大炊王擁立

 仲麻呂が孝謙天皇に大炊王を紹介してから十日後、月末の定例朝議が開かれた。

 朝議は四月の行事や各地の田植えと養蚕の状況が報告されて順調に終わった。孝謙の横に座る道祖王が腰を上げようとしたとき、孝謙は「さて」と口を開いた。藤原豊成、文室浄三、多治比広足、藤原永手ら太政官は、はっとした顔で孝謙を見た。

「道祖王は皇太子としてふさわしくない行いが多々あります。王は太上天皇様の服喪期間中から淫欲をむさぼっていました。汚らわしいことに、御陵の土が固まる前から童女を相手に姦淫していたと聞いています。寝物語で朝議の内容を采女に話したこともあったようです。私は道祖王に何度も注意して諭したのですが、王は言を左右に言い訳を繰り返すだけで行いを改めようとはしませんでした」

 突然の話に、道祖王は顔を真っ赤にして孝謙を睨んだが、豊成や他の者たちは眉一つ動かさない。物を落とせば響きそうな部屋の中で、孝謙の声が流れてゆく。

「孝行でない子供は、慈しみ深い父でも不憫と思わず、礼儀を知らない臣下は、聖人君主であっても見捨てると言います。道祖王を皇太子から外したいと考えますが、諸卿の意見はいかがでしょうか」

 孝謙が言い終わらないうちに道祖王は大きな声を上げた。

「前からご説明しているように、自分は慎ましい生活をしており子供相手に姦淫などしておりません。四条大路に住む狸があらぬ噂を流しているのです」

 道祖王の声は部屋の中でむなしく消えていった。奈良麻呂は、父諸兄の服喪期間中で朝議を欠席していて、道祖王を助けてくれる声は出てこない。

 孝謙天皇は藤原豊成を指名した。

「私も道祖王様の不行状には心を痛めておりました」

 道祖王の「兄弟揃って私を誹謗して陥れようとするのか」という怒鳴り声を気にせず、豊成は続ける。

「皇太子は将来の天皇として、公卿百官や民の手本とならねばなりません。本人を前に申し上げにくいことですが、道祖王様の行いは皇太子としてふさわしいものではありません。臣下は天皇様に従うものであれば、私は道祖王様に皇太子の座を降りていただくことに異存ありません」

 道祖王は立ち上がると拳を握りしめ「藤原の陰謀だ」と絶句した。

「道祖王を皇太子から外すことに異議があるものは手を上げなさい」

 孝謙の問いに手を上げる者はいなかった。

 道祖王は握りしめていた拳を解くと「俺はなりたくて皇太子になったのではない」と捨て台詞を吐いて、ドタドタと足を踏みならしながら部屋を出て行った。

 道祖王の怒気がなくなると、部屋の中が明るくなった。

「道祖王程度の器量では天皇として国を治めてゆくことはできません」

 道祖王の背中を見送った孝謙は、仲麻呂たちの方に向き直った。

「さて、皇太子の座が空いていては、人々の心が定まりません。皇嗣として誰がふさわしいか、諸卿の意見を求めます。右大臣はいかがか」

 豊成は天皇に一礼する。

「塩焼王様は新田部親王様の皇子みこ様ですので、血筋と見識を考えると皇嗣にふさわしいと考えます」

 豊成の言葉に、藤原永手が賛同した。

「自分は舎人親王様の皇子である池田王殿を推薦したいと考えます」

 文室浄三の進言には、大伴古麻呂が賛同した。

 池田王、船王、塩焼王などそれぞれに推す人間が出て議論が白熱してきたとき、孝謙は、それまで何も発言していなかった仲麻呂に意見を求めた。

「子供のことをよく知るのは親であるように、臣下のことを最もよく知っているのは君主です。家の中にいては、家の大きさが分からないように、臣下の列にいては、皇族方のことは分かりません。皇族や臣下を知るのは超然と構えていらっしゃる天皇様以外にはありません。私は天皇様が選ばれる人物に異議を申し上げることはありません」

 孝謙は仲麻呂の言葉に満足したという表情を浮かべる。

「皇太子とは天皇の見習いです。年をとって頭が固くなり新しいことに対応できなくなった者や、人の教えを素直に受け入れられない者はいけません。若く柔軟な頭の持ち主で元気がある者がよろしいでしょう。皇族は大勢いますが、血筋、能力、年齢を考えると、皇太子になれる者は多くありません。道祖王が皇太子として不適であるという理由の一つに、淫らな行いを上げました。船王は閨房が乱れていますので皇太子にふさわしくありません。池田王は孝行に欠けるところがあります。道祖王の兄である塩焼王は女嬬とともに伊豆に流されたことがあります。唯一大炊王だけは悪い噂を聞いたことがありません。大炊王はまだ若いですが、皇太子に立てようと思います。諸卿らはいかが考えますか」

 仲麻呂は、年足を除くすべての太政官から睨みつけられた。

 孝謙天皇が顔を向けた豊成は、しぶしぶ

「天皇様の御心に従います」

 と答えて頭を下げた。仲麻呂と年足以外の太政官たちは、つまらない冗談を聞いたように白けた顔をした。

 仲麻呂は永手たちを気にかけることなく、すまして言う。

「大炊王様には別室にて控えていただいています」

 仲麻呂の指示で、采女が大炊王を連れてきた。

 大炊王は爽やかな風といっしょに部屋に入ってきた。王は、紫の冠に水色の衣という出で立ちで、金象眼の短剣を佩いていた。すらりと伸びた背に、濁りがない瞳、締まりがある顔、血色が良い肌は、青年らしい気を放ち、中年でくたびれた道祖王とは違い新鮮さがあった。

 数人がため息を漏らすと、孝謙天皇はうれしそうに微笑んだ。

「大炊王を皇太子とします。あわせて大納言藤原仲麻呂卿を紫微内相に任じます。内相は右大臣と同格とします。仲麻呂卿は大炊王の立太子の儀を取り仕切りなさい」

 豊成、永手、浄三、古麻呂らが再び仲麻呂を睨みつけてきた。

 仲麻呂は心の中で笑う。

 道祖王を皇太子から降ろすことを伝えた時から、皆が意中の皇族を皇太子にするために動き出す事は分かっていた。永手や古麻呂は多数派工作していたらしいが、ご苦労様であった。皇太子を決めるのは孝謙天皇だ。いくら朝廷で多数を占めたところで孝謙が首を縦に振らねば、皇太子にできないことは分かりそうなのに、労多くして益なしとは馬鹿な奴らだ。大炊王が皇太子になるとは、誰も思っていなかったろう。ついでに自分が右大臣格になるとも思ってなかったろう。豊成や永手が怒り心頭なのはよく理解できる。一番怒るのは、朝議に出ていない奈良麻呂であろう。だが、天皇の裁可が下った後では歯ぎしりをしても間に合わない。完全に後の祭りだ。権力とは与えられるものではなく、意志を持って勝ち取るものなのだ。

 こみ上げてくる笑いをこらえるのが苦しい。

 大炊王は孝謙天皇の横に座った。背の高い大炊王を、孝謙が見上げる。

 並んだ二人は年の離れた姉弟というよりは恋人のように見えた。

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