青年皇族
孝謙は土器を口にしたまま、しばらくの間固まっていた。
「よろしいでしょう。藤原卿の言うとおり道祖王を皇太子から降ろすとして、代わりは誰にするのですか。お父様も塩焼王、安宿王、黄文王と悩まれた末に道祖王を選んだと思いますが」
仲麻呂が桃の木の下で立て膝になっていた青年を手招きすると、青年は仲麻呂たちの前に立つと深々とお辞儀をした。
水色の衣を藍の帯で締めた青年は、浅瀬を飛び跳ねて登ってゆく鮎のようにはつらつとしていて、眩しいほどの若さが体から出てきている。背が高くて太い腕や広い胸と無骨者のようでありながら、引き締まった顔つきをして、目の奥には教養を秘め、折り目正しい身のこなしからは高貴さが漂っていた。
「舎人親王様の末子である大炊王様です」
青年は再び頭を下げた。
「先ほどからお酒を注いでくれたり、肴を出してくれたりしていましたが、冠をしていないから、田村弟の資人の一人だと思っていました」
孝謙天皇は、大炊王の酌をうれしそうに受け取る。
「今年で二十五になりますが、位階をいただいていないので冠はありません。幼いときに父を亡くしてから、母の
大炊王の濁りのない声が、爽やかな風を運んできた。桃の花で蜜を吸っている雀が大炊王に返事をするようにさえずり、木漏れ日が揺れた。
「
「大炊王様は二世王です。二世王は大炊王様ぐらいの年では位階をいただいていません。私も次男ですので従五位下をいただいたのは二十九のときでした。大炊王様はまだ若く、頭も柔軟ですので、政も良く覚えてくれると思います」
「大炊王に妻や子はいるのですか」
「妻は
仲麻呂が手招きすると、諸姉が赤ん坊を抱きかかえながら、大炊王の母親の
諸姉が、「夫が世話になっております」と頭を下げると、大炊王は照れながら頭をかいた。
孝謙は赤ん坊を抱かせてもらい、うれしそうにあやし始めた。白い絹の産着にくるまれた赤ん坊は、丸い眼で孝謙を見つめると、ころころと笑い、両手を上げて孝謙の顔に触れようとしてきた。孝謙は思わず微笑む。
「大炊王は妻子を大切にして母を敬うことで、隆尊律師が講義していた孝行を実践しているようです」
大炊王は「畏れ入ります」と頭を下げた。
「やはり皇太子には、爽やかな青年がふさわしいでしょう」
と孝謙が言うと、仲麻呂たちは立て膝になって頭を下げた。
「主立った公卿には私が根回ししておきます。天皇様は朝議の場で諮問してくださるだけで充分です」
仲麻呂が右手を挙げると、十人ほどの楽士が寄ってきた。大炊王は楽士についてきた下女から横笛を受け取る。
「大炊王は笛を吹くのですか」
「なかなかの名手で、田村弟で宴会を催すときには欠かせません」
大炊王たちは一礼して演奏を始めた。
大炊王が演奏する主旋律に、楽師たちの笛や琵琶、鼓が絡んで風に乗り庭をめぐる。孝謙が抱きかかえる赤子も、父親の方を向き、曲に合わせて小さな手をたたいた。
一曲終わると、諸姉が赤子を受け取り、山背が土器に酒を注ぐ。
次の曲が始まると、桃色の衣を身にまとった少女たちが出てきた。柔らかな陽射しの中で、白い花に囲まれて桃色の衣がひらひらと舞う。
「お父様が亡くなってから、以前にも増して藤原卿は気を配ってくれます。今日も私の気持ちを良く汲んでくれました。お礼をしたいと思うのですが、何か望みはありますか」
「太上天皇様が亡くなってから、都はまだ落ち着きを取り戻していません。紫微令をいただいているのですが、
「よろしいでしょう」
孝謙天皇が仲麻呂に答えたときに、大炊王の笛がピーと鳴り響き曲の演奏が終了した。
孝謙天皇が立ち上がって拍手すると、大炊王たちは立て膝になって深く頭を下げた。
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