第75話 ソイツは息子じゃない。
201*年*月*日 10:30 東京都H市。
入居者、O。35歳、男性。単身世帯。3年前に入居。入居時の仕事先は、登録制の派遣会社の派遣社員。
2階建アパートの101号室。昭和の頃に建てられたのが一見してわかるがリフォームはされている。
薄青に塗られた壁。1階には5室。通路には自転車が乱雑に置かれており、タバコの吸い殻や空き缶が転がっている。
都心からは相当に離れているが、それでも東京。45000円の家賃を支払ってもこの程度にしか住めない。
インターホンを鳴らす。反応は無い。続けて執行官はドアを叩き、Oに呼びかける。やはり反応は無い。
私はドアの金具へ視線を移す。テープは捻じれて、切れている。少なくともこの5日以内には、ドアの開閉はされている。
そして相変わらず、電気だけが生きている。水道も、ガスも停まっているのに。
あくまで私の経験だが、延滞した物件のライフラインで最初に停まるのはガスだ。
ガスだけが停まった部屋をよく見かける。
電気も無い部屋では夜暮らしにくい。スマホの充電にも電気は必要だ。だから電気はガスより優先して支払っているのだろうか。
もっとも、ライフラインの何が一番停まっているかの統計など私は知らない。単なる私の経験と感想だ。違うと指摘されても反論はできないけれども。
この物件は『電気』だけが生きている。水道まで停まっているのに、だ。
ドアを開ける。部屋に入ろうとした執行官や執行補助者の足が止まった。立会人が呟いた──「あ、居た」
彼らの肩越しに室内へと視線を向ける。廊下にはゴミ袋が積まれていて、その向こうの居室、明かりの下に男が立っていた。
執行官が話しかけても黙っているだけで、玄関にも来ない。執行官たちは部屋の中へと入っていった。私はアパートの壁に背を預けて、Oの情報を反芻する。
本日は明渡催告の日。『〇月〇日に強制執行(断行という)します』という告知を貼るセレモニーだ。
入居者がいるのならば部屋の中で『これから何がどうなって』と説明をしているのだろうが、実際どんな風に話をしているのか私は知らない。
催告時に家賃保証会社や不動産会社の人間が部屋に入る事は『普通』できない。
入居者が不在ならば、入室を許可する執行官も稀にいる。しかし誰かがいるのならば、そのケースは無いと思う。
だから入居者と執行官の室内での会話を私は聞いた事が殆どない。
部屋から出てきた執行補助者から『転居先を見つけるようには伝えたけど難しいかもね』などの感想は聞くので、一応『さっさと部屋を明渡した方がいいよ』という話もしているのだろう。
もっとも、催告直後に入居者が『では今この瞬間から部屋を明渡します。さようなら』なんて展開へ進んだケースを、私は知らないが。
稀に、興奮した入居者が部屋の外にでてきて『退去しない、裁判なんか知らない』とか、怒鳴り散らす事がある。
その場合は執行官の話は聞こえる。が、それはもう単に『何で今日部屋に来たのか。これからどうなるのか』の淡々とした説明だ。
執行官たちも忙しいのである。何件も明渡催告の予定が詰まっている場合も多い。1件に大して時間はかけられない。その必要性も彼らには無い。休憩もしたいだろう。
部屋から出てきた執行官から強制執行日を聞く。白髪の執行官の姿がアパートの敷地から消えた後に、中年の執行補助者へ室内の状況とOの様子を尋ねた。何度も会った事のある執行補助者。話はし易いのだが、彼も執行官に同行して次の物件に行かねばならないので時間がない。
「転居するのは難しそうだね。いま行けば話はできると思うよ。部屋はゴミ、だね。あと、気持ち悪い」
気持ち悪い? 何が? ゴミ屋敷など見慣れている筈の彼がそう言うのは、どういう状況だ? 「見ればわかるよ」と笑って、彼の姿も消えた。
スマホを取り出して、電話を掛ける。相手はOの母親。
「居ましたよ。また電話します」
1コールで出た彼女へそれだけを伝える。Oのドアをノックした。
裁判所からやってきた執行官が、何か用事があってまた訪れたと思ったのだろうか。いままで何度も来たのに開かなかったドアがあっさりと開いた。
