太上天皇の遺詔
仲麻呂が紫微中台の兵を都に配備して十日あまりたったとき、病床の聖武太上天皇は、孝謙天皇、光明皇太后、右大臣藤原豊成、大納言藤原仲麻呂ほか台閣に昇っている高官と皇族を集めた。
寝所の布団の上に太上天皇は静かに横たわっていた。寝息は安定しているが、額に汗を浮かべていて、ときおり小さなうめき声を上げる。そのたびに、皇太后が濡れた手ぬぐいで額をぬぐっていた。
病床に集まった人々は、太上天皇の病状を気遣って声を上げず静かに控えた。東大寺の境内からも物音一つしない。鳥はさえずることを遠慮し、馬や犬もうずくまっておとなしくしている。雨でさえ音を立てずに降っていた。枕元に生けられている躑躅の花と、焚かれた沈香が心を落ち着かせ時間が経つのを忘れさせてくれる。鐘楼から響いてくる鐘の音だけが時の流れを教えてくれた。
湿気と看病禅師たちの読経が、夜の霧のように静かに部屋の中に入ってきた。
太上天皇が目を覚ました。
皇太后が寄り添って背中を支え、太上天皇は上体を起こすと、本堂の看病禅師たちは読経を止めた。
「卿たちに来てもらったのは他でもない。皇太子が定まっていないために都が騒がしい。朕はこの数年、皇太子を誰にするかについて悩んできた」
太上天皇の小さくて苦しそうな声は、耳を澄ましていても聞き取りにくい。
「御宸襟をお騒がせして申し訳ありません。人々の動揺は紫微中台と中衛府の兵を持って鎮めております。お気を安らかに病気を治すことに専念なさってください」
仲麻呂は太上天皇をまじまじと見た。
以前見舞いに来たときよりも生気がなくなっている。太上天皇様の体や腕は枯れ木のように痩せて目に光はない。死期が迫っていることは明らかで、読経や薬石は役に立っていない。
五十六年の歳月を生きてきた太上天皇様は皆に囲まれて人生を終えようとしている。
治世の評価は様々あろう。瘡病の大流行や飢饉旱魃の天災もあったし、彷徨五年のような混乱もあった。しかし、世の中はおおむね安定していて、東大寺の大仏という偉業を成し遂げることができた。太上天皇様は幸せな一生を過ごされたのだ。
生まれながらの天皇として、臣下や民から常に仰ぎ見られ、何不自由のない人生をおくってきても悩みはつきないらしい。
孝謙天皇は、痩せて干からびた聖武太上天皇の手を取った。
「皇太子については、お父様が元気になられてからゆっくりお話ししましょう。仲麻呂卿の言うとおり、今はお体を癒やしてください」
「今回の病は今までとは違い薬の効き目がない。日に日に体から力が抜けていくのが分かる。もうじき仏様が迎えに来てくださるのだ。朕の寿命も残りわずかであれば、皆は遺詔として聞いてくれ」
仲麻呂たちは一斉に頭を下げた。
「皇太子には道祖王を立てよ」
消え入りそうな小さな声が仲麻呂の頭の上を通っていく。
道祖王が皇太子だと!
仲麻呂は思わず頭を上げた。太上天皇は「頼むぞ」と目で合図を送ってきていた。
「道祖王は新田部親王の息子であり、中務卿として百官の手本となっている。年齢と見識を考えると道祖王が皇太子として国家を支えるにふさわしいと考える」
道祖王は天武天皇の孫で、
道祖王と言えば、奈良麻呂と全成が推していたという……
横目で見た他の公卿たちも驚きを隠していないが、奈良麻呂だけは笑いをかみ殺していた。
奈良麻呂は小者で、若くて勢いがあるだけと侮っていたのに出し抜かれてしまった。いや、親の七光りだけで出世してきた奈良麻呂が太上天皇に皇太子を吹き込むことはできまい。だとしたら、引きずり下ろした諸兄が進言したのだ。二十年にわたって腹心として仕えた諸兄の方が自分よりも信頼されるのは当たり前かもしれない。都に兵を配置し、公卿たちの動きを封じることで十分だと考えていた自分が甘かった。まんまと諸兄に意趣返しされてしまった。石川殿の進言をきちんと受けていれば、突然の皇太子宣言は避けられたかもしれない。
いずれにせよ、このままでは道祖王と奈良麻呂が台頭してくる。何か手を打たねばならないが、公卿や皇族を集めて宣言されてしまったのでは、いかんともしがたい。
自分だけ呼び出してくれれば、遺詔などどのようにでも書き換えられたのに……
太上天皇は孝謙天皇と道祖王を横に呼んだ。
道祖王は薄笑いをしているが、孝謙は口をしっかり閉ざしている。
「国家のことは、天皇と道祖王にはかるように皆に命じる。東大寺を完成させ、仏様の力を借り、公卿百官が力を合わせて
