第85話 いつか訪れる黄昏時に(前編)

 201*年6月2*日 10時30分 東京都F市。

 

 駐車場の奥に立つ薄茶色の外壁の2階建アパート。6月でこの気温ならこの先は……と、陰鬱になる暑さの中。私は道路に立って建物を見ていた。部屋の数を今更だが数える。8室。

 道路に面しているのは8台分のスペースのある駐車場。車が2台停まっている。


 周辺に多いのは一戸建て。徒歩10分以内にお店はコンビニ程度。近くには大きな公園があって、ファミリー向けのエリアといえる。


 部屋の間取りは1DKだった筈。家賃は75000円。ただし駐車場1区画分込の額。入居者(=契約者)は63歳の男性。名前はAといって、仕事は建築の自営業と契約書には記載されていた。屋号はあっても法人登記はしていないと思う。現在ではその仕事自体も失っている筈だが。

 所在地住所は入居申込当時の自宅で、他に事務所を構えているというわけではない。同じF市内から転居しているので記載された固定電話は変わっていない。つまり、目の前の物件に電話はつながる。が、その番号に誰かが出た事は無かった。8ヶ月前にはその固定電話は解約されていた。


 入居してからは6年で、延滞が目立つようになったのはこの2年程。1年半までは携帯電話には出ていた。『**日に支払う』と短く言うだけ。『忙しい』と何も電話を切られた。しかし支払いはあり、都度、一旦は延滞を解消していた。

 徐々に電話には出なくなり、訪問してドアに通知を挟むなりせねばならなくなった。すると、支払いだけがある。よくあるパターン。


 私がAに会ったのは去年10月の一度だけ。


 時間をその日に、遡る。


 インターホンを押すと大きな声が聞こえた。

「(ドアを)開けていいよ!」

 薄い頭髪、小柄な体躯。不似合いに大きな薄青色のスウェットを着た男が居室から台所を通り、玄関に向かって歩いてきていた。体の片側を30度前に出し……を交互に繰り返す動作。脚か、それ以外のどこかが不自由だと一見して察する。

 不謹慎だとは思うが、その動作は古いロボット玩具を連想させた。そして歳の割に老けて見えた。


 脳梗塞で左半身があまり動かなくなったと彼は言った。障害年金は2ヵ月に1度。5日後の障害年金支給日には18万円程が入ると続けて、それで払うから待て。仕事はいずれ復帰するから延滞する事もなくなる、と言った。

 その申し出を受ける前に、連絡くらいできるだろう。現時点で働けていないのならば、時間が無いなど有り得ない。これからは連絡はしてくれと彼の眼を見据えると、わかった──挑むような目で答えた。


 10月末にはまた家賃の支払いが発生する。11月末にもだ。払えないだろう。

 バイトも探していると言ったが、それができる体とは思えなかった。

 2ヵ月で収入が18万円なら、1ヶ月75000円の賃料を払い続けるのはどう考えても不可能だ。転居先を探した方が良いと意見する。『中々見つからなくてね』たぶん本当は転居先など探してもいないとわかる口調。


 視線をAからずらして部屋の様子を窺う。散らかっている様子はなかった。

 10月には確かに1ヵ月分だけ支払いはあった。けれど結局また延滞した。『**日に払います』というSMS(SNSではない。念のため)の短いメッセージが来た。根拠も何も無し。電話には出ない。

 どんな収入で払うのか? 転居先は探したのか? そんなメッセージを送るが何も返ってこない。一方的な自己申告の支払約束日は、一方的に反故にされた。


 部屋の出入り自体はある。水道やガス、電気のメーターは変動している。ドアと枠の間に挟んだ通知は無くなっているし、金具に貼ったテープも切れている。

 借りている駐車場に車は停まっていないが、そもそも車を所有し続けているのか不明だ。実際の程度は医者でもない私にはわからないが、半身麻痺ではあるのだ。それで運転など可能なのか?


