橘諸兄の辞職

 厭魅事件の追及に失敗した五日後、仲麻呂は左大臣橘諸兄の執務室を訪ね、室から出てゆこうとする諸兄を捕まえた。

「橘左大臣様。お話ししたいことがございます」

 仲麻呂の後ろに控える年足は諸兄に頭を下げる。諸兄はあからさまに嫌な者を見たという顔をした。

「紫微令の藤原卿と、紫微大弼の石川卿が揃って来たと言うことは、皇太后様のお使いかな? それとも先日の行信の事件についてですかな」

 諸兄の皮肉を含んだ口調に、仲麻呂は身を固くした。

 今でこそ自分は大納言として諸兄と豊成に次ぐ地位にあるが、諸兄は自分が参内できるようになった頃にはすでに大納言として台閣に席を持っていて、長く仰ぎ見る存在であった。聖武天皇に一言も反論することなく、言われるままに政を行ってきたと陰口をたたいても、官吏の習性として台閣の筆頭である左大臣に面と向かうと気後れしてしまう。まして謀略でもって陥れようという邪な考えを持っていると、悪人として取り調べを受けているような錯覚に陥ってしまう。

 仲麻呂は、心の中で自分の両頬を叩いて気合いを入れ、「立ち話は何ですから、部屋の中ででも」と諸兄を部屋に戻した。

 諸兄の前に仲麻呂と年足は座った。

 諸兄は、冠をしっかりとかぶり、皺も汚れもない衣を身にまとっていた。髪はきちんとまとめられていて、髭はしっかりと剃っている。眉は細く眼光は鋭く、横一文字に閉じられた口からは一分の隙も窺えない。特別に佩くことを許された銀象嵌の短刀が権威と気力を誇っていた。総白髪と顔の深い皺がなければ、七十歳を超えているとは見えない。

「ご子息の奈良麻呂殿について良くない噂が出回っています」

 諸兄は唇をかんで仲麻呂を睨んできた。

 年足が懐から備忘録を出して言う。

「奈良麻呂殿は、天平十七年(七四五年)聖武太上天皇様が難波に行幸された際に不穏な動きをしていたと言われています」

「何を言い始めるかと思えば、九年も前の話ではないか。藤原卿と石川卿はともに太政官として高官であるが、奈良麻呂も参議を賜っていれば、言って良いことと悪いことがある。事と次第によっては責任を取っていただくぞ。よろしいかな」

 諸兄は鋭い目で再び睨んできた。

 老いて気力が衰えていると思っていたが、諸兄には台閣の長として長年にわたって政を率いてきただけの迫力がある。石川殿が横にいなければ、睨みつけられただけで引き下がっていたかもしれない。

 年足は諸兄の脅しなど気にせず続ける。

「天平十七年、太上天皇様は難波で病を得られて一ヶ月ほど滞在されました。摂津大夫であった奈良麻呂殿は、太上天皇様の不予に便乗し、都に残っていた佐伯全成さえきまたなり小野東人おのあずまびとらと謀って黄文王きぶみおう様を擁立しようとしたと噂されています」

「貴卿らは九年も前の噂に惑わされているのか」

「太上天皇様が不予の際、左大臣様は黄文王様など皇族方をすべて難波に呼び寄せて特別に警護すると共に、摂津大夫であったご子息には、難波津の警備をお命じになりました。関係者の動きを封じ、事を荒立てずに奈良麻呂殿と佐伯全成の企みを潰したのではなかったのですか」

「太上天皇様の難波行幸については、儂もおかしな噂を聞いたことがある」

「おかしな噂とは」

「貴卿が問題にしている前年、安積親王あさかしんのう様も都から難波に向かわれたが、途中で体を悪くして都へ戻られた後に急逝された。十七歳という若さと行幸前はすこぶる元気でいらしたので、皆が薨去を訝しんだ。あのとき貴卿が平城京の留守居役であった」

