第81話 猫

 2019年*月。


 1人は強制執行の日にドアを開けて知った。1人は不動産管理会社からの連絡で知った。1人は安否確認の名目で警察を呼んで知った。何ヵ月分かはバラバラだが全員、家賃の延滞があった。皆、文字通り首を吊って死んでいた。

 5年以上、同じ部屋に住み続けた独身男性たちだった。そしてそれだけの年数居住していて、延滞せずに家賃を支払った回数は、全員合わせても30回以下。


 3人目に関しては安否確認の10日前には確信があった。虫の張り付いたベランダのガラス戸。閉じたカーテンの向こう側には100パーセント死体があると。


 じゃあなぜすぐに警官を呼ばないのか? その時点では鍵も持ってないし、他に仕事があって時間が無かった。虫が湧いているのだ。倫理観を外して書くなら──今更急いで何になる?

 そんなわけで、私は何もしなかった。近所の人が異変に気付いて警察を呼んで発見してくれないかなと期待もしていた。


 死体の場所や部屋の作りにもよるが、臭いが部屋の外に漏れるかどうかはマチマチ。その部屋は、臭いは殆ど外に漏れていない。だから状況証拠としては若干弱くもあるのだ。

 でもきっと死体が、ある。


 警官を呼んで室内を検める。死体があれば、それなりの時間を拘束される。

 室内に鍵があれば、それで閉めておいてくれと警察に伝えて立ち去れるが、無ければ私がドアを閉める必要がある。そして仮に室内に鍵があったとしても、何だかんだと1時間程度は拘束される。その時間のロスを私は厭った。


 結局、近所の住民の誰も通報する事もなく、私が警官を呼んで安否確認をした。安否? 苦笑した事を憶えている。虫の張り付いたガラス戸の様を2人の警官に示す。彼らも、確信までには至らずとも、その可能性の高さを理解した。

 ドアを開けると臭気の塊が1階の通路を過った。私の確信は正しい。


 数分後に出てきた警官は右手の親指と人差し指を首にあて、死体がどういう状態か教えてくれた。

 救急車や警察の車が来たり帰ったり。室内に何人もの人間が入って出てくる。最初に呼んだ警官に話した事と同じことを、刑事課の人間にも繰り返し話す。契約者の延滞状況、最後に連絡の取れた時期、緊急時の連絡先。


 警官に、室内に鍵はあるかと私は尋ねる。あった。だから『それで閉めておいてください』と言い残して私は帰る事ができた。1時間程度の拘束だから、比較的マシだ。


 死体が発見された部屋の家賃は6万円。古い2階建てのアパート。少しばかり急いで『解決』したとしても、数字としての意味はあまり無い。だから急がなかった。

 勿論、これが友人相手ならば、私は時間のロスや費用など頭に過る事なく部屋を開けるだろう。しかしこれは単なる仕事だ。それだけ。

 私はお給料を貰って働く会社員。取り換え可能なパーツ、歯車。

 部品は効率良くスムーズに動かなくちゃいけない。


 後日、警察から『部屋を片付けても問題ないですよ』という言葉を得た。

 荷物の撤去をするにも室内の家財道具の量を撮影する必要がある。でなければ撤去業者に依頼ができない。時間の無駄を極限するため、3件の部屋──そしてプラス1件──には同日に入室する事にした。

 

 『3人目』の死体の発見から15日後。

 慣れというより体質の問題だと私は思っているが、腐乱死体の臭いが染みついた部屋への耐性は人それぞれ。私は、多少の不快感こそ憶えるが、それだけ。もっとも、腐乱死体を直接扱う仕事とは接する『臭い』の強度が違うのだろうが。

 私は所詮、腐乱死体を直接に扱うわけではない。ましてや『死体のあった部屋』へ入る時には、程度の差こそあれ臭いは軽減されている。

 今回は、それでも室内の臭いは酷かった。


 部屋から出た私は、貫頭衣のように頭と両腕を通して着ていたゴミ袋を破いた。臭気がつかないようにせめてもの抵抗。こんなもの、大した意味はない。それに5分程度の在室だ。仮に臭いが多少移ったとしても洗濯すれば落ちる。