 訪問した頻度は多くない。理由は、他に訪問せねばならない延滞客も多いし、延滞客が多い地域からAの部屋はやや離れているのだ。行き難い。

 Aは年金でしか支払いはできない筈だ。その支払いがない。賃料75000円で、年金額は2ヵ月で18万円。

 12月には延滞2か月分(11〜12月分賃料)と、12月末日の1ヵ月分(1月分の賃料)を支払わねば正常なサイクルに戻ったとはいえない。単純な引き算。カネが足りるわけがない。

 12月の中頃に『催告兼契約解除通知書』を送付しても、ビタ一文の支払いも無かった。


 部屋の賃貸借契約にとって『催告兼契約解除通知書』とは何か? 『賃料*ヵ月分の**円を延滞しているので〇〇日以内に全額払って下さい。払わなければ賃貸借契約は解除になります』という通知。

 送り手は契約の解除権がある人間(法人)。部屋の賃貸人(貸主)だ。

 実際には貸主の代理として不動産会社名で出す場合もある。家賃保証会社との契約にその賃貸借契約の解除権が与えられている(と解釈できる)場合は、家賃保証会社名で送る事もあるだろう。

 もっとも──私は全保証会社を知っているわけではないから──家賃保証会社との契約がある場合は、送り手が大家や不動産会社といっても、彼らに作成や発送手続きをさせるわけではないだろう。

 家賃保証会社が作成し送付まで行うのではないか。一方のお客様である賃貸人や不動産会社にそんな手間はかけさせない。

 

 もちろん、1日2日延滞したから出すものでもない。〇ヶ月延滞したら部屋の契約は解除になりますという条件に抵触した場合に送付する。

 では『部屋の契約は解除になりました』となったとしても、部屋に勝手に入って家財道具をどこかに捨てても良いか? というと、そんなわけがない。

『催告兼契約解除通知書』自体はある種、単なる手紙でしかない。送ったうえで部屋の明渡や支払いの交渉をするとか、訴訟に移行するとか。話はそこからなのだ。


 12月の半ばを過ぎて支払いが無かった時点で私は『退去方向で進めよう』と決定した。1月に入り『夜逃げ』もしておらず、退去の話にも進んでいなければ、すぐに明渡訴訟を提起する。Aの障害や年齢から考えて、そう決めた。


 私は単なる、どこにでもいる会社員だ。仕事は整理しなければならない。効率よく働かなければならない。早く帰宅したいから仕事時間は極限したい。

 1件に対して時間はかけたくないしかけられない。それが人1人の人生を左右するのだとしても、私の業務の中ではたかが1件。その程度の重みしかない。


 最も有難いのは自分から部屋の明渡に応じてくれる事だが、それが無理なら夜逃げしてくれても構わない。結局、どちらにもならなかった。


 数日に一度『溜った家賃は**日に払います』というメッセージが届く。『入院したが退院してから払う』という、よくある内容の文面だった事もある。もうそういう段階ではないから電話をくれと返信する。部屋を明渡しては? と送りもした。

 まるでこちらのメッセージが電波の不具合で違う文面に変換されてしまったかのような、質問とは全く関係無い、日付だけ進んだ『溜った家賃は**日に払います』という短い文面が返ってくる。


 連帯保証人はいない。契約書に記載された緊急連絡先は、工事現場で一緒に働いた事がある人物で、関係はそれだけ。もう10年は会っていないと彼は言った。


 部屋の貸主は不動産会社で、付き合いも多い業者。勝手知ったる……ではないが、1月の年末年始休暇が明けてすぐに、明渡訴訟の必要書類を手配をした。1月の第3週に弁護士へ書類を送る。


 口頭弁論は1回で終了。Aは不出廷だった。判決を取得。強制執行の申立てへと進む。殆ど最短に近い。訴状送達時に、付郵便送達に切り替える時間のロスはあったが、それはまあ、いつもの事だ。


