大炊王擁立

橘奈良麻呂牽制

 太上天皇の葬儀が一段落した次の日に、仲麻呂は年足を連れて参内した。

 明け方に降った雨に内裏は洗われてすがすがしくなっていた。雨は上がっていたが、庭に敷かれた玉石はしっとりと濡れている。木々の新芽は雨露をため、日の光をキラキラと跳ね返している。見上げた空には、灰色の雨雲に替わって青空が広がり、真っ白な雲が一つだけ浮かんでいる。夏を思わせる暑い日差しが降り注ぎ始めていたが、濁りのない透明な風が、心地よく顔をなでてくれた。

 太上天皇の葬儀が終わり、新しい時代が始まっていた。

 光明皇太后と孝謙天皇は二人並んで仲麻呂たちの前に現れた。

 皇太后は顔色がさえないが、孝謙天皇はいたって元気そうである。

「太上天皇様のご遺体を佐保山南陵にお納めしました」

「藤原卿と石川卿も、殯儀もがりのぎはご苦労様でした。盛大な葬儀は仏様を見送るようであったと采女たちが言っています。仏教を篤く信仰し、大仏様を造立された太上天皇様にふさわしい葬儀でした」

 皇太后の言葉に仲麻呂と年足は深く頭を下げた。

 自分が葬儀を主催することで、皇太后様と天皇の信頼を深め、公卿百官には朝廷の実力者が兄の豊成ではなく自分であると知らしめることができた。道祖王の与党も牽制することができたろう。太上天皇様の葬儀はまさに一石三鳥の出来事であった。

「太上天皇様が崩御されてからまだ幾日も経っていないので、ひょっこりと戸口からお顔を現して下さるような気がしてなりません。太上天皇様の使っていらした筆や硯、楽器の数々、お召しになっていた衣を見ると、幼い頃から一緒に過ごした日々が思い出され涙が出てきます。御遺品が近くにあると悲しくなりますので東大寺に寄贈しようと思います。遺品の整理に仲麻呂もつきあって下さい」

「亡き太上天皇様からいただいた恩情は計り知れないものがあります。私も下賜していただいた書を飾って遺徳を偲んでいます」

 皇太后がうつむくと沈黙が流れた。太上天皇の喪中で歌舞音曲が禁止されているために、風の音や鳥のさえずり、衛士のかけ声がよく聞こえてくる。

 皇太后が顔を上げるのを待って仲麻呂は口を開いた。

「本日は、淡海三船と大伴古慈斐を捕らえたという件について報告に上がりました」

 孝謙天皇と光明皇太后は顔を見合わせてから、仲麻呂の方にむき直した。

「太上天皇様不予の際から兵を都内に配し、崩御されたときには、愛発あらち、不破、鈴鹿の三関を閉鎖して不測の事態に備えて参りました。警護をしている時に、淡海三船が、大伴古慈斐が朝庭を非難していると上申してきました。出雲守を賜っている古慈斐は任地の出雲から戻ってきていましたので、両名を捕らえて左右の衛士府に拘禁してあります」

「淡海三船まで捕らえたのはなぜですか」

「三船の言うことが真実ならば古慈斐は指斥乗輿に当たります。逆に嘘ならば三船が古慈斐を誣告したことになります。真偽をはっきりさせるために両名の取り調べの裁可をお願いします」

 年足が仲麻呂に続ける。

「大伴古慈斐はさきの左大臣の橘諸兄様と親しかったことから、諸兄様の息子である奈良麻呂殿とも昵懇の仲です。奈良麻呂殿はかねてから朝廷に対して不満を漏らすなど不穏な動きが噂されています。三船、古慈斐を取り調べ奈良麻呂殿の噂についても明らかにしたいと存じます」

