第86話 いつか訪れる黄昏時に(後編)

 3日後。

 Bが退去していないと連絡を受けた通路に私は立っていた。

 Aを迎えに来たのだ。ドアから出てきたAは、印鑑や通帳、言われた書類の類はあるだけ持ってきたと、肩から下げる色褪せたグレーのバッグを開けた。


 路肩に車を止めている事を伝える。相変わらずの歩行で進むAを眺めながら、Bに電話を架ける。留守番電話に変わる。切る。

 Aを追い抜き、駐車場で振り返る。仕方ないとはいえ、歩行の速度に胸中で嘆息する。

 迎えに行くとは親切な、と思われるかもしれないがそうではない。市役所で待ち合わせをすると、来なかったりひどく遅刻する可能性があるからだ。それくらい私はAを──というより明渡訴訟にまで至った顧客を──信用していない。


 途中、銀行に寄って通帳記帳をする。現在の残高を証明するために記帳しておく必要があるのだ。

 F市役所3階に生活福祉課はあった。受付にいた男性に、生活保護の相談の予約をしたAが来た事を告げる。名刺を渡して、自分は家賃保証会社の人間で、同行したと伝える。

 男性が連れてきたのは、彼によく似た顔の中年の男性。違いはメガネをかけている点くらいか。

 なるべく誠実に聞こえるよう努力して挨拶する。名刺を差し出してきた。Lという名前の職員。

 私が家賃保証会社の社員と理解した彼は、同席に難色を示した。全く問題ない。

 現状だけ説明させてくれ、後は席を外す。職員の目を見て精一杯、腰が低く聞こえる声音を作る。


 ではこちらへ……と彼は低いカウンターの方へ歩いていった。椅子はAに譲り、私は彼の横に立つ。カウンターの向こう側の職員が腰掛けるのを待って『催告兼契約解除通知書』のコピーを差し出した。

「まずこれが、現在は部屋の契約が解除になっているという通知です」

 明渡訴訟開始前に、弁護士から改めて送付させた通知書のコピーを持ってきた。弁護士名が入っている方が『本物っぽい』から。もちろん、本物なのだけど。

 

 伝える事は単純。現在は家賃滞納により明渡訴訟にもなっていて判決まで出ている。更には強制執行の日付も決まってしまった。Aに生活保護の受給と転居をさせてくれ、もうじき住む所がなくなるから。書面を10数秒眺めた彼はAに視線を向けた──「そうなんですか?」


 しわがれた声で「はい」とAは答えた。

 職員は立ち上がって、あちらの部屋まで来ていただけますか? と、10メートル程離れた、背の高いパーティーションで区切られた相談室を掌で示した。


「転居まで、できるでしょうか? もうあまり日が無いんですが」

 カウンターを回ってAの傍に近づいた職員に声をかける。私はAを本当に心から心配しているんですよ。そう『誤解』してもらえるよう努める。


「これから話を聞いてみないと……」

 どうとも取れない答えを聞いて、相談時間は1時間はかかるなと目算する。

「1時間くらいはかかりますよね?」

「たぶん。……まぁ、時間はわかりませんが」

 彼は困惑した表情でAを見た。Aが障害のせいか、会話のレスポンスが若干遅い点には気付いているようだ。


 私はAに小さく笑顔を見せた。あえて職員に聞かせるように声を出す。 

「あの、Aさんこれから生活保護を申請するんですが、申請の進捗なんかの内容を職員さんに聞いてもいいですか? 強制執行日まで日がありませんし、もし荷物をこちらで処分するなら手配も必要ですから。退去できたらカギの受け渡しもしないといけませんし」