 ワックスの付いた髪を小さく摘まむ。髪には臭いがついたかな。一瞬考えて──だったら何だと胸中で苦笑した。今夜、女性と食事をする予定など私には無い。



 死体──契約者は53歳の独身男性。仕事は不明。叔父が緊急連絡先。私が電話をしても、手紙を送っても反応は無い。


 警察も、叔父を含めて親族の誰とも連絡が取れていない。両親は他界。離婚した妻との間には子供はいない。兄がいる。彼とも連絡は取れない。刑事課の担当者はそう私に教えてくれた。


 事件性の無い単なる自殺。

 遺族に連絡を取るよう努力しているため、いまだ遺体は保管中。室内にあった鍵は大家に返却して構わないとの事だった。私が警察署へ取りに行った。当社が家財道具を処分するからだ。


 1DKの部屋だった。流し台の横には小さめの冷蔵庫。ダイニングキッチン──と呼ぶには古すぎる設計だが──の殆どを占有するのは大きな2つのガラスケース。中にはロボットや美少女フィギュア。部屋の中で、そのケースの中だけが整理整頓されていた。


 ダイニングと居室の狭間に不自然に置かれた背の高い椅子。前にテーブルがあるわけでもない。何の脈絡もない配置。そもそも本当に狭間だ。絶対に椅子を置く場所ではない。下には丸まった黒いシミのある掛け布団。居室に入ってすぐ脇には──玄関を背にして右側だ──物置を閉じる和襖。大きく破れていて、それに沿って赤黒いシミが広がっていた。


 椅子の位置で首を吊っていたのだろうが、一体どうやって? どこでロープや紐を固定した? そもそも何を使って首を吊っていたのだ? それができそうなモノが何もない。──考えたが、やめた。警察が持ち帰ったのだろう。それに私には何の関係も無い。


 ゴミや布団で埋まった部屋の真ん中にはライター、灰皿、何かのパーツや通知、空き缶、ペットボトルで埋め尽くされたテーブル。単身世帯の筈なのに、布団が3セットはある。

 視線を上げると大きな丸い掛け時計。公民館にありそうな無機質な代物だ。時間は9時で停まっていた。いまは13時の少し前。いつから停まっていたのかはわからないが、男が生活していた頃からなのは間違い無いと思えた。


 居室をぐるりと見回す。沢山のモノ──ゴミとゴミ同然の代物ばかりだが──があるのに、極端に衣類が少ない。服といえばカーテンレールに掛けられた警備会社の制服くらいだ。

 もしかしたら押入れにまとめて詰め込まれているのかもしれないが、そこまで確認したいとは思わない。部屋全体の物量を簡単に撮影すれば事足りる。後は撤去業者へ発注するだけだなのだから。


 

 破いたゴミ袋を玄関に放り投げてドアを閉めた。



 今日だけで、11時から13時の間にA県のC市とD市で計3件、首吊り死体が発見された部屋に入った。頭脳は大人の少年探偵や、名探偵の孫だってこんな事してないだろうと自嘲する。


 次の予定は15時だったか。

 

 死んだ3人はそれぞれが5年以上居住し、ほぼ毎月延滞を繰り返していた。この言葉が許されるのなら、全て一応は『解決』した。

 もちろん私の仕事の対象の殆どは死者ではない。今日はたまたまだ。基本的には単なる延滞客が対象だ。

 中には入居して最初の支払いから滞る人間もいる。


 経験上20代が多い。単身世帯もあれば結婚している世帯もある。同棲の場合もある。無論、30代でも40代でも最初から延滞する人間はいるけれども。


 時間を1カ月程遡る。



 契約者のJは25歳の派遣会社の社員。コールセンターで働いていると以前、支払いの約束をした時には言っていた。月給は手取りで18万円だと。

3人世帯。妻と2歳の子供がいる。

 入居契約時に翌月分の家賃は払っているので、実質的に初回の支払いから延滞。その支払いの約束は履行されなかった。電話にも出ない。

 だから訪問した。家賃は9万円。2階建てで1階と2階に2部屋づつのアパート。その101号室。


 裾にかけて明るくなるブラウンに染髪した女性が、玄関ドアから顔を出した。肌は荒れて痩せているが、高校生といわれても納得するかもしれない。

 足元から飛び出した女児の襟首を彼女は掴み。やや乱暴に室内に引き摺り込んだ。

 

 幼児がいて、自宅だから当然なのだろうが、飾り気の無いスウェットを着た彼女は『アイツは出ていった』と私に告げた。

 出て行った先の住所まで教えてくれた。ただし、一体誰の部屋なのかはわからないという。

 そして──離婚する。自分には子供がいるから働けない。家賃は自分には払えない。引越し費用がJから振り込まれているのを待って娘と2人で転居すると続けた。

 

