大伴家持制圧

 仲麻呂は、大極殿を抜けて朝堂院に入ったときに大伴家持と鉢合わせした。家持は道を空けて仲麻呂に頭を下げる。

 大伴家持は倭以来の伝統氏族である大伴氏の氏上である。父の旅人は武人として隼人の反乱鎮圧で活躍したほか、大宰帥だざいのそち時代には筑紫歌壇の中心になるなど歌人としても知られていた。家持も旅人の資質を受け継ぎ歌人として評判となっている。橘奈良麻呂、佐伯全成らと同年代で、旅人が従二位大納言まで出世していることから、次世代の朝廷を担う者として注目されていた。

 家持の衣は、洗いざらしの感はぬぐえないが汚れも破れもない。細身の体は武門氏族の氏上としては頼りなげに見えたが、きちんと帯を締めて、精悍で賢そうな顔には、冠がよく似合い歌を詠む知性がにじみ出ている。

「大伴卿に聞きたいことがある。立ち話も無粋であるからどこかの部屋へ入ろう」

 仲麻呂に言われて、家持は警戒の色をあからさまに浮かべながら従った。

「太上天皇様が崩御される前に貴卿が歌を発表したというが」

 家持は、苦い顔をしながら懐から紙を取り出して渡してくれた。

  久かたの 天の開き 高千穂の たけ天降あもりし 天孫すめらぎの 

  神の御代より 梔弓はじゆみを 手握り持たし……

  おやの名絶つな 大伴の うじと名に負へる 大夫ますらおの伴

 家持が越中守として赴任していたときに作ったという歌集が評判になっているが、噂に違わず良い歌を詠む。自分も漢籍や漢詩には詳しいが、家持のような長歌を詠むことはできない。歌の中で、武門を誇る大伴氏と勇ましいことを言っているわりに本人は線が細い。同じく武門を誇りにしている佐伯全成が、意地っ張りで反抗的に見えるのとはひと味違うものを感じる。

「貴卿や大伴一族は、朝廷に対して含むものがあるのだろうか」

「大納言様は何をおっしゃるのでしょうか。我が一族は古くから天皇様の弓や剣となって働いておりますれば、反旗を翻すなどと考えたこともございません。お渡しいたしました歌は、太上天皇様が不予の折、浮ついた空気が都に流れていましたので、氏上として一族の気持ちを引き締めるために発表したものでございます」

「私が聞いたのは長歌の方ではなく、反歌の方であった。何でしたかの……」

 家持は、腹をくくったような顔をして歌を詠じた。

  剣大刀 いよよ磨ぐべし いにしえゆ さやけく負ひて 来にしその名そ

「先ほど貴卿は朝廷に反旗を翻す事はないと言ったが、『剣太刀、いよよ磨ぐべし』とは、一族に向けて決起に備えよと言っているのではなかろうか」

「めっそうもございません。歌は皇室に忠誠を誓うものです。決して謀反など考えていません。我が一族は、赤き心を、皇辺すめらへに極め尽して仕へてきましたし、私の代以降も仕えてゆきます。一旦緩急あるときは、すぐに天皇様の下に集えるように、日頃から武具の手入れをしておくようにと一族を戒めたものです」

「なるほど、失礼いたした。貴卿の忠心を皇太后様、天皇様はお喜びになるであろう」

 家持はゆっくりと息を吐き出すと、安堵の気持ちが顔に出てきた。

「先ほどの長歌と短歌は、都の浮ついた空気に流されないようにと、一族を集めたときに披露した歌です。故に、『やからに諭す歌』と題しました」

「部屋を片付けよと注意するときは、部屋の中が散らかっているときであれば、一族を諭すのは、一族に良からぬ考えを持つ者がいるときかな」

「めっそうもありません。我が大伴一族には、天皇様に二心を持つ者などいません」

 家持は武門を誇る大伴氏の氏上であるが、同じ武門氏族の佐伯全成のように我を張り通すほどの度胸はないらしい。一族を守ろうとする気持ちは強そうだが、一族を束ねるほどの力はないらしい。父親の旅人は武辺で聞こえたが、家持が剣を持って立ち回ったという話は聞いたことがない。顔は良いが体が細くて頼りなさそうに見える。奈良麻呂や全成に近いと聞いたが相手にする必要はなさそうだ。

「貴卿は考えていなくても、一族の誰かが考えているのではなかろうか。たとえば、大伴古慈斐殿とか」

「古慈斐については失礼いたしました。ここへ来る前に衛士府に寄ってきました。本人も大変反省していますので、寛大な処置をお願いしたいと、右大臣様にお願いに上がろうとしているところです」

 家持は「右大臣」といった後に、「しまった」という表情を見せた。

「心配は無用です。私も古慈斐殿をよく知っている故、皇太后様に穏便に済ましていただくよう奏上してきたところです」

 畏れ入りますと家持は頭を下げる。

「大伴一族が天皇様に忠誠を誓っていることは分かった。しかし、一族の中で、台閣に不満を持つ者はいないか」

「台閣は天皇様の手足です。我が一族は天皇様に忠誠を誓っていれば、どうして天皇様のお体に等しい人々に不満を持ちましょうか。大納言様のおっしゃるような不埒な者はおやの名にかけていません」