 無理矢理こじつけたような理由。生活保護の申請とは何の関係も無いと言えば、無い。

「はい」

 その返事だけが必要。

「じゃあLさん、Aさんの事、よろしくお願いします。後日もしかしたら電話させていただく事もあるかもしれません」

 Lに、不必要に深々と頭を下げる。姿勢を戻してAに顔だけを向けた。なるべく善良そうな笑顔たらんと意識する。

「じゃあ、Aさん、1時間半後にまた来るから、ここで待っててくださいね。家まで送りますから」

「ありがとうございます」


 本当なら私はAを迎えに行く必要などない。普段ならそんな事しない。しかしF市役所周辺に何件か訪問しなければならない延滞客がいたし、それをこなすと丁度、1時間程かかる。そしてAの居住地を越えたかなり先にも、訪問したい延滞客がいた。Aの部屋は通り道ではあった。

 それに、Aがカネを今いくら持っているのかしらないが、タクシー代まで持っているかは微妙だ。そして、私は善良な人間だと職員に印象付けたくもあった。

 加えるなら、Aの歩行を改めて明るい照明の下で見たからか、送っていくくらいは、まあいいかとも思ったのだ。多少の時間を無駄にしても。

 

 1時間半後。福祉課入口の長椅子に1人で座っていたAに声をかけた。そのまま受付に向かい、Lを呼んでもらえるか頼む。F市での生活保護申請の今後の時間的な流れを確認したかったのだ。Lは外出していた。

 窓口にいた女性に聞いても、Lと話してほしいという回答。私にとっては切実な要件でもないので、まあいいかと市役所を後にした。


 それから7日後の15時を少し回った頃。F市役所に電話を架けLを呼び出す。

 できるだけ丁寧に挨拶をした後、Aと同行した家賃保証会社の社員で、その上で強制執行日が迫っている点を強調して話を始めた。

 詳しい状況を回答してくれるかは運次第、Lの性格次第ではあったが、先日Aに同行しており、内容を話しても良いとAが同意している点が幸いした。特段、濁さずに話をしてくれる。


 生活保護の申請は受理されている。決定はまだだが、たぶん大丈夫。Aは自分で転居先を探すと言っている。それが本当に見つかれば転居費用は出る。

 ただしLとしては、強制執行までの時間がない点を懸念している。短期間で転居先が見つかるかわからないし、Aは障害者である。一旦、施設に入ってから転居先を探す事になるのでは……と口にした。同感ですと相槌を打つ。


 施設とは一時避難施設(シェルター)の事だろう。そこに入って生活保護の決定を待つ。全く違う自治体に移るのであれば再度の申請が必要になるだろうが、サポート体制がある筈だ。そこに一定期間寝泊まりして転居先を探し、転居もできる。そのまま居住を続ける事ができる施設もある筈だ。何にせよ、ホームレスにはならずに済む。Lの話を聞く限りは、同じF市内の施設のようだった。もちろん、場所を聞いても教えてくれないだろうが。


 施設に移る場合でも、運べる限りの家財道具の搬出費用も出せると彼は続けた。

 意外と柔軟……というか、そんな施設あるのか? 手荷物程度しか置くスペースは無い所なのだろうと思っていた。

 話の終わりに彼は、最も遅くとも強制執行日までにはAと荷物をどこかへ移せるようにはしたいと言った。

 

 Lとの通話を終えた直後に、Aへ電話を架ける。出ない。『部屋を探しているそうだが見つかったか?』という内容のメッセージを送る。


 1時間程経過した後にAから、不動産屋へ入居の申込をしたが断られたというメッセージが届いた。

 すぐに電話を架ける。出ない。5分後に『また1件申込します』というメッセージが届いた。すぐに電話を架ける。出ない。何でコイツは、電話に出ない? 出たくないのはわかる。私が嫌いなのかもしれない。しかし、そういう問題か?


