第80話 第70話の続き。救われる順番。(後編)

 2021年5月12日 A県B市。


 結局、『知り合い』とやらには相談したが、12日という転居日を早める事はできないとCは連絡をしてきた。家財道具も殆ど持っていけない。

 全く構わない。当社で全て処分する。費用は多少かかるし、債務はいずれ支払わねばならないが、まずは退去を優先してもらうと回答した。

 そうしないと私にとっては『解決』しない。残った債務は、退去後の延滞客を対応する部署が交渉すればいい。

 部屋を明渡し鍵も渡してもらう必要があるので本日12時半に部屋に行くと話を決めた。



 渋滞に巻き込まれたが、何とか間に合ったとホっとする。社用車を停めたコインパーキングから足早に歩いたのと、マスクをしているため暑い。目の横に汗が流れた。

 Cの住むアパートは細い道で囲まれていて、近くに路上駐車もできない。

 古びた外壁を無理矢理白く塗ったアパートの階段を登る。201号室のインターホンを押す。

 10数秒待って再度押すが反応がない。


 足音が聞こえたので振り返る。黒い髪が視界の端に映った。視線を上げないまま階段を登ってきたCが、私の前で足を止める。私は出来るだけ丁寧な挨拶を口にした。

 俯いたまま、彼女は小さく頭を下げた。「すいません」と、少しの風でも掻き消えそうな声が聞こえた。

 私は背が高くない。それでもCは小柄なので、見下ろすような形になる。黒地に小さな白い水玉のワンピースと、肩に下げた小さな黒いバッグ。

 以前よりも痩せたようだ。黒い髪は少し伸びている。油で光っているように見える髪。


「もう部屋の中には必要なものは何も無いんですよね?」

 Cが視線を上げた。両目の横がキラキラと光っているのは、そういうメイクなのだろう。

 

「もう一回見せてもらっても良いですか?」

 注意しないと意味を読み取れない程の小さな声が、マスクの向こうから聞こえた。彼女の声には抑揚が全く無い。

 どうぞ、と答えて私は身体をずらす。Cが私の前を横切る。視線を下げると彼女の履いた黒いローファーが見えた。左靴の後部には何本も傷が入って、カカトはひどく磨り減っていた。


 Cが玄関ドアを開けた。彼女の頭越しに室内に視線を向ける。少し驚く。

「……すいません」──Cの小さな声が聞こえた。


 5ヶ月程前にもここでCと会った事がある。室内に入ったわけではないが、少し散らかった狭い玄関と廊下が多少は見えた。今は一見してゴミだらけ。

 床を埋めて見えなくなる程ではないが、ペットボトル、空き缶、ゴミの詰まったコンビニのビニール袋や紙袋、歯磨き粉やタオル、スマホのケーブルが転がっている。

 居室はもっとひどいと、玄関ドアの前からでもわかる。その有様に『すいません』という言葉が出たのだろう。


 開いたドアの前から部屋の奥を見つめたCが、私に身体を向けた。また俯いて「……靴のままあがってもいいですか?」

 微かな声と鼻をすする音が数度、聞こえた。水滴が1つ、通路に落ちた。


「ええ、どうぞ」

 穏やかな声を作る。前髪から覗いたCの瞳には涙の塊が出来ていて、また零れ落ちそうだった。

 

 5分程度、部屋の中で何かを拾っていたCが、紙袋を一つ持ってドアから出てきた。鼻をすする音の狭間に「ありがとうございました」という、相変わらず抑揚の無い声。


「今日はこれから、確か、あの、デリヘルのお仕事でしたっけ?」


 カマをかけた。

 飲食店も風俗も続けていると言っていたが、今日は『夕方からは仕事』とだけしか聞いていない。そしてCは私に、風俗店の店名しか伝えていない。

 Cが微かに首を振った。彼女は発声も動作も全て小さい。

 まだCが部屋に住み続ける事を諦めていなかった頃、店名だけを聞いた。すぐにサーチして、デリヘルだとわかった。もっとも、体調を崩してあまり店には行けていないと言っていたが。明らかに彼女は風俗の仕事に向いていない。