「私が安積親王様を害したとでもおっしゃるのか」

 声を荒げた仲麻呂に対して、諸兄はすまして答える。

「そんな噂があったとかなかったとか」

「私が親王様を殺して何の得があるというのです。私は聖武太上天皇様に誠心誠意仕えています。十年も前のことに、何か証拠がおありか」

「卿は九年前のことを言っている」

 仲麻呂が諸兄を睨むと、諸兄もにらみ返してきた。

 気まずい雰囲気を破るように年足が口を開く。

「左大臣様の家人である佐味宮守が、紫微中台に訴え出てきました」

 佐味宮守という言葉に、諸兄はあきらかに狼狽えた。

「宮守は、奈良麻呂殿が、大仏は国帑こくどを費やし人々を苦しめている、女を天皇にすることはできないと公言していると訴えてきました。奈良麻呂殿の言葉は明らかに指斥乗輿しせきじようよです」

 朝廷や天皇を批判することは死罪とされている。

「佐味宮守は当家に仕える資人であるが、従八位の小者である。紫微中台は小者の讒言をまともに取り上げるというのか」

「長屋王様は従七位の漆部造君足ぬりべのみやつこきみたりと無冠の中臣宮処東人なかとみのみやどころあずまびとの密奏を恥じて自刃なさいました」

「長屋王に使えていた大伴子虫は東人を斬って主人の無念を晴らしたという」

 諸兄は膝の上に載せた手をせわしなく動かし、瞬きを繰り返している。赤くなった顔からは、仲麻呂たちを追い払いたいという苛立ちが出てきているように見える。

「行信と大神多麻呂は厭魅事件で左遷されました。皇太后様の深い思し召しにより、深く追及はせずに処罰は三人にとどまりましたが、行信が奈良麻呂殿と親しいので、都雀は奈良麻呂殿が行信に呪いを命じたのだと噂しています」

「雀の話など気にする必要はない」

 諸兄の大声に部屋の空気が震え、仲麻呂と年足は思わずのけぞった。

「宮守は、奈良麻呂殿が、大伴家持や佐伯全成らと密議を催していると訴えています。紫微中台としても見過ごしておく訳にはいかず、左大臣様に奈良麻呂殿ほかの取り調べのお許しをいただきたく参っている次第です」

「奈良麻呂と大伴家持、佐伯全成は年が近くて仲がよい。全成が任国である陸奥から帰ってくると必ず宴会を開いて労をねぎらっている。全成は陸奥国から大仏様の鍍金めつきに使う金を持ってきた。家持は越中から産金を祝う歌を寄せ、二人共に太上天皇様からお褒めの言葉をいただいている。全成、家持に二心はない」

「奈良麻呂殿はいかがでしょうか」

 諸兄はさらに顔を赤くして強い口調で反論してきた。

「左大臣の息子である奈良麻呂にも二心などない。貴卿は、奈良麻呂が謀反を企てているとでも言うのか」

 年足は懐から焼けた木簡を取り出して諸兄の前に置いて言う。

「かかっている嫌疑は晴らした方がよいと考えます。この木簡はすすけて書いてあることが分かりづらくなっていますが、奈良麻呂殿から行信殿へ事がなった暁には相応の礼をすると読めます」

「法隆寺改装の礼のことだろう」

「この木簡は薬師寺に踏み込んだときに見つけたものです。法隆寺の件であれば急いで燃やす必要はありません。他に大神兄妹に宛てたものも見つかっています。内容はほとんど炭になっていて、何が書いてあったか分からないのが残念ですが」