 舌打ちして、『もし新たに申込するなら』……と2つの不動産会社の名前と住所と電話番号をメッセージで送る。当社とは取引の無い業者で比較的、生活保護受給者の部屋探しも多い筈の不動産会社だ。

 なぜ当社と取引がない所を案内するか? 現在進行形で当社に対して延滞しているAが、審査に通る筈が無いからだ。


『ありがとうございます。そちらに電話してみます』と返事が来た。すぐに電話を架ける。出ない。延滞客でこのパターンは非常に多い。


 家賃保証会社の管理(回収)担当者も含めた社員募集のコピーにはよく『入居者様に安心を』だの『お客様に寄り添う』だのと書いてある。全くその通り。そうあるべきだ。異存はない。

 ただ我々、管理(回収)担当者も言いたい。安心したいよ! 寄り添ってほしいよよ! 何なんだよコイツらは!


 頭を冷やすためにペットボトルのお茶を口に含んだ。視線を机のスマホに向けると、SMSの受信が表示された。

 Bの名前だ。左肘をついてペットボトルを加えたまま、右手の人差し指だけでスマホを操作する。

『すいません。荷物は運び出しました。鍵はポストに入れておいていいですか?』──いいですか? って今どこにいるんだよコイツは。部屋にいるのか?


 素早く指を動かしてBへコールする。出ない。またこのパターンか。不快感でこめかみに違和感を覚えた。

 AもBもどいつもコイツも……電話に出ず、メッセージだけ一方的に送ってくる延滞客の名前が脳内にいくつも浮かぶ。

『電話には出ない。メールにしろ』とかいうのは堀江貴文氏とかの影響なのか? そんなもん、時と場合によるだろう。時と場合を選びたいなら意識高く『お客様』でいてくれよ。今日何度目かの舌打ちをすると、メッセージが増えた。

『すいません。いま仕事中で電話に出れません。あとでかけなおします』


 18時までに電話をください……と返信。もちろん、18時になっても電話はかかって来ない。架けても出ない。わかりきっていた事だ。

 Bと『会う』事は難しいだろう。会えたとしてもいつになるかわからない。時間の無駄だ。そうしなくても『解決』する方法を考える。

『いつなら部屋にきて退去明渡は可能か? もし時間が取れないなら、カギを郵送するかポストに入れておいてほしい』そんな内容を丁寧な文面にして送る。


 翌朝。出社しスマホを見ると、予想通りの答えが返ってきていた──『時間が取れません。カギをポストに入れておいてはダメですか?』

 電話を架ける。出ない。わかりきっている。

『今日中にポストにカギを入れておく事。入れたらメッセージで良いから連絡する事。もし部屋に荷物が残っていても処分していいか?』──丁寧見えるよう添削して送信。


 昼を過ぎた頃に『友達に今日の夜ポストにカギを入れておいてもらう』という返信が届いた。質問には全て答えろ。小さく舌打ちする。私の舌はボロボロだ。『もしお部屋にお荷物が残っていた場合、あれば当社で処分しておきます。よろしいでしょうか?』


 その日の19時を回った頃に『大丈夫です!』という返事が届いた。大丈夫って何がだよ。『部屋に荷物は残ってないから大丈夫』という意味か? 『処分してもいい』という意味か? 私も他人にとやかく言える文章力など持ち合わせていないが、彼らのメールは本当に解り難い。

 後者と解釈する。その方が『解決』に近づくから。


 翌日、Bの部屋を管理する不動産会社に連絡する。先日、私に連絡してきた女性を出してもらう。彼女の名前はO。彼女自身はBの退去の立会に行った人間ではない。事務員だろう。

 Bとのやりとりを簡単に、私が主導権を握れるよう、嘘にならない程度に脚色する。


 荷物は既に運び出しており、部屋は退去しているとBから連絡があった。Bは部屋には来れず、カギはポストにあるそうだ。もし荷物が残っていても処分してほしいと希望している。

 部屋に行こうと思うが、そちらの会社は同行するか?