 少し疑問だったのだ。こんなコミュニケーション能力で風俗店に在籍し続けられるものなのか? 休みがちでも一応は働けているのなら、なぜこんなにカネがないのだ? コロナ禍で客は激減しているとは思うが、正真正銘の20歳なのだ。太ってもいない。


「そこはもう辞めてしまって」──じゃあ風俗では働いていない? すると矛盾する。言葉の一つ一つがCは短い。だから単純な質問でも数度のやりとりが必要となる。結果『デリヘルで知り合った人に紹介された所』で働いていると彼女は続けた。会話のパーツから『援デリ業者』だと察する。たぶん間違ってない。


 出会い系サイト等で業者が客とマッチングさせる。待ち合わせ場所に行けば、あとは近所のホテルでセックスするだけ。違法風俗。

 少し、納得できた。何というか、セックスさせずに客を満足させたり、ソープで働く能力がCにあるとは思えなかったからだ。援デリなら、セックスさえさせるなら大して接客スキルは求められない筈だ。 

 元より違法。更に悪質な業者ならば、一度きりのヒットアンドアウェイで男からカネを毟り取れば良いと考えていると聞く。『業者です』と看板を掲げているわけでもないのだから、評判を気にする理由も無い。まぁ、Cはあまり働けてはいないらしいが。


 転居先は『最近出来た知り合い』の部屋? 喉から何か言葉が出かかるが、飲みこむ。本当に無意味だ。何せ、彼女を部屋から退去させているのは、他ならぬ私なのだ。


「もう、部屋の中の荷物は全て処分して大丈夫ですよね?」


 小さく頷くだけ。涙こそ流れていないが、鼻をすする音が聞こえる。

 彼女に紙を一枚差し出し、サインを促す。部屋の荷物の処分に同意する書面。

 閉じた玄関ドアを使ってCが名前を書き始めた。


「引越し先も書いていただけますか」

 Cは素直に、スマホを見ながらペンを動かす。

 延滞して退去する場合『転居先の住所を憶えていない』と言い出す連中は多い。

 相手にもよるが、私はあまり追求しない。嘘の住所を申告されてもその場では見抜きようがない。『あとで住所を連絡してきてください』と答えるだけ。

 実際にあとで自分から連絡してくる人間は、私の記憶にある限りはゼロ。それで構わない。

 そこから先は、残った債務を猟犬よろしく追跡するセクションの仕事。私は取り換え可能なパーツ、歯車、会社員。


 Cから視線を外し、階下を眺める。道路とアパートの狭間に赤い自動販売機が見えた。

 

 書き終えた書面と鍵を受け取る。Cは棒立ちのままだ。

 ああ、そうか──「もう、終わりですから。お帰りいただいて結構ですよ」


 彼女は微かに頷いて、歩き出した。鼻をすする音は止まっていない。自動販売機で飲み物を買って渡そうかと、益体も無い感情が一瞬過る。本当につまらない思い付きだ。軽く自己嫌悪する。


 私は仕事でここにいる。その理由のそもそもは家賃の延滞。私が原因を作ったわけではない。それでも誰かが現時点の私とCを見れば、部屋を『追い出す側』と『追い出される側』だと判断するだろう。その通りとも言える。

 私が人間味を出しても、たぶん彼女にとっては何の慰めにもならない。

 同じ人間なのに立ち位置が違う。余計に惨めな思いになるかもしれない。


 無感情な機械やどうしようもない自然現象のように振る舞うべきだった。それが、泣くほどの状況のCに対する、せめてもの礼儀だろう。



 時間を先月下旬、4月**日に戻す。


 16時を少し回ったころ、机の上のスマホが鳴った。表示されているのはLの名前。

 ディスプレイの上で指をスライドさせる。聞こえてきたのはLの声だが、すぐに彼は議員に電話を代わった。


「先ほど、振り込みました」

 やけに大きな声で彼は言った。

 ありがとうございます、と答えた後に、私は苦笑した。

「本当にこんなに早く支給されるんですね」


「急いでくれただけですよ」

 どうやったら急いでくれるの? そんな事できるの?