 ここで付郵便送達とは何? という方のために簡単に説明する。

 裁判所からの訴状は特別送達で自宅へ送付される。自宅で渡すか郵便局まで取りに来てもらうのかはともかく、郵便局員が手渡さなければならない。

 自宅で受け取らなければ就業先への送達を上申する。

 だが延滞客というのは中々自宅では通知を受け取らない。不在票だって見ていない事も多い。働いていても就業先が不明だったり、無職の場合は多々ある。Aのケースなら、そもそも就業先=自宅である。

 訴状が送達できないと、裁判が開始できないのだ。


 この場合『不在かもしれませんがちゃんと住んでますから付郵便送達をしてください』と、裁判所へ上申する。

 どうやって『ちゃんと住んでます』と説明するのか? ライフラインが稼働しているか、ベランダに洗濯物は干してあるのか、ポストに通知は溜っているのか、本人宛の通知はあるのか、近隣住民の証言……等々を記した調査報告書によってだ。


 認められれば『裁判所が郵便で送った時点で送達完了と見做す』付郵便送達をしてもらえる。

 上申に必要な調査報告書の作成は家賃保証会社が行う事が多いだろう。私の働いている会社は管理(回収)担当者が行っている(もちろん受け取った弁護士事務所でも、手直しはしているだろうが)。

 報告書を作ってくれる外部業者はある。しかしお金がかかる。だから時間も無いのに我々が行わなければならない。

 被告の所在地が本当に不明の場合は『公示送達』を行うが、今回は関係ないので書くのはやめておく。


 訴訟の提起をしてからも頻度こそ多くは無いが訪問はしていた。明渡訴訟に進んだ。どうなろうが時間が解決してくれる。そして前述したように、やや行き難い場所なのだ。『一応仕事やってますよ』という会社に対するアリバイ作りのような訪問。

 部屋への出入りがある事は把握できていた。Aの車は一度も見た事がない。


 そして、時間を戻す。

 今日は明渡の催告の日。*月*日に強制執行を行いますという告知を貼るセレモニーだ。


「執行官はあと10分くらいで到着するそうです」


 左側から聞こえた声に視線を向ける。執行補助者だ。当社と契約している、執行補助を行う会社の職員。明渡の催告や断行(いわゆる強制執行)の都度、何度も会った事のある人物。やや小太りで50代中盤。撫でつけた黒髪には白髪も無い。アグレッシブな雰囲気だが、物腰は柔らかい。ワイシャツの上に、暑いのに社名の入ったジャケットを着ている。


「3番駐車場ってあれですか?」


 彼は続けて、私に問いかけた。「ええ、あそこですね」──私は道路からもっとも離れた駐車場を指差す。頷いて、彼は歩き出した。告知をどこに貼るかを事前に決めておくためだろう。

 

 Aの賃貸借契約には駐車場も含まれている。『*月*日に強制執行をします』という紙(ビニールでコーディングされてはいるが)を貼るセレモニーが本日だ。その告知は駐車場にも貼らねばならない。

 室内なら簡単だが、駐車場だと工夫が少し必要な場合がある。もっとも、彼らはいつでも、駐車場の材質が何でも、実に器用に告知を貼るけれども。

 

 彼の背を見送っていると、白いSUVが近づいてきた。体を駐車場入り口からずらず。2人の男性が横目に見えた。

「本日はよろしくお願いします」

 駐車場の左端に停めたSUVから最初に出てきた男性に頭を下げた。執行官だった。耳までかかった黒髪。中肉中背の特徴の無い顔。40代といえばそう見えるし、30歳前後といわれれれば、そうも思えた。  

 私がそれまで会った事のある執行官の中では最も若く見える。


 執行官が104号室のインターホンを3度押しても反応は無い。続けてドアをノックする。3度叩き、呼びかける。やはり反応は無い。

 5ヶ月前に停止しているガスメーターは未だにそのままだった。


 ドアを開けます、という大きな声をドアにぶつける。執行補助者がドアを開けた。半歩だけ玄関に入った執行官から「Aさん?」という声が聞こえた。


 メーターから視線を外した私は執行官の背後──初老の立会人に近づいた。肩越しに室内に様子をうかがう。玄関から入ってすぐの台所へと、居室から男が歩いてきていた。ガシャン、ガシャン……という駆動音が聞こえそうな動作。Aだ。