 2日後の10時50分。

 大通りに面した白いマンションの前に向かうと、私と同様、ワイシャツにノーネクタイの男性が立っていた。黒い短髪。年齢は30代中盤だろうか。目が合うと、私の所属する会社名を疑問形で口にした。頷きながら彼の前で立ち止まる。

 約束の11時にはまだ早いが、私の方が後から来ている。「お待たせして申し訳ありません」と口にしながら名刺を渡し、彼からも受け取る。


「すいません、どれくらいで終わります?」

 表情こそ申し訳なさそうだが、声は焦りの色が強い。後ろに仕事が詰まっており、長居ができないという。

 彼は、以前にここで『怖い人』と会った人物ではない。経緯は簡単には聞いているが、とりあえず今日行ってこいと会社に言われて来たそうだ。


 今日は大して時間はかからない。長くても20分あれば十分。部屋に荷物が残っていようと空だろうと。そう答えると、彼は安心した表情を見せた。

 それから私からも経緯を説明し、尋ねる。

「部屋の合カギは持ってきていただけましたか?」

「あ、はい。一応持ってきました」


 カギをポストに入れておくというメッセージだが、信用できるものではない。仮に無くても室内には入るつもりだった。

「では、行きましょうか。カギはポスト……って事だってんですけど」

 マンション入口のインターホンにカギを差し込み回す。オートロックのドアを通過して集合ポストの受取口へ向かう。彼は、ダイヤルを右左に回してBの部屋号数が表記されたポストを開けた。

「ありませんね」

 中を覗いて、手を差し入れ、彼が呟いた。私も変わってもらうが、黒いボックス内にはチラシとパチンコ店からのDMがあるだけ。

「ま、仕方ないですね」何でも無い風に私は口にする。「部屋に行ってみましょうか。我々もですが、こんな状態続けてもそちらも困るでしょ?」

「はい。結構人気のある物件なんで……」

 次の入居希望者もいるそうだ。一刻も早く部屋のクリーニングの手配もしたいだろう。


 エレベーターを降りて、701号室へ向かう。彼はカギを取り出して私に顔を向けた。

「開けて良いんですよね?」

「それは大丈夫です。Bさんから部屋は退去したって連絡が来てますし」

 あえてカギがなかった事は蒸し返さない。何でも無い事……という風に進める。

 実際、カギの有無は部屋の明渡の絶対条件ではない。契約者本人から解約通知も不動産会社に提出されており、既に退去しており、仮に荷物が残っていれば処分してもいいというメッセージも来ている。

 このくらいの融通が効かないと、不動産に関わる仕事なんてやってられない。


 高級感のある、真ん中に銀色のプレートの入った薄茶色のドアを開けた。

 玄関から一見して、室内に残置物は、あっても僅かだと察する。絶対に退去はしている。後は、量の問題だ。

 不動産会社の社員が靴を脱いで部屋に入る。私はスリッパを取り出して彼に続く。


 私は仕事で延滞客の部屋に入る際には絶対にスリッパを履く。どんなに綺麗に見える部屋であっても、履かずにはいられない。あまりにも汚い部屋に入り過ぎたからだろうか。無防備にも靴下だけで入室し、皮膚病に罹った同僚を見たからだろうか。

 職業病? しかしプライベートで、友人の散らかった部屋に入る場合には何とも思わない。何かが、何処かが、我ながら屈折していると思う。単に、延滞客への不信感が根にあるだけかもしれないが。


 キッチンもトイレも風呂場も、本当に空っぽだった。やや広めの1ルーム。

 照明すら運び出されている。部屋の隅には埃は積もっているが、一見して残置物は窓際に置かれた段ボールが1つだけ。開いた段ボールの中には電源ケーブルが数本とハンガーがいくつか。それだけだ。


「この段ボールは私が処分しておきますよ」

 段ボールを抱えて玄関に向かう。歩きながら、クローゼットの中に残されていた部屋の契約書と設備の取扱説明書を手に取っていた彼に声をかけた。


 玄関に段ボールを置いて、私は居室に戻った──「明渡完了、ですね。家賃の保証は本日までは行います。カギは早目に交換しておいた方が良いと思います。後はそちらのOさんと話しておきますよ。お時間、無いんですよね?」