 住居確保給付金の申請も済んでいる。だからこれから数カ月は家賃の心配は要らないと彼は続けた。


 再びLと電話を代わる。

「今回はご迷惑をおかけしました」

 今後は延滞しないようにする、日雇いではない仕事を見つける、仕事が決まれば連絡する等々、いざまた延滞が始まれば綺麗サッパリ忘れているだろう言葉が聞こえた。

 Lの家賃は住居確保給付金の上限以下。共益費は給付金の対象ではないが、0円。確かに、給付が続く限りは大丈夫だろう。給付が終わった後は? いま考えても仕方ない。

 何にせよ、一旦は『解決』だ。



 時間を再度、進める。


 階段を降りたCの姿が見えなくなった。玄関ドアの左に視線を向ける。高さ1メートル程の鉄製の小さなドアが壁に取り付けられている。他の部屋の玄関ドアの横も同様だ。

 中に収められているのは水道、ガス、電気のメーター。ドアの上辺と壁には30センチ程の隙間がある。コンビニのビニール傘が5本、掛けられていた。位置から考えて全てCのものだ。

 Cの部屋の玄関ドアを開けて、5本全てを中に放り投げた。小さな玄関に入る。カビと動物のフンの臭いを感じた。 

 

 家財道具の撤去・処分の手配のために、写真撮影の必要がある。ゴミを避けつつスマホで撮影しながら居室へ向かう。

 シンクには洗っていない食器と空き缶が放り込まれている。コンロの上には何本もの調味料の容器とペットボトルが並ぶ。電子レンジの上には膨らんだビニール袋。

 床にもペットボトルや空き缶や空箱やビニール袋が転がっている。


 居室に入る。右側にはオレンジのシーツで覆われた大きなマットレス。丸まった毛布が何かの空箱を包んでいる。傍らにはピンク色のカバーに包まれた大きな枕。小物が散乱している。

 マットレスの手前には鳥カゴが床に置かれていた。近づくとフンの臭いが増した。周囲には鳥のエサか。茶色のペレットが散乱している。鳥はいない。『処分』せずに済むのでホッとする。

(もっとも、本当に鳥が残されていたら、こっそり外に逃がすとは思うが。それは善意?のルール違反)


 部屋の左奥には小さな液晶テレビ。パンの袋、膨らんだコンビニのビニール袋、バラまかれた電池、丸めて放り投げられた衣服に囲まれて、茶色の一人掛けソファが置かれている。

 化粧品の空箱や洋服屋の紙袋がソファの上に積み上げられていた。ハイブランドではない。私は全く洋服に詳しくないが、高校生くらいが買うブランドのように思えた。


 振り返ると開いたままのクローゼット。その床にはキャリーバッグや靴が数足、転がっていた。それらの上をジャンパーや暗めの色の衣類が覆っている。

 一着だけ、ハンガーにかかっている。何となく気になって触れてみる。女性用のリクルートスーツ。持っていけばいいのに──いや、必要ないと判断したのか。

 

 全て処分して『解決』。私が行う事はそれだけだ。


 リクルートスーツから手を放し、小さくため息をつく。

 

 Lという男が支援を受けて延滞を支払い、部屋の居住を続ける事を思い出した。


 彼らには何の接点もない。全く関係のない2人だ。本当に、あらゆる意味で2人に関連は無い。

 それぞれの選択と結果。それぞれの周囲の状況。


 これは、私が男だから思う感想なのかもしれない。20歳。私の娘であってもおかしくない年齢。


 私はCに対してアドバイス程度はしたかもしれないが、サポートはしていない。やろうと思えば住居確保給付金や、それこそ生活保護の申請に付き添う事も出来た。

 これまで役所へ延滞客に同行した事も何度もある。

 Cは連絡が取りづらいので、その発想にはならなかった。面倒だからだ。仕事は他にも沢山ある。

 だから私が言える事ではないのだろう。だけど、それでも。


 救われる順番が、違うんじゃないか?

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