左の靴箱の上には大量の通知。そして同じく玄関の床にも、ゴミ袋の狭間に大量の通知書、請求書、チラシ。いままで私が投函した通知もある。それを破れた靴下で踏んでOが立っていた。
Oの状況。
3年前の入居直後より家賃延滞。そして延滞解消。毎月延滞、解消、すぐにまた延滞発生というサイクルだ。
仕事先は前述したように登録制派遣会社の派遣社員。だから勤務先へ電話しても連絡を取る事はできない。そもそも登録が継続されているのか、わからない。複数の派遣会社に登録しているだろうし。
電話を掛けても出ない。訪問しても反応は無い。ベランダのシャッターは常に閉じている。雑草だらけで袋詰めの空き缶で埋まったベランダ。洗濯物が干してある事を見た記憶は無い。室外には砂埃や木の枝の乗った洗濯機が置いてある。
部屋に出入りはある。ただし2~3日ドアの開閉がない場合がある。
1年半前からは更に支払いが遅れるようになった。常に1~2か月分の延滞がある状態。
連帯保証人はいない。緊急連絡先は60代後半の母親。
数度、母親から当社が支払いを受けて延滞が解消した。何度目かの支払いを受けようとする際に、パートも辞めるからもう代わりに支払う事もできなくなると思う──と言ったので、支払いをやめてもらった。
永遠に影の援助を続けられるのならそれも良いのかもしれないが、そうでないなら何の解決にもならない。問題解決の先送りでしかない。誰にとっても、だ。
山陰地方に住む母親はOとは全く連絡が取れないと、それこそ最初から言っている。住所も知らないと。
Oの住所を知りたがったので、以前の担当者が教えていた。
それから彼女は何度もOに手紙を出した。返事は無い。電話にも出ない。最後に会ったのは7~8年前という話だ。その間、父親は他界している。
Oから連絡が入っていないか確認するために、私は定期的に電話をしていた。全くの無駄だったが。
母親は、部屋に行こうと考えているといつも口にしていた。一度は実行してもいる。結局、手紙を置いて、帰っただけ。
親戚も知人も東京にはいない。人生で上京したのはその一度きり。何の成果も無かった。最近は体調も悪い。だから行きたいが、もう行けないと。
いまや日本国内ならどこからでも1日で東京には行ける。ただ、60代後半で東京へ人生で1度しか、それも何の収穫も無く無駄足で終わった経験しかなければ、再度の上京は中々ハードルが高いだろう。
第一、再訪したとしても、Oに会える保証は全く無い。
実家に戻ってくればいい。話をするたびに彼女は口にする。父親ももういないし、実家なら家賃もかからない。派遣の仕事で良いのなら地元にもあるだろうと。全くその通りだ。が、それを伝える術がない。私にもない。もしも私がOに会えたら、連絡するように伝えてほしいと何度も頼まれた。
母親が支払いを止めた所為もあり、延滞は3か月を越えた。部屋は使用を続けている。
明渡訴訟は提起された。それから水道も停まった。判決は確定した。ベランダのシャッターは──これは延滞客の部屋にありがちだが──年がら年中閉じられたままだ。部屋の使用は続いている。
強制執行の申立てへと進む。電気だけが稼働している。そして明渡催告。今日、だ。
裁判の進捗を私はOの母親へ伝えていた。明渡催告の日には部屋のドアは開ける。
彼女は、もしもその時Oがいたのなら、話をさせてほしいと頼んできた。
明渡催告は時間が決められている。*月*日**時**分開始。実際には関係者が集まれば開始するのが常で、大抵は10~15分前に開始する。渋滞や、前の案件が長引いたために遅れる場合も当然にある。
多少はアバウトだが、それでもほぼ開始時刻近くで行われる。私はその時間には、電話に出る事ができるようOの母親に伝えていた。
何度も、義務も無いのに支払っているのだ。それくらいの頼み事は聞いても良い。それに、どうせOには転居するカネなどないだろう。本当に実家に戻るのなら、私にとって悪い話ではない。
そして、Oはいた。
目元まで隠れた髪は油で光り、フケが所々に浮いている。整えられていない無精ひげ。灰色のトレーナーは伸びきって、袖口はボロボロ。脇が破れている。ベージュのチノパンのあちこちに、スープがかかったとか、食べ物をこぼしたとか、そういう類の汚れが目立つ。
名刺を渡して挨拶。
なぜこれまで連絡もしてこなかったのか?
