの反応だ。

 道祖王を廃太子に追い込み、大炊王を皇太子に据えた手法は強引すぎた。宇比良古に言われなくても、朝廷内で反発を招いていることをひしひしと感じる。今回の人事の名目は、大炊王の立太子を祝うであるが、自分に対する反感を和らげるための大盤振る舞いなのだ。

 宇比良古が一礼して入ってきた。

「今回の昇叙や任官に朝堂院は文字どおり沸きだっています。私は後宮十二司にいたのですが、あまりの騒ぎに思わず宮内省や中務省まで見に行きました。中務卿は皆の興奮を収めるのに躍起になっていました。正月に昇叙がなかったので、首を長くして待っていた者が多かったのだと思います。考課の年限が来ていない者も査定の対象とし昇進者を多くして下さいましたので喜ぶ人が多いようです」

「公卿たちの様子はどうだった」

「あまりにも騒ぎが大きかったので……」

 と宇比良古が言い淀んでいると巨勢麻呂が入ってきた。

「兄者の作戦はおおむね当たっている。五位の者たちのほとんどは昇叙があると思ってなかったから、帰ったら祝いの宴だと大喜びしていた。太上天皇様の服喪期間だから宴会はするなとすぐに叱ったが、顔は笑ったままだった。式部卿は、今日は仕事にならないから早々に閉庁すると言ってた。藤原一族は昇叙、任官がほとんどなかったので静かなものだ。式家の宿奈麻呂だけが従五位上に昇叙され民部少輔ももらったからはしゃいでいた。宿奈麻呂を昇叙するなら俺も上げてくれたって良かったじゃないか」

「藤原の者を上げなかったのは公平を装うためだ。お前を上げたら、ひいきと映ってせっかくの大規模人事が台無しになる。次は上げてやるから、今回は我慢してくれ。ところで、永手たちの様子はどうだった」

「永手も八束もふてくされた顔をしていた。俺でも今度の人事の意図が分かるくらいだから、永手や八束も兄者の考えていることを察したのだろう。あと豊成の兄貴は正二位に上がったというのに特に喜ぶでもなく、何を考えているのか分からなかった」

 年足が入ってきて巨勢麻呂の後を継いだ。

「昇叙された池田王様や塩焼王様は満足そうでしたが、道祖王様の姿は見かけませんでした。おそらく屋敷に籠もっているのでしょう。問題の奈良麻呂殿ですが、兵部卿(正四位下相当)から右大弁(従四位上相当)へ移動はやり過ぎだったかもしれません。怒りを必死に隠そうとしていましたが、誰も話しかけることができないほどの、近づけない雰囲気を出していました」

「従三位の石川殿に兵部卿を任せて申し訳ないと思っています。いずれ中納言として活躍していただきますので、しばらく辛抱して下さい」

「大伴古麻呂を陸奥国へ左遷したのなら、ついでに道祖王や橘奈良麻呂みたいな目障りな奴らを九州へ左遷すれば良かったじゃないか」

 巨勢麻呂の言葉に宇比良古や年足は白けた顔をした。

「奈良麻呂を九州の国司に左遷することも考えてみた。佐伯全成さえきまたなり大伴家持おおとものやかもちのような中小氏族ならば、国司として外に出すことができるが、奈良麻呂は前左大臣の息子であるし、参議をもらっている者を国司にしたら、参議の権威が落ちる。大宰帥だざいのそち(大宰府長官)も考えてみたが、大宰府は遠朝廷とおのみかどだ。広嗣のように兵を挙げられても困る」

「広嗣の乱は簡単に治まった。奈良麻呂が兵を挙げるのならば叩きつぶしてやればよい」

 巨勢麻呂の言葉などなかったように、年足は続ける。

「奈良麻呂殿は、盟友の佐伯全成が降格されたことや、後任の兵部卿に私が任じられたことを聞いてすべてを察したのでしょう。廊下で鉢合わせたときには、親の仇にあったように睨まれて、思わず後ずさりするほどでした。大伴古麻呂も陸奥鎮守府へ行けと言われて怒りを隠さなかったと聞いています。五位以上の勅許はもとより、六位以下でもはっきりと色分けされました。佐伯古麻呂、小野東人おのあずまびとなどは昇叙の時期にあたりますので、悔しさをかみ殺していました。道祖王様に近寄って出世しようとした者をことごとく左遷しましたので、一般の官人は藤原様に逆らうことの不利を学ぶことができたかもしれませんが、左遷した者たちが、へこんだままでいるとは思われません」

「石川殿の指摘はもっともだが、奈良麻呂は以前から天皇や私を追い落とす野望を持っているし、諸兄を追い落としたので、私を怨んでいるだろう。追い詰めてたたきのめそうと考えている」

「敵を無くす方法には二つの策があります。一つは味方にして自らに取り込むこと、もう一つは、根絶やしにして消し去る方法です。味方にすれば自分の力が増えますが、敵を根絶やしにする際には、自らも傷つき消耗します」

「石川殿の言わんとすることはよく分かるが、これまでのいきさつから、奈良麻呂が自分の元に来るとは思えない。天下を目指すためには避けて通れない事であると思っている」

 年足は深く頭を下げた。

「藤原様の覚悟を試すようなことをして申し訳ありませんでした。私も藤原様と同じ夢を見ましょう」

 仲麻呂と年足が話をしているうちに、藤原千尋や佐伯毛人、小野田守など仲麻呂の息が掛かった者たちが集まってきた。昇叙、任官された者も多いことから、部屋の中が賑わしくなってきた。

 仲麻呂は「皆聞け」と騒ぎを静めた。

「本来ならば昇任祝いを催したいが、太上天皇様の服喪期間中であるため宴を開くことはできない。宇比良古から餅をもらって家に帰ってくれ」

 宇比良古は用意していた餅と酒を手際よく渡してゆき、もらった者は部屋を出て行ったが、年足だけは残った。

「石川殿はどうした」

「奈良麻呂殿と古麻呂の元へ人を送り込みたいのですが、お許し願えないでしょうか」

「許すも何も。石川殿のことだから人選も済ませてるのだろう」

「中衛舎人に上道斐太都かみつみちのひたつというはしっこい人間がいます。斐太都を奈良麻呂殿の屋敷に、元橘家の資人だった佐味宮守さみのみやもりを古麻呂の元へ送り込もうと考えています」

 仲麻呂が「石川殿の好きにしてくれ」と言うと、年足は頭を深く下げた。

 仲麻呂が、

「私は則闕官そつけつのかんとされている太政大臣になろうと考えている」

 と言うと、年足はニッコリと笑い、

「いよいよ頂点を目指すのですね。藤原様が太政大臣になられたら、私を左大臣にして下さい」

 と言って部屋を出て行った。

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