 執行官は更に半歩踏み出して「Aさんですか?」と呼びかけた。肯定の返事。裁判所職員である事を説明する。そして執行補助者、立会人と共に室内に入っていった。



 部屋から出てきた執行官たちと駐車場へ向かう。Aはやはり、既に車を手放していた。

 駐車場に告知を貼り終えた執行補助者が立ち上がるのを待って、強制執行日を再び確認した。来月の**日。3週間後。


 ちなみに話の筋とはあまり関係ないが、私は明渡の催告に『家賃保証会社』としてその場にいるわけではない。原告の代理人(弁護士)が選任する復代理人としてだ(厳密な位置付けは法律の本でも読んでもらうとして、代理人が作ったもう一人の代理人とでも思ってください)。

 もっとも、単に形式上の話。私が家賃保証会社の社員という事はその場の全員が理解している(昔は今よりもっと家賃保証会社のイメージが悪かったので、執行官に対しては表面上は隠す事もあった)。

 これも弁護士事務所に頼めば派遣してくれるのだけど、お金がかかる。

 まったく世の中、何でもカネカネカネだ。とはいえ催告時は、契約者が居れば交渉ができる機会でもある。室内を見る事が──執行官や状況次第だが──できる場合もある。加えるなら誰かがカギを持って行かねばならない。カギを弁護士事務所に預けて人(復代理人)を派遣してもらう事はできるが、立ち会いには行きたいのだ(だから、派遣してもらう理由が殆ど無い)。


「自分で退去は無理そうですね」

 執行補助者が、強制執行日を手帳にメモし終えた私に声をかけた。続けて「生活保護受けて転居の相談をしてみては? という話はしましたけど、申請に行くかはわかりませんね。一応、1週間後に連絡をくれとは伝えましたが」

 それでAへの興味を失ったように鞄に書類を締まった。強制執行日も決まったのだし、自分で退去できないならかまわないのではあるが……執行官や執行補助者とはそれなりの頻度で顔を合わせる(今回の執行官は初めて会ったが)。たまには良い人アピールもするか……。

「それなら私が保護申請に連れていっても良いかもですね。本人が納得すればですが」

「そうしてあげても良いかもしれませんね」

 他に適当なものがないから、というだけで作ったような笑顔で執行補助者が頷いた。

 

 念のために書いておくと、催告時に原告側(この場合は私)が被告(A)へ接触する事は普通、執行官が許さない。今回のように被告が在宅している場合、執行官が帰った後も接触するなと言ってくるケースもある(法律的にどうなのか知らないが、そうなのである)。部屋に誰もいなかったからといって、入室もできない。それが原則。

 だから私も、執行官の前では被告へ接触しようとはしない。その素振りも見せない。催告が終わればそのまま帰るというポーズを普段はとる(交渉を見られたく無いからでもあるが)。

 が、その原則も、何というか執行官のキャラクター次第なのだ。部屋に誰もいない場合、室内を見せてくれる執行官もいる。

 今回の執行官は、私に対する口調や雰囲気から、ガチガチの人間には思えなかった。もちろん彼の眼の前でAの部屋に向かうつもりはないが、催告終了後の私の行動は気にしないだろう。

 そして執行補助者の方は、当社と契約しているのだ。私の仕事も当然に理解している。取引先としての付き合いでしかないが、だからこそ『お互いうまくやりましょうよ』の間柄だ。


 執行官達を見送った後、私はドアを叩いた。「ドアを開けますよ」と2回呼びかけると「はい」と殆ど絞りだすような声が聞こえた。

 部屋の奥から歩いてくるAは、以前よりも歩行速度が遅くなっているように見えた。

「お久しぶりです」私は薄く笑って、軽く頭を下げた。


 障害年金は医療費や生活費に使った。内容や言葉数の割に長い時間をかけて言った後に『次の障害年金が入ったら全て延滞を払うから住み続けられないだろうか』とAは続けた。即答する。「残念ですが、無理ですね」