 彼女の足元で女児がドアを蹴飛ばした。彼女たちの背後から、キジトラ柄の猫がその様を見ていた。


「離婚されるのはお二人の事情ですが、退去される時にはその猫も連れていかれるんですよね?」


「アイツのだから、置いていきます。アイツは本当にクズだから、追い込んでやってくださいよ」


 私たちはヤクザじゃないんです。単なる会社員なんです。それにそんなの面倒くさいんです。どうして普通に支払って生活してくれないんですか? 入居したのは先々月の、しかも後半ですよね──言葉を飲み込む。


「Jさんは戻って来てないんですよね? 戻ってこなかったら?」


「アイツのだから。置いていきます」

 

 入居直後の最初の延滞。初対面だ。妻子だけが出て行っても解決はしない。だから、部屋は退去するならするで良いのだが、2人で話し合って連絡をくれないかと話す。


 3週間が経過。JはLINEにすら応答がないと、Jの妻からは継続的に連絡が入っていた。彼女自身も次第に電話には出なくなり、SMS(SNSではない。念のため)でしか連絡が取れなくなった。その間、私もJに架電やSMSを送信するが、返事は無い。教えてもらった住所に尋ねてはみたが、オートロックのマンションで、何もわからなかった。



 ここで一つ。これまで私はライフライン(水道・ガス・電気)のメーターを確認するだの、ドアにテープを貼っているだの書いているが、オートロックのマンションの場合はどうしているのだ? と思った方へ説明をしよう。


 普通、家賃保証会社は賃貸人(部屋の貸主)との契約で、その必要があれば部屋やオートロックの鍵を貸してもらうという条項を入れている(全社が絶対そうなのか? と問われると、わからないとしか言えないが)。

 

 マンションのオートロックには、鍵を使わずとも入れるように暗証番号が設定されている場合もある。インターホンのボタンを、例えば12345と押せば開くという風にだ(いくつか『定番の暗証番号』があるが、それを書くのはどう考えても問題がありそうなのでやめておく)。


 可能なら暗証番号を教えてもらう。その方が『鍵』という現物を借りるより楽だから。鍵は紛失の恐れがある。

 暗証番号自体が設定されていない場合は、やはり鍵を借りる。

 貸さないという場合も稀にある。ならば訪問時に時間を合わせて来てもらえば良い。来たくないという場合もある。そこまで非協力的なら協力義務違反だ。保証契約を終了させる。そういう条項は契約書に普通は入れる。とはいえ、家賃保証会社は大抵の場合、家主や不動産管理会社より立場が下。中々『協力してくれないなら保証は切ります』とは言えない……のだが、そこまで拒絶されるケースは殆ど無い。彼らにとってメリットがない。

 管理人が常駐している場合は、立場や理由を説明して入口を通過させてもらってもいい。


 因みに、『部屋の合鍵は無い』場合はある。最近はその傾向が大きいかもしれない。合鍵を使った不動産会社社員の犯罪が過去に発生しているからだろうか。  

 合鍵が無い場合は鍵屋に開けてもらうしかない。無いものは仕方ない。だが、オートロックのキーが無いという事は有り得ない。建物を管理できなくなる。


 結論。オートロックだろうと、部屋の前まで行くのに大して困りはしない。



 時間を戻す。



 J夫妻が借りた部屋はオートロックではない。家賃9万円はそのエリアでは高い部類に入るが、真新しいアパート。そんなものといえばそんなものだ。彼の収入には全く見合ってはいないが。

 一昨日、Jの妻と数度のメッセージやり取りをした。


 結局Jは家に帰ってこない。お金の送金もない。連絡も取れない。自分は既に実家に戻った。鍵は集合ポストに入れた。猫はJのものだから置いたままだ。窓を少し開けているので餓死する事は無い──待ってくれ! 窓が開けっ放しなのか? 雨が振ったらどうするのだ? 部屋に雨が入り込めば、床も傷むし、それに猫の糞尿で汚損される心配もある。

 

 自分は出て行ったので、後は好きにしてくれという内容のメッセージが届いた。

 確かに、これは私にとって、そう悪い話ではない。何せ、Jは『帰ってこない』のだ。そして妻子は出て行った。もう誰も住んでない部屋になった。ある程度の時間は『本当に誰も部屋の使用をしていないのか?』を確かめる必要はあるが、なければ家財道具を撤去して終了できる。