 家持には心当たりがあるらしいが、家持自身は不満を持っていないのだろう。家持を追い込んで自分から遠ざけてしまうよりも、奈良麻呂や全成と分断するだけで十分だ。

「ところで、貴卿は橘奈良麻呂殿の屋敷へ出入りしているらしいが、何かあるのだろうか」

「私と奈良麻呂殿とは年が近いために気が合い、よく飲み会を開いています」

「佐伯全成殿とも一緒に飲まれるのかな」

 一瞬、家持の顔が引きつった。

「佐伯全成殿が陸奥守として赴任する日が近づいていたので、送別の宴を開いたのです」

「太上天皇様不予の折にか?」

「宴といっても、夕餉を共にしただけです。我らも天皇様に仕える身であれば時節をわきまえて歌舞音曲で遊んだりはしていません」

「唐国は謀反を起こすと九族まで殺されるそうだが、我が日本は唐国と違って、罪を係累に及ぼすことはない。藤原一族では、式家の広嗣が畏れ多くも謀反を起こしたが、罰は謀反に加わった者だけに限られ、式家でもおとがめなしの者もいた。もし、大伴一族で不埒なことを考える者がいるとしたら、遠慮なく相談してくだされ。共に天皇様のために働きましょう」

 家持は深々と頭を下げた。

「先ほど古慈斐殿の件について奏上してきたと言ったが、皇太后様はお許しくださった。簡単な取り調べの後、問題がなければすぐに帰されるはずである。右大臣に掛け合う必要はない。安心して屋敷へ帰るがよかろう」

 家持は「ありがとうございました」と再度頭を下げて部屋を出て行こうとした。

「ところで、奈良麻呂殿は、

  奥山の 真木まきの葉しのぎ 降る雪の ふりは増すとも 地に落ちめやも

と歌ったそうだ。橘は常緑の木で、雪が降り積もっても葉を落とすことはない。不撓不屈の精神を持って事に当たる、と解釈したが、貴卿は奈良麻呂殿の歌をどのように解釈するか」

「おっしゃった歌は、聖武太上天皇様の、

  橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉とこはの木

 という御歌おみうたに返ししたものです。太上天皇様が、橘は、実や花、葉がすばらしいが、枝に霜が降っても枯れることのない常緑の木であるところがすばらしい。橘の木のように、橘の家も末永く栄えさせよとおっしゃったので、奈良麻呂殿は、橘の家が長く続いて古くからの家柄となっても、家の名を貶めるようなことはしません。と答えたと解釈します。大納言様のおっしゃる不屈の精神で事をなすというのは深読みしすぎでしょう。地に落ちめやもに重きを置いて解釈すれば、ほかの木々が枯れても、橘だけは天皇様に仕えるという意味となりましょう。いずれにせよ、奈良麻呂殿、大伴一族、佐伯一族に不埒な考えを持っている者はいません」

 家持は戸口で頭を下げて出ていった。

「不埒な考えを持つ者はない……」

 やはり、家持には不埒な考えを持つ者に心当たりがあるのだ。奈良麻呂は道祖王を皇太子にすることができた。奈良麻呂が邪魔に思うのは自分ということになる。大伴や佐伯で自分に反発する者たちや、出世できない者が奈良麻呂を旗印にして集まってゆくという訳か。

 何としても皇太子を替えねばならない。あわせて奈良麻呂も葬り去る。

 部屋を出ると弟の巨勢麻呂が待っていた。

「佐伯全成を見張らせていた家人から連絡が入った。全成は陸奥国に向かって出立したそうだ。家人の話では、この二、三日は奈良麻呂とのやりとりはないとのことだ」

「奈良麻呂の屋敷の様子は」

「変わった動きはないという知らせが来ている」

「さきほど、大伴家持と話したが、奴は私に逆らおうという気はないらしい。佐伯全成がおとなしく陸奥へ行ったのならば、奈良麻呂は一人で動かねばならない。道祖王の追い落としにかかる」

「太上天皇様の殯の儀が終わって間もない時期から動くのか」

「間もない時期だからだ。道祖王の皇太子が定着してからでは、追い落とすのが難しくなる。まして、天皇に即位すれば、謀反でも起こさなければひっくり返せない。宇比良古を内膳司から屋敷へ呼んできてくれ。久しぶりに夕餉を供にしようと」

「承知した。久しぶりに俺も姉者あねじやの料理が食いたい。ひとっ走り行ってくるよ」

 仲麻呂は、走り出そうとする巨勢麻呂に向かって声を投げかけた。

「奥山の 真木まきの葉しのぎ 降る雪の ふりは増すとも 地に落ちめやも」

「なんだいそりゃ。俺は歌は好きじゃない」

 巨勢麻呂は答えると駆けだして行った。

 仲麻呂は、くすっと笑って平城の山々を見た。冬枯れの衣から、新緑に着替えた山々は、新しい時代の始まりにふさわしい。日は高く昇り、新しい時代を祝福するように、惜しみなく光を注いでいる。梅雨の晴れ間の空には、ところどころに真っ白な雲が浮いていて、生駒山の上にある雲は大仏様に見える。

 仲麻呂は思わず手を合わせた。

 我が願いは朝廷の頂点に立ち、政を総覧することにある。神仏は我を加護し、我が願いを叶え賜え。

 仲麻呂の祈りに答えるように、空の上からピーヒョロロと鳶の甲高い鳴き声が聞こえてきた。

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