「(派遣の)仕事先では電話できなくて。夜も遅くなったり、忙しくて……。今は(電話を)受ける事はできるんですけど、掛ける事ができません」
何年間そんな状態が続いてるんだよ。大体どうやって派遣の仕事をしているんだ。悟らせないように嘆息する。いつも聞く言い訳だ。
どうして延滞が続くようになったのか?
「……仕事が無くて、腰も悪くして」
先ほどの話と矛盾しないか? それに、支払えなくなった理由はたぶん、それだけではない。足元に山積する請求書を見ればわかる。いくら借金があるんだ?
帰宅しない日も多かったようだが、どこか他に泊まる所をもっているのか?
「仕事場が遠いとネカフェで泊まったり……」
派遣の一日の賃金からネカフェでの『宿泊代』と食費を差し引けば一体いくら手元に残るのか。
目をOから横にずらすとコンロが見えた。賃料の低い1Kの部屋にありがちな一口コンロ。小さな流し台とコンロの淵には小銭が沢山バラまかれている。カネがないから困っているのに、往々にして延滞客はカネを無造作に扱う。
率直に言えば、もうあれこれ質問しても意味がない状況ではあった。話の導入として『これまでどうされていたんですか。なんでこんな事態になってしまったんですか?』という興味を見せるポーズでしかない。
本題に入る。
強制執行日も決まった。行く所はあるか? 数舜言葉を濁した後に「無いです。これから探します」と彼は言った。
カネもないのに?
「お母さん、何度もOさんに電話したそうですよ」──何故、母親からの連絡を無視し続けたのか? 手紙も送ったそうだ。返事を書いても良かったのでは? と続ける。
「気付いてなかったです」
絶対に、嘘だ。しかし、それ以上を尋ねようとも思わない。疎遠となるには、何かしらの理由があるのだろう。
家族が疎遠になった原因の追究など、私の仕事ではない。ジャーナリストとかカウンセラーとか、そういう人の役割だ。
「Oさんのお母さんに頼まれてるんですよ。電話は、着信は出来るんですよね?」
本当は発信もできるのではないか? と思っているが、どうでもいい。料金未納の場合はそういう場合もあるらしい。あるらしい、としか言えないが。
「かかってくれば出れます」
「ちょっと待っててもらっていいですか?」
その返事を聞いて一旦部屋の外にでる。スマホを取り出しコールする。もちろん相手は母親だ。
強制執行日は決まった。Oは転居せねばならないが、行き先は決まっておらず、カネがあるとも思えない事。話しながら、道端に停めた車のドアを開ける。忘れ物をしたからだ。
2分後にOへ電話してくれと伝えて電話を切る。再びOの部屋のドアを開ける──「お母さんが話したいそうです。電話がかかってきますから出てください」
Oは振り返って居室に戻る。その背を見ながら「私も失礼しますよ」と告げる。
ゴミで埋まった廊下を見る。車からもってきた足首まで覆うスリッパを取り出す。ゴミが多いが土足では入りづらい場合に使う。
大してゴミもない部屋の場合は、普通のスリッパを使う。他人の目を気にしなくて済む場合のゴミ屋敷では、革靴をビニールで覆う。
今回は、革靴をビニールで覆って入ればOの反感を買うおそれがある。
だからこのスリッパの出番。それでも、歩き方を間違えればゴミが中に入ってくるだろうが。
このスリッパの選択は、あくまで私の場合である。他人は知らない。
かつて同僚に、多少散らかっている部屋であれば平気で土足で入る関東軍憲兵のような男がいた。客が部屋にいてもだ。
客は唖然としていたそうだ。そりゃそうだろう。
廊下には食べ残しのある容器が詰められたスーパーの袋、殻の残った卵パック。チラシに段ボール。靴が片方。何かの箱。ゴミに埋まった掃除機。3点ユニットバスを覗くと流されていない糞尿。
部屋に入ると右端に布団。その周りにはやはり沢山のゴミ袋──窓際に、2リットルのペットボトルが並べられている。中身は全て液体。白濁したもの、黄色いもの。1本2本ではない。何十とだ……なんだこれ?