太上天皇は言い終わると豊成を見た。
「藤原卿ならび公卿らは朕の前で誓ってくれ」
右大臣藤原豊成は、三人の前で頭を下げる。
「太上天皇様の思し召しに従うことを誓います。我ら公卿百官は、孝謙天皇様、道祖王様の下で政を行い、皇室を盛り立て日本国を治めてゆきます」
文室浄三、藤原永手、多治比広足、紀麻路、安宿王、黄文王、石川年足、橘奈良麻呂らが異口同音に誓いの言葉を述べてゆく。
仲麻呂の番が来た。
「私も他の公卿と同じく、道祖王様を皇太子と仰ぎお仕えします。もし太上天皇様の意にそむくようなことを行えば、天神地祇の怒りによって、私の身は滅ぼされるでしょう」
とは言ったものの、道祖王が皇太子になっては困る。
孝謙が天皇でいてくれるうちは、自分の地位は安泰だが、代替わりして道祖王が天皇となれば、奈良麻呂が大きな顔をしてくる。奈良麻呂は必ず復讐してくる。自分が奈良麻呂よりはるかに格上であるとしても油断できない。
何か手を打たねばならない。
太上天皇は満足した様子で微笑み、ゆっくりと息を吸い込んだ後、皇太后に支えてもらいながら床に横たわった。
皇太后は絹の衣を太上天皇に優しく掛けると、太上天皇はすぐに眠りについた。静かな読経の声が入ってきた。
豊成、仲麻呂ら公卿たちは、太上天皇の眠りを妨げないように音を立てずに退出した。
仲麻呂が廊下に出ると、外は本降りの雨になっていた。庇からは幾筋もの水が垂れ、庭は水浸しになっていた。庭に面した廊下は湿っていて気持ちが悪い。
年足が仲麻呂の元に来て頭を下げた。
「誠に申し訳ありませんでした。橘様の屋敷は監視していましたが、諸兄様の動きは私が思っていたよりも機敏でした。病で気が弱くなっていらっしゃる太上天皇様は、長年片腕として仕えた諸兄様に丸め込まれたのでしょう」
「石川殿が謝る必要はない。進言を聞かなかった私が悪い。老獪な諸兄に隙を突かれ、手痛い仕返しを受けてしまった。きっと今頃は橘親子は高笑いしているだろう」
仲麻呂は深呼吸をした。
梅雨特有の湿った空気が胸の中に入ってくる。衣も湿ってきて不快になってきた。
「道祖王が皇太子になるというのは困ったことになった。石川殿に何か良い案はないか」
「道祖王様が皇太子、次いで天皇になれば、奈良麻呂殿を筆頭として取り巻きが台閣を席巻するようになるでしょう。道祖王様が玉座に座らなければ、奈良麻呂殿は力を得ることはできません。道祖王様を我らの側に取り込むことはできないでしょうから、道祖王様には皇太子を降りていただきます」
「私も石川殿も太上天皇様の前で、道祖王に従うと
「天智天皇様は臨終の際に重臣を集めて
年足の底の知れない微笑みに、仲麻呂もつられて笑う。
自分には頂点に立つという大望がある。太上天皇様への誓いを畏れていては望みなど叶うはずがない。
「天皇様は道祖王様の皇太子を快く思っていらっしゃらないようです。太上天皇様が詔を下されたときに顔が引きつっていました」
「自分より年上の中年男が皇太子となって、後継に指名されれば不満も出る。道祖王も孝謙天皇には早く引退してもらって、自分の天下にしたいと思っていることだろう」
「天皇様と道祖王様の間は、太上天皇様が繋いでいるだけで信頼関係がありません。太上天皇様がお亡くなりになれば、我らがつけいる隙が生まれます」
年足は頭を下げると仲麻呂の元から去っていった。
太上天皇様が亡くなれば一つの時代が終わる。次の時代は、自分の時代でなければならない。今回は諸兄と奈良麻呂に出し抜かれたが、まだ充分に挽回できる。いや、必ず大炊王を皇太子にして自分が朝廷を牛耳ってやる。
自分が思い描くように進まないからといって、挫折したところでやめてしまうから失敗が確定してしまうのだ。文室浄三、藤原永手、多治比広足、紀麻路、安宿王ら凡人は、皇太子が決着したとしてあきらめるだろう。だが非凡な自分は、今日の挫折を必ず覆して成功に代えてやる。成功とは失敗にめげずに挑み続けた者にのみ与えられるのだ。
雨は急に激しくなってきて、ひんやりと湿った風が仲麻呂の体を包み込んだ。山々は雨に煙って見えない。雨幕が通り過ぎるたびに、屋根の上で大きな音がした。
聖武太上天皇は、道祖王を皇太子に指名した翌日に崩御した。仲麻呂は右大臣である豊成を差し置いて、聖武太上天皇の葬儀を取り仕切った。
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