 

 強制執行日まで決まってそれは無理。加えるなら、支払う事も無理だろう。

 今月入ったお金は医療費や生活費に使ってしまったと彼は弁明したが、嘘か本当かわからない。そして、もはやどうでも良い話でもある。3週間後には強制執行が行われる。しかし退去するにも行き先がない……。

 生活保護受けて転居してはと、先ほど言われたでしょう? と水を向けた。


「……今度、相談に行ってくる」


「連れて行きましょうか? その身体では、中々大変でしょ」

 少し疲れた声で、私は応じた。実際、疲れていたのだ。やっぱり時間の無駄かな……と少し後悔していた。全く、気の迷いだ。

 話しながら、気付く。Aの口調が依然より微妙に柔らかくなっていた。いや、弱々しくといった方が正しいか。以前はもっとぞんざいな話しぶりだった。


「良いの?」

 小さく頷いて、私はF市の生活保護担当部局に電話をかけた。いきなり行くのも構わないのだが、2時間待たされる事もあるのだ。行くなら予約した方がスムーズだ。


 ところで、生活保護は居住地を管轄する福祉事務所で行う。『福祉事務所』という名称かどうかはその地域によってマチマチ。**福祉センターとかいう呼称かもしれないし、単に市役所内に生活福祉課などの名前で存在する場合もある。

 東京都23区なら同一区内でも〇〇町はX事務所、△△町はY事務所……と複数の福祉事務所が設置されている事もある。F市の場合は単に市役所内の『生活福祉課』だった。


 電話に出た女性に、生活保護の申請のため相談予約をしたいと告げる。

 持参する書類をこちらから羅列した。印鑑、身分証、預金通帳、部屋の賃貸借契約書、年金手帳、年金を払っている状態であれば通常は送付される『ねんきん特別便』……などなど。女性からは特に反論は無い。

 Aは障害年金を受けているのだから、その証書も必要な筈だと脳内で付け加える。収入がわかる書類(確定申告の書類)は、Aには今そんなものあるのか? いつまで自営業収入があったのだ?

 

 スマホから耳を離し、Aに顔を向ける。今の彼に何かの用事があるとは思えないが、延滞客はよくわからない理由で時間の都合がつかないと言い出す場合も多いため──空いている日時を確認した。

 3日後の14時に生活保護相談の予約を入れて電話を切る。


 ねんきん特別便は、60歳を越えても年金を払っているのなら送られてくるが、Aにそんなものないだろう。そもそも障害年金を受け取っている場合はどうなるんだ?  

 私は年金制度に詳しいわけではないが。まあ、年金関係の書類はあるだけ持ってこさせれば良いか、と考えた。仮に書類に不備があっても、福祉課職員がなんとかする筈だ。どの道、1日で終わる話ではないのだから。


 3日後の13時半に迎えに来るから、身分証明書、年金関係の書類はあるだけ揃えておいてくれ。あとは印鑑、通帳……等々と伝え、口にした内容を記したメモを渡す。

 私は初日に同行し『もうAは部屋に住む事ができません』と説明するまでが仕事だと考えていた。更にいえば、Aが生活保護を受給できるのかどうかも正直、出来れば良いね、くらいの感覚だ。

 Aという案件は私にとって、天変地異でも起こらない限り3週間後には『解決』するのだ。それがAが路上に放り出される結末であったとしても。

まず、時間的にはかなりタイト。転居まで行うとなれば、ギリギリ。いや、難しいだろう。全く、出来れば良いね、だ。


 Aの部屋のドアを閉め、通路を歩き出した途端にスマホが鳴った。ディスプレイに表示されたのは固定電話の番号。電話に出ると、女性の声がした。声からして若い。早い口調で不動産会社の社名が聞こえた。何か焦っている。ご相談があるんですが……続けた後、Bという男の名前が聞こえた。