 カギの事でもしも何か言い出されても、面倒だ。時間の無駄。もう切り上げて問題ない。この部屋の状況で、カギの有無だけで保証契約を継続するなど有り得ないのだから。

「すいません」

 

 カギの費用を原状回復費として代位弁済するかどうかはともかく(どうせBは支払えないし、不動産会社には連絡も取れないだろう)、明渡は完了だ。

 後はOさん(Bの退去が完了してないと連絡してきた事務員)と話しておく、で話を完結させた。


 段ボールを抱えて通路に出る。背後でドアのカギが閉まる音が聞こえた。Bも随分と勝手なマネをしてくれる。エレベーターの中で嘆息する。それでも、『解決』だ。


 社有車の助手席にバッグを軽く放り投げると、中に入れたスマホからコール音が聞こえた。運転席に座って、投げたばかりのバッグのポケットからスマホを取り出す──Aだ。

 散々電話して、SMSでのメッセージしか返ってこない。

 電話してくる時には大抵、相手に都合の良い状況。こういう場合の第一声は、いつでも一瞬、考える。


 正答を書くなら朗らかな御挨拶。だが、そうしたくない自分がいる。

 だけど私は会社員。効率良く、スムーズに仕事を終わらせて帰宅するのが正しい在り方。

 私が頭抜けて優秀だったり、何かしらの才能に恵まれているなら話は別だが、残念ながらそうじゃない。単なる歯車、パーツ。それだけの存在。

 勤務中に感情の発露など分不相応な贅沢。情緒は出来得る限り麻痺させる。苦しいだけ。生き辛くなるだけだから。


「ご連絡ありがとうございます。どうされてたんですか?」

「すいません。体調が悪かったり、忙しかったりで、連絡できなくて」

 生活保護申請中の無職が、一体何で忙しいんだ? 侮蔑的な言葉を呑み込む。

「ご体調は大丈夫なんですか?」


 話の内容は、転居先の審査が通ったので、いまから不動産屋に書類を取りに行く、という事だった。役所にも電話はしていて、不動産屋で書類を受け取ったらそのまま役所にも行くと。

 強制執行日までもう1週間程度である。急いでくれ。転居してくれ。部屋の明渡には行くから、さっさと転居日を決めてくれ。それしか言う事は無い。福祉課のLから、転居日がいつになったのかを私に連絡させてくれ。それを聞いたら私からAに連絡する。そう続けてから、電話を終えた。


 初めから解り切っていた事だが、私個人にとってはあまりメリットが無いと嘆息する。

 例えば先々月や先月の時点で退去するのなら、その時点で家賃は発生しないのだから私にとっては数字面でのプラスではあった。しかし強制執行日直前に転居した所で、どう転んでも終わる『強制執行日』までの賃料保証と金額的な差異が殆ど無い。

 確かに会社にとっては強制執行──明渡の断行という──の費用が削れるからプラスではあるが……。むしろ、退去立会の時間調整を再度行わなければならないので、私にとっては時間な無駄が発生する。私には他にも仕事があるのだ。

 だが、部屋を明渡しますというのに『いや、行けません』とも言えない。もちろん無茶苦茶な時間やどうしても無理な状況なら断る。が、基本的に管理(回収)担当者は、延滞客が退去してくれるその機会を逃す事はできない。


 翌日。朝10時。

 福祉課のLへ電話する。接客中との事だった。折り返しの電話を依頼する。2時間程たって、着信音が鳴った。固定電話から。

「すいません、こちらから電話しようと思ってたんですが」──Lの声が聞こえた。絶対そんな事思ってない声色だな、という感想を無理矢理に心の片隅のゴミ箱に放り込む。時間が無いのだから早く電話して来てくれよ、という言葉を呑み込む。私の仕事は、感情や言葉を捨てたり呑み込んでばっかりだと胸中で自嘲しながら。


