聖武太上天皇の遺詔

太上天皇不予

 天平勝宝八年(七五六年)四月二十日、難波巡幸から帰ってきた聖武太上天皇が重篤な状態に陥ったことを受けて、仲麻呂は腹心を自らの屋敷である田村弟たむらだいに集めた。

「太上天皇様の病状は予断を許さない。数年来病気と闘ってこられたが、今回の難波巡幸がお体にさわった」

 五十六歳になった聖武太上天皇は、光明皇太后や孝謙天皇が止めるのを振り切り、気力を振り絞って難波巡幸に出かけた。奈良の大仏を発願するきっかけとなった知識寺をはじめとして、河内六ヶ寺に立ち寄り難波宮に逗留した。難波宮で具合が悪くなり巡幸を中断して平城京に帰り、以降寝たきりの日が続いている。

 仲麻呂は太上天皇が帰京すると同時に、看病禅師団を組織し毎日のように読経を行わせていたので、太上天皇が大病であるという話は都中に広まっていた。

 仲麻呂が東大寺に見舞ったとき、太上天皇は寝ていて、看病禅師たちも眠りを妨げないよう読経を止めていた。上質な絹の布団に眠る太上天皇の髪は、白髪が交じり脂気は抜けていた。頬は痩けて土色で唇は赤みをなくし乾いていた。寝息の間隔は長く、注意していなければ聞こえないほど小さい。生気は抜け、もはや回復しないだろうと思われた。お付きの采女が、太上天皇は眠ったままで、食事もほとんどできなくなったと教えてくれた。看病のため横に座っている皇太后も居眠りをしている。

 沈香が漂い、ときおり鶯の声が聞こえる。部屋の角には山吹の花束が飾ってあって、太上天皇のまわりには安らかな時間が流れていた。

「今回の巡幸では、難波津に沈むと言われている仏像の探索を行われた。仏教が我が国に伝来した際に、蘇我氏と物部氏の間で仏教の受容について争ったことがあった。その際に物部守屋が寺を焼き討ちし、仏像を難波津に沈めたとの言い伝えがある。仏教を篤く信仰される太上天皇様は、ずっと気にかけていらしたらしい」

 仲麻呂の言葉が途切れると気まずい沈黙が流れる。

 石川年足、異母弟の藤原巨勢麻呂ふじわらこせまろ、娘婿の藤原千尋ら集まった十数人たちの表情は一様に暗い。上座の仲麻呂を見ているだけで口を開こうとする者はいない。部屋の中は暗く沈んでいた。

 鶯や雲雀の明るい鳴き声も、部屋の中に入ってくると重苦しい空気に負けて失速してしまう。暖かい日の光も、心地よいそよ風も、部屋の中に入ってくることはできない。

 田村弟で笑い声を出す者はいなく、馬や犬でさえ鳴くのを止めて静かにしている。

 田村弟だけが特別ではなく、聖武天皇の病状を気遣って、朝廷ではすべての年中行事を取りやめ、歌舞音曲も禁止した。都に住む人々は宴会や春の祭りを自粛し、有力な公卿は自らの屋敷や氏寺、神社で平癒祈願を行っている。四月も半ばの良い陽気であるにもかかわらず、平城京は厚い雲が垂れて長雨を降らしているようだった。

 年足は、ため息混じりに言う。

「太上天皇様は難波に行かれると必ず体を悪くされる。難波は鬼門であろうか。畏れ多いことだが、ご高齢でもあり今回の病は……」

 聖武太上天皇が崩御し一つの時代が終わろうとしている。そして、新しい時代が始まる。

 新しい時代への一歩を踏み出すために、不謹慎ではあるが、太上天皇様の後について語らねばならない。新しい時代を手中に収めるためには、自らの手で皇太子を擁立しなければならない。

「太上天皇様が明日をも知れない状況になって、皇太子を立てずにいた付けが回ってきた。皆も承知のように、孝謙天皇様は若くて壮健であるから天皇位は安定しているが、独身で子供がいないから後継者は自明ではない。皇位継承権のある皇族とその取り巻きが、高御座を狙って動き始めている」

 仲麻呂は諸兄を辞職に追い込み台閣での地歩を固めたが、佐伯、大伴、石上いそのかみ、中臣などの伝統氏族は健在である上に、藤原北家、式家、京家も仲麻呂の南家と並立している。皇族や公卿の中は急速に出世した仲麻呂に反感を持つ者も多い。

 自分と光明皇太后様、孝謙天皇様の仲は良好だから、皇太子を手中にいれれば権力は盤石になるが、逆に、どこかの勢力に皇太子を取られてしまえば、権力の座から引きずり下ろされてしまうかもしれない。

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