 Aと同じ東京都F市にBという男が住んでいる。年齢は32歳。1年前に転居してきた。最初の支払いから延滞。契約時は住宅リフォーム会社の営業だったが、入居直後の最初の延滞発生時点には既に退職していた。

 電話には全くでない。連絡は全てSMSのメッセージ。『友達の所で働いている』というメッセージが届いた事もあったが、では何の仕事か? と返信しても返事は無い。

 しばらく間が開いた後『**日に払う』というメッセージが届く。訪問しても不在。ありがちといえばありがちだが、面倒くさい。

 2ヶ月分延滞した直後に1ヵ月分だけ支払う。そんなサイクルを続けていた。

 家賃は9万円。もっと安い物件はいくらでもある。延滞が解消できないなら安い物件に転居しては? と繰り返しメッセージを送った。

 解約するなら、残った債務は退去後に支払ういう方向でも仕方ない。分割で債務を支払う事も受けると提案していた。

 先月の終わりに、Bは不動産会社へ解約通知を出した。ホッとした。

 現時点では延滞は2ヶ月分。それでも退去するなら、来月以降の家賃は発生しない。だから、今月までの賃料は私の数字にとってマイナスだが、仕方ないで割り切っていた。


 不動産会社の退去立会日は昨日だった筈だが……? と頭に浮かぶ。必ずではないが、延滞客が退去するなら『本当に退去したのか?』と不動産会社に確認を入れる。

 今日、帰社してから不動産会社に確認するつもりだった。嫌な予感がした。


 昨日の夕方に不動産会社の社員がBの部屋に向かった。代理と名乗る男が部屋にいた。その場でBに電話をするが出ない。その社員は、契約者本人がいなくても、代理の人間からカギを受取れば良いと考えた。

 Bからの解約通知は確かに提出されている。今日その時間の退去立会に合意したのもBなのだ。男は確かにカギを持っている。イレギュラーだが、代理の人間相手に部屋の退去明渡を行う事は、珍しいとまでは言えない。


 しかし部屋の中には、ある程度片付けられてはいたがまだ荷物が残っていた。

 代理と名乗る男はタトゥーだらけ。

 荷物をその男に運び出させて退去を完了させる事ができれば良いのだが……「荷物量も多いし、時間が無いと言われたそうです。あと、怖かったそうで」──なんだそりゃ?

 まぁ、退去日に家財道具や荷物の搬出が終わっておらず、部屋の明渡が完了しないのは、延滞客相手の場合はまま、ある。あるが、怖かった? なんだそりゃ。いや、私だってその場にいたら怖いかもしれないが……なんだそりゃ?

 

「で、結局どうなったんですか?」

「荷物を出して連絡くださいと伝えて、帰ってきたそうです。だから退去は完了してません」

 それから彼女は、Bに連絡は取れるか? と続けた。自分たちが電話をしても出ないから。


 家賃保証会社は部屋の明渡までは──例外もあるが──家賃を保証する。少なくともBとの契約はそういう契約だ。だから解約日である今月中に部屋の明渡が完了しないなら、来月も家賃は発生してしまう。私の数字はマイナスだ。何にも解決していない。

 こちらでも連絡してみます、と短く伝えて電話を切る。Bへコールするが、留守番電話のアナウンスに変わる。

 舌打ちした。どいつもこいつもどうして──Bとは全く関係ない、過去や現在に対応した面倒な延滞客の交渉記録の文字や声、或いは顔が一瞬で脳内に羅列された。どうしてこんなに手間がかかるのだ。ただ賃貸物件に住んで退去するだけの、誰もがやってる普通の事だろう。どうしてだ。


 すぐにメッセージを送る。退去の明渡が完了していない、家賃が発生し続ける、このまま明渡が完了しないと明渡訴訟になる可能性もある、荷物が運び出せないなら当社で処分してもいい。すぐに連絡をくれ。翌朝も夕方も、その翌日にも電話をかけて、留守番電話に吹き込み、またメッセージを送る。

 

 返事は、無い。


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