「えーっと……」──Lは続けた。Aの転居先は決まった。契約もできる。ただし、転居日──つまり部屋の家財道具を運び出す日──は、強制執行日の前々日になる。

 2つの思考が頭の中でクロスした。率直に言えば、大した仕事の早さだ。少し驚いた。そして、何で強制執行日の前々日なんだよ。


 元々、強制執行日までには施設にでも荷物を運ばせたいと言っていた。その手配だけはしていたのだろうか。それを今回決まった転居先への引っ越し作業へ流用したのかもしれない。どちらでもいい。聞いたからどうなるものでもない。

 声に乗せずに私は嘆息した。 


「引越しの日は早まりませんか?」

 できたとしても、もはや数日の差しか無い。ただ、努力はすべきだ。

「日付は決まってしまっているんで。すいません」

 努力、終わり。数舜だけ目を閉じて、開けた。話を確定させる方へ転換すべきと判断する。


「まあ、仕方ないですね。荷物は全部運べるんですよね」

「その筈です」

「運び出す時間って確定できるものなんですか?」

「それはちょっと……わかりません」

「ですよね」……そりゃそうだと苦笑する。普通の引越し屋は『**時~**時に来ます』だ。カネさえ払えば細かい時間指定もできるだろうが、普通はかなりアバウトだ。大幅にズレる事も多い。

 普通、生活保護を受給し転居する場合、3社程度から合い見積もりを取る事を要求される。勿論どの業者も普通の民間企業だ。

 今回はかなり急だ。もしかしたらLがかなりの程度、手配を手伝ったのかもしれない。引っ越し業者自体は普通の民間企業だろう。そして、明確な時間を確定出来る程のカネは払えない筈──「じゃあ私は強制執行日の前日の午前中にAさんから部屋の明渡を受けようと思います」

 そして続ける。「その時間ならまだ強制執行は止められる筈ですので」──後はAとカギを受け取る時間を決める。だからAに引越作業を必ず完了させるようにさせて下さい。


 Aにコールする。5コールが終わる頃に「はい」と聞こえた。出てもらわねば困るし、転居も決まった今の状況なら電話に出るとは思っていた。それでも、今更、電話に出るのかよ。胸中で毒づく。最近はよく舌打ちするなと、我ながら呆れる。プライベートでは舌打ちなど、まずしないのに。

 聞こえぬように音を出した。


『転居先が決まった事はLにも確認した。引越し日も聞いた。引っ越し作業は時間が読めないし、私もそこまで時間の融通は利かないから、部屋の明渡のため翌日の11時に部屋に来てくれ。その時間なら強制執行は停止できる』

 話し方はもう少し柔らかくしているが、この内容を一気に伝える。Noと答えたら──? 鍵を受取に行くから転居先を教えてくれと返す。

 

「わかりました」

 掃除の必要は無いが、家財道具やゴミは一切合切片運び出してくれと強調して、電話を切った。次は不動産会社だ。物件担当者の携帯へ電話する。


 強制執行前日11時にAから部屋の明渡を受ける事になった。同行するか?

 来ないなら来ないで別にかまわない。だが、そもそも強制執行時には来ると言っていたので、どうせなら来てほしいと思った。Aからカギを受取り、その場で物件担当者へ渡せばそれで終了なのだから。もちろん、家財道具や荷物が何も残ってない事が前提ではあるが。


 7月1*日11時。


 空っぽの部屋の中を不動産会社の担当者が歩き回る。その後を、緩慢に、速度とは比較にならない程の労力でAが付いて回る。

 私はベランダに面した戸を開けて、誰も通らない道路を見ていた。

 いくつかの破損箇所をAと共に確認した物件担当者が、彼に退去時の書類へサインを求める声が聞こえた。


「あ、転居先は後で私にも教えてください」

 私は振り返って、物件担当者に声をかける。どうせ、その転居先へと不動産会社が原状回復費等の請求をしたとしても、Aに払える筈もない。原状回復費のある程度の額は、当社が代位弁済する必要があるだろう。何より滞納し続けた家賃がある。その追跡をする部署のためにも、転居先は聞いておかねばならない。


