道祖王廃太子
聖武太上天皇の一周忌が近づいてきた天平勝宝九年(七五七年)三月、仲麻呂は田村弟に、興福寺の隆尊律師を呼んで、孝謙天皇といっしょに孝経の講義を受けた。
午前の講義を終えた後に、仲麻呂は孝謙天皇を屋敷の庭に誘った。
田村弟の広い庭には何本のも木が植えてあって、白い花が幹からこぼれ落ちるくらいに咲いている。薮椿の大きな木や躑躅の垣根もあり、もう一ヶ月もすれば、庭は白い花から赤い花に替わって楽しませてくれるのだろう。庭の中央には池があり、佐保川から引き入れた小川が流れ込んでいた。池の水は底に敷き詰めた石が見えるほどに澄んでいて、小魚が群れをなして気持ちよさそうに泳いでいる。池の中央に置かれた岩では、大小の亀が甲羅干しを楽しんでいた。花曇りの空からは柔らかい日差しが降りてきて、そよ風と一緒になって体を包んでくれる。風に木の枝が揺れると、花びらがこぼれて、ひらひらと舞いながら池に落ちていった。
「よく手入れされた庭です。梅の花の時期は過ぎたと思うのですが、白い花はなんでしょうか。遅咲きの梅というのがあるのでしょうか」
「桃の花です。白い花が咲く桃を集めて植えました。都人は梅の花を好むようですが、自分は梅よりも桃の花が好きです。大きくて甘い実を付けたら献上いたします」
孝謙天皇は「よろしくお願いします」と言って桃の木に近寄ると、一番低い枝をたぐり寄せて花の匂いをかいだ。
桃の木で蜜を吸っていた雀たちが、突然の来客に驚いて飛び上がった。そよ風が孝謙天皇の衣と桃の花をゆっくりと揺らす。
「
「ありがたい御歌です。藤原の家は私はもちろん、息子たちの代になっても天皇様を支えて参ります」
仲麻呂が近くにいた青年に目で合図を送ると、青年は床几を桃の木の下に並べた。
孝謙天皇と仲麻呂は並んで床几に腰掛ける。
木漏れ日とそよ風が頬をなでてくれた。青い空には白い雲が気持ちよさそうに浮かび、雲雀の騒がしい声が空から落ちてきたかと思えば、鶯の優雅な声が地面から聞こえてくる。人の気配に驚いて飛び上がった雀たちが戻ってきて、おしゃべりを始めた。
青年は
孝謙は「ほお」と微笑んで土器を口につけた。
「隆尊律師のお話はためになりました。道祖王も連れてきて聞かせれば良かった」
「道祖王様の噂については、私も聞いています」
「良い年をして、道祖王は閨房が定まっていないようです」
「道祖王様は皇太子になれたことがよほどうれしかったのでしょう。太上天皇様の服喪中にもかかわらず、お屋敷で派手な遊びをなさっていたとか、小さな子供を相手に淫らな行いをしているとか」
「道祖王は子供が好みなのですか」
孝謙はため息をついてから口を結んだ。
「道祖王の行いは誉められたものではありませんが、問題なのは寝物語で采女に朝議のことを話しているらしいことです」
孝謙が驚きの表情で見つめてきた。
「褥を共にすると気持ちを許してしまうのでしょう。何回か朝議で検討している事柄が漏れて、話がややこやしくなったことがあります。特に、昇叙任官についての話が漏れたときには、猟官に来るものが多くなって大変でした。本来、昇叙や任官は不満が出やすいので慎重に扱わねばなりません」
「本当ですか」
「道祖王様が采女に語ったという確証はありませんが、道祖王様が朝議に出られるようになる前はなかったことです」
「道祖王の閨房には何人くらいの女が出入りしているのですか」
「道祖王様の屋敷の中までは存じておりませんが、数人が寵愛を受けているとの話です。道祖王様の立太子については、
不破内親王の名に孝謙の顔が曇った。
「なんでも、不破内親王様は、塩焼王様の采女の中から若くて器量がよい娘を何人か選んで贈ったとか」
孝謙は土器を置いた。
「前から道祖王はだらしがないと思っていたのです。藤原卿の話を聞いて、道祖王のだらしなさが理解できました。朝議には遅れてくるし、衣は皺がよって汚れています。寝癖がついたままの髪の毛で宮内省の廊下を歩いているのを見かけたときには腹が立ちました。冠をきちんとかぶらず、まことに不愉快です。」
「道祖王様は中務卿を勤めていましたが、位階をいただいても、散位(役職なし)の期間が長かったので、卿(長官)としてうまく中務省を取り仕切ることができず、仕事は
「私も道祖王が酒の臭いをさせていたので、注意したことがあります。中務卿を務められないような者が、天皇になって良いのかと思うのです」
「道祖王様は宮中行事も出て見えませんでしたので、政に通じていらっしゃいません」
「どうしてお父様は、道祖王を皇太子に指名なさったのでしょうか。面長の顔で、いつもきょろきょろと辺りをうかがうように見ている。道祖王の貧相な顔立ちを見ていると、無性にいらいらしてきます」
「天皇は政に詳しく、公卿百官を率いて国を治めるだけではなく、民の手本にならなければいけません。女癖が悪くては朝廷の風紀が乱れますし、隆尊律師の話にあった孝を民に説くこともできません。品性が賤しく人徳が備わっていない者が国の頂点に立てば国が滅びます」
「私もまさに藤原卿と同じ思いです」
人の悪口や嘘をつくことは気分が悪いが盛り上がってしまった。天皇の中にはよほど屈折した思いがあったのだろう。
天皇は、昔から異母姉妹である井上内親王や不破内親王とは仲が悪い。井上内親王や不破内親王は夫や子供を持つことができたのに、自身は独身のままというひがみがあるのだろう。不破内親王のことを嫌っていれば、夫である塩焼王や、塩焼王の弟である道祖王も嫌いになる。人はいったん嫌いになると、悪い点ばかりが見えて来るようになるものだ。宇比良古や佐味宮守を使って流した、根も葉もない噂を天皇は信じている。特に、女にだらしないという話は、独身の天皇の癪に障ると考えたが当たった。
再び土器に注がれた酒が、桃の香りを振りまいてくれた。良い香りに孝謙は険しい顔を解いて土器を口に運んだ。
「お酒に桃の実を混ぜたのですか」
「
孝謙天皇は肴として出された
仲麻呂は続ける。
「私は、亡き太上天皇様が道祖王様を皇太子にせよとおっしゃった意味が分かりません。道祖王様は皇太子として、次の天皇としてふさわしくないと思います。皇太子にはふさわしい人物を立てるべきです」
「藤原卿はよく言いました。しかし、皇太子を変えたら、お父様の遺詔にそむくことになります。父の命にそむくことは、隆尊律師の話にあった孝の道に外れます」
「太上天皇様は、ご臨終の間際に天皇様に対して、『
「王を奴に…… お父様がそんなことを言われたのですか」
「天皇様は気が動転されていて覚えがないかもしれませんが、私をはじめ、兄の豊成、多治比広足殿などが一緒に聞いています。道祖王様では国を治めてゆくことができません。国家の行く末を考えれば、道は自ずから定まります。ご決断ください」
「決断とは?」
「道祖王の皇太子を取り消し、将来国を担うことができる皇子様を皇太子にすることです」
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