「私を叔母と慕って何でも話をしてくれる奈良麻呂が悪事を企てるとは思えません。奈良麻呂の良くない噂とはなんでしょうか」

「いまのところ都雀の口さがない噂ですので、この場で申し上げることはお許しください。奈良麻呂殿の出世を嫉んでの悪口であろうと考えていますが、公卿に列する者の悪口をそのままにしておくことはできません。太上天皇様が病を得ていらっしゃるときに、御宸襟を悩ますのはよくないと考え、三船と古慈斐は屋敷で謹慎させておきましたが、太上天皇様の殯儀が終わりましたので、両名を拘束しました。なにとぞ、取り調べの許可をくださるよう申し上げます」

 年足が頭を下げた後を仲麻呂が続ける。

「三船は理屈っぽい人間ですので、古慈斐と衝突した腹いせにあらぬ事を言っているのかもしれません。古慈斐は愚痴親父ですので朝廷に対する不満を公言したのかもしれません。いずれにせよ事の次第を明らかにしたいと考えます。三船は皇族であり、古慈斐は長年天皇様に仕えてきた臣下ですので、私の一存で取り調べることは不適切であると考え、伺いに参りました。前左大臣の息子であり、自分の従兄弟でもある奈良麻呂に悪い噂がつきまとうことは忍び難いことですので、三船や古慈斐を通じて噂を打ち消したいと考えています」

 自分も石川殿も、いずれが狸か狐か分からない。

 自分にとって淡海三船や大伴古慈斐という小者などどうでも良い。標的は諸兄と奈良麻呂なのだ。古慈斐が諸兄父子と近いことを利用し、古慈斐の自白があったとして二人を陥れる。証拠などは、二人を逮捕した後に屋敷を探索して見つければよい。そして、後見をなくした道祖王を皇太子から引きずり下ろすのだ。

 孝謙天皇はため息をついてから答えた。

「橘卿は酒の席での失言を恥じて致仕しました。左大臣であっても指斥乗輿は許されないことを身をもって示してくれたのです。大伴古慈斐が功臣であろうとも、淡海三船が皇族であろうとも、指斥乗輿は許されません。藤原卿は事の次第を明らかにしてください。あわせて奈良麻呂に関する悪い噂を払拭してやりなさい」

「お待ちなさい」

 光明皇太后は落ち着いた調子で言った。

「大伴古慈斐は昔からよく知っています。頑固ですが筋を通す人で、橘卿と共に太上天皇様や私に良く尽くしてくれました。朝廷を誹謗したといっても、酒の席の愚痴でしょう。厳しく人を罰するだけが政ではありません。三船も何か勘違いしたのでしょう。二人には、今後も皇室と国家に尽くすように私から文を出しましょう」

「ですが皇太后様。古慈斐は……」

 口を横一文字に結んだ皇太后の前に、仲麻呂は次の言葉を出すことができなかった。

「二人を解き放すと言うことでよろしいでしょうか」

 年足の言葉も切れが悪い。

「二人が反省することなく、再び問題を起こすようであれば相応に処分にしましょう。藤原卿も石川卿もよろしいですね」

 仲麻呂と年足は頭を下げて退席した。

 部屋の外は日差しが強く、思わず目をつむってしまった。

 光に目が慣れてくると、庭に面した長い廊下が見えてきた。

 真っ直ぐに伸びる廊下のように、自分の考えたことが叶うならば、世の中、世話はない。

「淡海三船の件について、好機と考え策を献じましたが、思いのほか皇太后様の古慈斐殿に対する信任が厚く今回は失敗しました。しかし、奈良麻呂が孝謙天皇様に不満を持っていることは確かですので、いずれぼろが出るでしょう」

「石川殿の献策には感謝しいる。ところで、橘の屋敷の様子は?」

「橘屋敷は、諸兄様が左大臣をなさっていたときと同じように人の出入りが頻繁です。ただ、外から見張らせているだけでは如何ともしがたく。人を送り込む方策を考えています」

 年足は深く頭を下げ、衛士府に行きますと言って仲麻呂の元を離れた。

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