 しかし不動産管理会社にとってはそうではない。前述した通り、猫が部屋を汚損する可能性がある。だから、その会社の担当者と時間を合わせて部屋を見に行く事にしたのだ。これが本日のプラス1件。4件目。


 道に面したベランダの前には小さな庭。ガラス戸は少しだけ開いていた。『普通、せめて裏手の戸を開けないか?』と嘆息する。尤も、裏手に戸があるのかは知らないが。

 約束の時間より5分程遅れて不動産会社の担当者が到着する。

 合鍵でドアが開く事を確認した彼は、警察を呼んで安否確認の名目にしたいと言った。異存はない。

 集合ポストを開ける。チラシやどこかの弁護士事務所、携帯電話会社、金融機関からの通知の束の下に、鍵が1本あった。


 20分程してバイクでやってきた2人の警官は、ドアを叩いてJを呼びかける。それから室内へと入っていった。

 ガラス戸から、キジトラの猫が飛び出してきた。一瞬立ち止まり、私と目が合う。丸みを帯びたシルエットの猫。すぐに建物の裏手へと走って消えた。首輪は見えなかった。


 5分程して、警官に室内に呼ばれた。

 地域差なのかその警官の考え方なのか何なのかわからないのだが、ある地域では安否確認なのだから警官しか室内に入るな、といわれる。一方で、安否確認で呼んだのだから室内を見てくださいと言われる事もある。

 今回は後者で、我々は室内に呼ばれた。特に事件性は無いと警官が口にした。


 2LDKの部屋だとは聞いていた。猫用のトイレが廊下にあった。居室の1つには物が無かった。照明すら無い。風呂場、トイレを見て、キッチンへと進む。

 洗濯機はあるが、冷蔵庫がなかった。


 各部屋の床には、水たまりは無い。特段に汚損している箇所は無いように見えた。

 子供用の小さな玩具がいくつもリビングに転がっていた。シングルサイズの布団が敷かれたままのもう1つの居室。

 全体に、ゴミはあまり無い。小物の類やタオルが乱雑に散らばっている。それでも、物自体が少ない。

 確かに、居住して2カ月程度である。物を増やす時間も無かったのかもしれない。しかし、幼児と住んでいたのである。出て行ったとはいえ、荷物を全て持ち出しているのではないのだから、もう少し生活感を残していても良いのではないかと思った。

 一体、どんな生活をしていたのだ。


 いや、そもそも彼らがいつ結婚したのかも私は当然知らない。Jの子供なのかもわからない。連れ子で、2人の生活は本当に2カ月程度なのかもしれない。だとすればこの物量も理解できる。もっとも、彼らの血縁関係など、私には関係無いけれども。


「なんか、何も無いですね」

 不動産会社の担当者へ話しかける。


「そうですね。猫が入ってこないようにドアを閉めておきます」

 彼の今日一番の仕事だ。そのために来たようなものなのだ。私とは目的が違う。

 

