田村弟の会議
千尋が
「平癒祈願と称して公卿が集まっているが、その実は皇太子の座を狙った密議に他ならない。太上天皇様も天皇様ともにご存命なのに、お二人の死後を考えて動くとは不謹慎だ。都に不穏な空気が漂っているのは、太上天皇様が病気であるからではなく、良からぬ事を考える者のせいだ」
「元明天皇様や元正天皇様が崩御の際は、都は厳粛な空気で満たされていた。千尋が言うように、ご存命中から事後を語ることは不敬なことではあるが、多くの者たちが皇太子擁立に向かって動こうとしているときに、我らが出遅れることがあってはならない」
年足が発言を求めてきた。
「皇太子に色気を出している皇族方は、
「太上天皇様が苦しんでみえるときに百家争鳴だな」
「兄者は人ごとのように言うが、俺たちは誰を推すんだ」
巨勢麻呂の問いに仲麻呂が、
「私は
と答えると、どよめきが広がり、誰もが「ああ」という顔をした。
大炊王は
巨勢麻呂は腕を組みながら、
「大炊王では黄文王や安宿王に比べて若すぎないか」
と問いかけてきた。
「確かに大炊王は若いが、名前が挙がった王は皆天皇様と同じ世代だ。皇太子は世を嗣ぐのが役目であれば、天皇よりも一世代下がよい。いや、大炊王でなくては困るのだ」
「豊成の兄貴や永手が塩焼王を推すのならば、俺たちも藤原一族として塩焼王を推した方がよいのではないか。塩焼王ならば新田部親王の息子で、年齢も実力もそこそこにあるし、不破内親王を妃にもらっている」
仲麻呂は巨勢麻呂の言葉を遮る。
「塩焼王が不破内親王を迎えていることが問題なのだ。天皇は不破内親王や井上内親王とは仲が良くない。わざわざ天皇の不興を買うような人間と手を組む必要はないし、豊成の兄貴や永手と同じ御輿を担ぐのはおもしろくない」
「藤原一族でまとまった方が良いと思うが」
巨勢麻呂の質問には、年足が答えた。
「百年前の
石川殿が言うように、藤原は、南家、北家、式家、京家に別れて一枚岩ではなく、共同して皇太子を立てて一族を盛り上げてゆこうという雰囲気はない。従兄弟同士は藤原不比等の孫であるという自負を共有しているだけで、昇進は争っている。今は血のつながりがある従兄弟よりも、この場に集めた者たちの方が頼りになる。
皇室も同様だ。外から見れば皇室は天皇を家長としてまとまっているように見えるが、内裏をのぞけば、皇族は自分のことしか考えていない。皇室に権威権力がなければすぐに分解してしまうだろう。逆に、大きな権力があるからこそ、太上天皇様の不予に心を悩ませることなく、次を狙って蠢動しているのだ。
「橘諸兄様の屋敷は、人の出入りが活発になっています。人を送って監視した方がよいと考えますが」
「石川殿の報告では、橘奈良麻呂は道祖王を推しているのでは? 道祖王は天皇様より一つ年上だし、真面目なだけでぱっとしない男だ。諸兄は隠居していて、奈良麻呂は強気なだけで精緻さに欠けるから、宮中の根回しができるとは思わない。私は道祖王よりも、長屋王の息子である安宿王や黄文王の方が気になる。塩焼王を推す豊成の兄貴や永手の動きも封じたい」
「舅殿は紫微令です。紫微中台の兵を出して不穏な動きを止められないでしょうか」
「私も兵を出して皆の動きを止めたいが、兵は天皇大権であれば、勅命なしで動かすことはできない」
「兄貴はどのようにして大炊王を売り込むつもりだ」
「太上天皇様がご存命中に、孝謙天皇様から、皇太子について朝議に諮問がある。それまでに大炊王が次期皇太子と百官に思わせるような既成事実を作ってゆく」
「例えば?」
「節句や盂蘭盆会、新嘗祭で大炊王に重要な役を担わせる」
「太上天皇様は秋まで生きていられるのか。直接に天皇様や皇太后様に頼んだ方が良くないか」
「巨勢麻呂は言葉を慎め。太上天皇様が重篤なときに皇太子の話を持ってゆけば、皇太后様や天皇は気分を悪くするから逆効果だ」
仲麻呂が口を閉じ腕を組んで思案していると、仲麻呂の妻の
宇比良古は
「光明皇太后様からの伝言です。宮中のみならず、都全体が浮き足立っているので鎮めて欲しいとのことです」
仲麻呂は、ピシャリと膝を叩いた。
「好機がやってきた。皇太后様のお言葉があれば、紫微中台や中衛府の兵を動かすことができる。警護と称してして兵を出し、皇太子擁立の動きを牽制する。巨勢麻呂は都の辻々に目立つように兵を立てよ。石川殿は精鋭を持って、黄文王など諸王の屋敷の警護。千尋は宮の警護を怠るな。怪しい動きをしている者があれば捕らえて尋問せよ」
年足が手を上げて発言を求めてきた。
「橘様の動向を探りたいのですがお許しください」
「奈良麻呂の動きに不安材料でも?」
「奈良麻呂殿よりも親の諸兄様が気になります。諸兄様は致仕されたといえども、太上天皇様の信任は厚く、慕っている官人も多くいます」
勢いだけの奈良麻呂や、七十を超してもうろくしている諸兄に何かできるとは思えないが……
「石川殿が気になるのならば、奈良麻呂の屋敷も見張ってくれ。宇比良古は内裏へ帰って皇太后様に、太上天皇様の平癒を妨げる邪鬼を都から追い払いますと伝えてくれ。内裏に変化があったら、すぐに知らせよ」
「太上天皇様の病状は、看病禅師の祈祷や薬石も効き目がありません。皇太后様や天皇様は覚悟を決められたようす」
「なぜ先に言わない」
仲麻呂の叱責に宇比良古は首をすくめた。
太上天皇様の威を借りて大炊王を皇太子にしようと考えていたが…… 叶わぬのであれば
「太上天皇様の御心を安んぜよ。紫微中台、中衛府の兵を都に出して不審な動きをしている者があったら捕らえよ」
仲麻呂の命に、年足、巨勢麻呂らがドタドタと部屋を出て行く。
仲麻呂は立ち上がった。
さて、いかがしたものか。太上天皇様に皇太子の指名をしていただきたいが……
もし、崩御となれば、一連の殯の儀が終わるまで皇太子の件は保留せざるを得ない。
仲麻呂は部屋を出た。
太陽は西の山に沈もうとしている。真っ青な空には、白い雲がひとつだけ浮かんでいて、手を伸ばせばつかめそうな感じがした。
あと一歩で頂上にたどり着くところまで来ているのに、踏み出そうとすると百歩の向こうに遠のいてゆく。人生は思ったようには進んでくれない。凡人ならばあきらめるかもしれないが、自分は権力を手中に収めるまで、絶対にあきらめない。皇太子を擁立する競争に必ず勝ってみせる。
握りしめた拳が痛くなってきた。
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