 年足は、黒こげになった三枚の木簡を置いた。

 諸兄は目を閉じ、顔に浮き出ている汗をぬぐう。呼吸を深くして怒りを抑え、何事か考えている。

 突然、諸兄の体から出ていた険しい気が消えた。

 諸兄はゆっくりと目を開けると、正面から仲麻呂を見つめてきた。

「このまえのことだが、儂も酒の席で太上天皇様に失礼なことを言ってしまった。内輪の席であり酔っていたとはいえ左大臣として恥ずかしいことであった。儂は七十を超えるまで、常に気張って天皇様と民のために働いてきた。気の緩みが不敬な言葉となって出てしまったのであろう。年老いて気力体力共に限界に来ている証しだ。これからは藤原卿や孝謙天皇様の時代である。儂らのような老体は隠居するときが来たようだ。自分がいつまでも頑張っていたのでは、藤原卿のような若い者たちが活躍できない。天皇様におかれても、親よりも年をとった者に口を出されるより、兄くらいの年齢である卿らのほうが相談しやすいであろう。唐国では七十になると致仕するしきたりがあるという。儂はとうに七十を超えている。朝廷の古株を引き連れて、太上天皇様、天皇様に致仕を申し出たい。奈良麻呂のことはよしなに願いたい」

 諸兄は仲麻呂と年足に頭を下げた。

 つまり、自身の辞職と引き替えに、奈良麻呂については不問にしてほしいということか。奈良麻呂に連座させて諸兄を除こうと思っていたが、諸兄の方から辞職を申し出てくれてほっとした。欲を出して奈良麻呂や全成までも排斥しようとすれば、諸兄が全力で反撃してくるだろうから自らも傷つく。諸兄の反応から、宮守の言うことに真実があることが分かった。親の心を知らない奈良麻呂はいずれしっぽを出す。奈良麻呂はそのときに片付ければ良い。諸兄が古参を連れて行ってくれるというのであれば、諸兄の提案に乗るべきだ

 仲麻呂が目で年足に合図を送ると、年足は会釈を返してくれた。

「聖武太上天皇様は、酒の席の出来事であるからと不問になさいましたが」

「太上天皇様はおおらかなお方であり、儂の不徳をお許しになって下さったが、儂はずっと気に掛けていたことなのだ」

 諸兄は近くに置いてあった木簡を取り上げ、すらすらと筆を走らせた。

「この歌を太上天皇様、皇太后様に渡してくれ。お二人は儂の人生そのものであった」

 諸兄から渡された木簡には、

  降る雪の 白髪しろかみまでに 大君に 仕えまつれば 貴くもあるかな

(空から落ちてくる雪のように、髪が白くなるまで天皇様にお仕えできたことは、ありがたいことだ)

 と、達筆で書いてあった。

 諸兄は目を閉じて、静かに人生を反芻しているらしい。怒りが消えた顔には、充実した人生を送ったという満足感が表れていた。

「確かに、お届けします」

 仲麻呂は木簡を受け取ると戸口で一礼して廊下に出た。

「諸兄様はあっさりと引き下がりましたな。奈良麻呂殿の噂に真実があるということでしょうか」

「石川殿は、皇太后様の前で奈良麻呂の木簡を見せれば良かった」

「木簡は我が家の竈にくべていたものです。薬師寺で見つけたのではありません。左大臣様に鎌を掛けてみました」

 仲麻呂は「石川殿は人が悪い」と笑いながら言った。 

「奈良麻呂殿は、諸兄様の親心を計ることができずに、父親を辞職に追い込んだと、藤原様に対して恨みを抱くでしょうな」

「親の後ろ盾がない若造など敵ではない。それよりも、今日は久しぶりに緊張した」

「私も諸兄様の怒鳴り声に体の芯がぎゅっとなって、手に汗を握りましたが、楽しゅうございました」

 仲麻呂と年足は再び声を合わせて笑った。

 諸兄が台閣を去れば、豊成や他の者たちはものの数ではない。権力の頂上に手が届くところまで来た。笑わずにいられようか。

 二人が並んで階から太政官院の庭に降りると、小春日和の温かい日差しが緊張をほぐしてくれた。小鳥のささやき、木の枝を揺らすそよ風、すべてが心地よい。

 神が宿る山々は仲麻呂を見守ってくれているようだった。

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