 ご足労いただいたお礼を警官に伝え、室外へ出る。彼らを見送った後に、集合ポストにあった鍵をドアに合わせる。確かに部屋の鍵だ。

 再度、室内に入る。


「まぁ、少し様子は見ますが、状況はお話した通りです。たぶん、Jさん自身が戻ってくる事はなさそうかと」

 私はスマホのディスプレイを見ながら、カメラのアイコンを押した。

 さすがに、警官の前では室内の写真は撮れない。大抵の場合、制止される。


「そうですね」


「10日間くらいは様子を見ます。それでJさんと連絡も取れず、誰も部屋を使ってなければ、荷物撤去して終了させますよ。オーナーさんにはそう説明して下さい」

 なるべく少ない数で部屋全体をカメラに収めるように移動する。スマホのボタンを押して、また移動。


「わかりました。だけど、最初っから払ってないわけでしょ?」──彼は少し憤った口調で続けた。「なんか責任感なさそうなヤツでしたけど。こんなの、良いんですかね?」


 知らねえよ。アンタの会社が入居させたんだろうが。私はJに会った事もねえよ。1度だけ電話で話しただけだ。それも延滞が発生した後に。あの時点で全てが手遅れだよ。


 2週間後、遅い昼食を食べた私は、Jの部屋の前に立っていた。ドアの金具に貼り付けたテープは切れていない。誰の出入りも無い。


 道路に出て、視線を右に向ける。向かい側の家の庭で草むしりをしていた女性が立ち上がった気配を感じた。

 私を直視したまま、歩いてくる。軍手を外しながら初老の女性が口を開いた。


「ここの不動産の人?」


 私は薄く笑って、小さく首を振る。

「不動産会社ではないんですが、その関係です。今日ここの部屋を片付けるんですよ」

 家賃保証会社ですと話しても、話が長くなるだけで意味がない。


「そこの部屋の人、出て行っているのよね?」

 女性は、Jの部屋を視線で示した。


「ええ、そうですね」

 小さく頷く。


「毎日ね、猫ちゃんが、部屋の前で鳴いているのよ。どうにかならない?」


 私は一瞬、視線を女性から外し、そして戻した。左手を口に当て、考える素振りを見せる。


「猫なんているんですか? 私は単に荷物の撤去のために来ているだけですし……」


「なんか、置いていかれたんじゃないかと思って」


「どうなんでしょう。私は、住んでいた人を知っているわけではないんですよ。不動産屋にはソレ伝えておきますね」

 顔を右に向ける。撤去業者のトラックが見えた。

「すいません、ちょっと、トラックが着いたみたいなんで。荷物の搬出があるので、騒がしかったら申し訳ありません。そんなに時間はかかりませんから」


 女性に深く頭を下げる。話はここで終わりと口調で示して身を翻す。

 私の前で止まったトラックから、いつもの業者の、見慣れた2人が現れた。鍵は既に開いていると告げる。


「それじゃ、よろしくお願いします」

 頭を軽く下げる。

 

 荷物の量からしても2人で問題ない。通常の引っ越し作業のような丁寧さも必要無いのだ。30分もかからず荷物の搬出を完了させるだろう。

 彼らが室内に入っていく。視線をずらすと、隣家との境にキジトラ柄の猫の後ろ姿が見えた。


 それから1カ月程経った、太陽が真上にある頃。


 日本にスラム街は無い。しかし例えば東京都の**区**町。A県のB市**町。C県D市**町。延滞が発生する地域は集中するように見える。もちろん単なる私個人の経験だ。狭い主観だ。家賃の延滞なんてランダムに発生しても良さそうだし、実際色んな町に契約者は住んでいる。それでも、そう思う。

『家賃の延滞がよく発生する地域』の統計があるわけでもない、あっても私には大した意味は無い。何せ、**町だから契約しません、というわけにもいかない。そもそも私は『審査』にタッチしていない。


 延滞客の部屋のドアポストには色んな通知が一杯。折り畳んでも新たな通知が入らない程だ。

 半分に折って、ドアと鉄製の枠の間に挟み込む。


 その日、社用車を停めたのは、もう何十回と利用しているコインパーキング。前回停めた時とは違う部屋へ訪問した。何人もの延滞が発生してきたし、これからも発生するだろう*県*市**町の駐車場。Jが借りていた部屋からは直線距離で3キロも離れていない。

 そんな距離でも、町の様子が多少は変わる。駅が離れているためか、賃料の安いマンションが多い。同時に、古くから住んでいる一戸建が混在する場所。

 古く大きな一戸建ての狭間の小さな駐車場。精算機に向かって私は、駐車位置番号と清算ボタンを押す。千円札が吸い込まれた。


 お釣りがコイン返却口に落ちたと同時に、領収証のボタンを押す。お釣りと領収証を財布に入れて、車へと向かう。

 右側に、猫が座っていた。キジトラの猫。


 立ち止まった私と交代するように、駆け出して狭い道路を横切った。柵を潜って、古い民家の庭へ消える。

 残像のように目と耳が憶えたのは、赤い首輪と微かな鈴の音。

 

 Jの猫がどうなったのか私は知らない。知りたいとも思わない。

 キジトラの猫なんて何処にでもいる。当たり前だが、いまのキジトラが、Jの猫と同一のわけがない。万に一つもないだろう。

 しかし十万、百万に一つは、あるかもしれない。


 家賃を延滞するのは人間だけだ。まさか猫が、犬が、ハムスターが、家賃を延滞しないだろう。絶対に無いだろう。


 どう考えても人間は他の動物にとって有害だ。これ以上、家賃の延滞なんて事で猫や他の動物に、迷惑をかけちゃいけない。


 私は、車のドアを開けて、キーを回した。次は**町。次の延滞客が住んでいる。

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