 部屋の中には設備品のエアコン以外は何もない。埃が壁に沿って積もってはいるが、それだけだ。引越し業者がうまく片付けてくれたのだろう。


 物件担当者が、手持無沙汰な顔で私を見た。

「そちらはもう良いんですか?」

「私からはもう何も無いですよ」

 私は軽く頷いた。それから、殆ど這いつくばう姿勢で、床に置いた書面にサインをしているAを見下ろした。

「じゃあ、Aさん。残った支払いの話はまたこちらから連絡するので。電話には出てくださいね」

「はい」

 Aが私へ顔を向け、かなり無理な角度で頷いた。

 

 ひどく筋力に負担のかかる動きで立ち上がったAに、部屋の明渡は完了したと改めて伝える。カギは既に物件担当者が受け取っている。


 Aは頭を一度下げて、玄関へ向かって行った。何度かに目にする、麻痺した半身を庇う動作。これから近くのバス停に向かうと言った。

 さして広くもない居室と台所。その短い距離を、ひどく鈍重にAは玄関へ向う。

 玄関のドアが閉まる音が聞こえた。『解決』、だ。


 物件担当者から原状回復費の金額がいくらくらいになるか……などという話を聞きながら、視線を外に向ける。平坦な駐車場を、まるで砂の丘を登るような速度で進むAが見えた。

「これからまたこういう人の所に行くんですか?」

 私より幾分かは若いだろう物件担当者の声は、やけに弾んでいた。

「はい。今からT市に」

「保証会社さんも大変ですねえ」

 彼に薄い笑顔を返す。

「私は、不動産屋さんも大変だと思いますが」

 私に不動産屋の仕事はわからない。彼だって家賃保証会社の管理(回収)担当者の仕事はわからない。彼はそれ程ではないが──と自分自身に前置きして、わかってたまるかと胸中で続ける。わかっているなら普段、不義理この上ない応対を我々にしてくるわけがない。


 Aの転居先をメモし終えて、私は再び駐車場に目を向けた。Aの姿は消えていた。


 Aは建築の自営業だった。だからでもないだろうが、それなりの強い気性であった事は、最初に会った時に感じていた。今は──今だけかもしれないが──その片鱗も見当たらない。


 ふと、Bの事が頭に過った。

 随分と勝手に生きている。今どこに住んでいるのかわからないが、それなりに気儘に、誰かに迷惑をかけながら生きていくのだろう。年齢的にも、逃げる元気はまだまだある。

 

 誰も彼も、人は必ず老いる。それは仕方が無い事だ。

 誰も彼も、人はいつか死ぬ。絶対に。それは悪い事では無い。いつか死ねるから、いま生きられる人もいる。

 加齢だけではなく、病気や他の原因で思うままにならなくなる事もある。そんな事態は、それこそ珍しく無い。

 Aとて、年齢的には老人と呼べる程ではない。体さえ満足に動くなら、まだまだ働けた筈だ。


 いつまでも勝手気儘に他人に迷惑をかけながら生きられるもんじゃあ、ないよ。

 いつかBが黄昏を迎えた時、その時にもし私が目の前にいてみろ──年齢は私の方が上なので、やや無理はあるが──想像を続ける。


 その時、もしも私が今の仕事としてその場に立ったなら、たぶん心底から憐れむ表情を作り、同情に満ちた言葉を彼にかける筈だ。

 きっと、心の中は真逆。笑顔と軽蔑を秘匿し、憐憫と博愛を表に出す。


 視線を上げて空を見る。7月半ばとはいえ、気温だけなら盛夏といえた。室内で立っているだけで、気力も体力も消えていく。 


 いつまでも、勝手気儘にやれるもんじゃあ、ないよ。

 強烈な熱を照り返す駐車場を眺めながら、そう思った。


 まあ私も、いつか訪れる、自分にガタがきた時に、誰かからざまあみろと思われないよう、精々気を付けるさ。

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