水が停まった部屋。トイレも当然使えない。執行補助者の『気持ち悪い』というセリフが結びつく。ああ、これは、尿だ。
ここは1階である。中身を捨てようと思えばいつでもできた筈だ。シンクに流したっていいだろう。
ベランダのシャッターを閉じたままにするのは『いつでも借金取りが見張っている』という妄想からかもしれない。が、尿を処理せずペットボトルで保管する理由が全く理解できない。
Oの声はあまり聞こえない。母親の言葉に頷いている事が多い。部屋の左端を見るとパソコンデスクとデスクトップPC。その横には乱雑に積み上げられたゲーム。エロゲーというヤツなのは一見してわかる。電気だけを停めなかった理由はこれもあるなと察する。
「母が話したいと言っています」
押入れに詰まった袋詰めのゴミや衣類を眺めていた私にOが声をかけた。電話を差し出してくる。
「私からすぐにかけますと伝えてください」
Oの使った電話で話をしたくない。汚いから──『ありがとうございます。本当にご迷惑をおかけして』から母親は話を続けた。
Oは実家に戻る。どうしても持っていきたい荷物があるから、2、3日だけ待ってほしいと言っている。荷物を運ぶのに必要なカネはOの口座へ今日送る。
電話を切って、Oに視線を向ける。いま母親から言われた事を確認する。その通りだと。
「持っていきたい荷物ってどれなんですか?」
笑顔というには醜い表情で、エロゲーの山を顎でしゃくった。
私はエロゲーに対して全く悪感情をもっていない。日本史の教科書に掲載されてもおかしくない(いや、おかしいか)名作もある。しかしそれでも、親にカネを出してもらって保全するようなものではないと確信している。
3日後、Oの部屋の真ん中に立つ。身体が多少傾いているのは足元のゴミの所為だ。部屋からはパソコンとエロゲーが消えていた。Oから鍵を受け取る。
何が入っているのかわからない汚いバッグを二つ手にもって、彼は部屋から消えた。礼や謝罪の一つも無い。もっとも、そんなものを期待していないが。
残ったのは、家具もあるが、すべてゴミだ。当社で処分した。強制執行は取り下げた。それで『解決』。
1週間後。朝から外出し、会社に戻る。私の机の上に段ボールが2つ置いてあった。
小さなものは缶ビールの詰め合わせと一見して理解できる。差出人はどちらもOの母親。
固くガムテープで封をされたもう一つの段ボールの中身は……野菜?
畑で取れたものをそのまま、というわけではなく、ちゃんと袋詰めされたもの。地域特産、みたいなもののようだ。玉ねぎ、しいたけ、じゃがいも。そして一番下にはお米。
中に入った手紙には丁寧なお礼と共に『ご家族でお召し上がりください』というメッセージ。苦笑する。私は独りだ。時々料理はするが、それでもこんな量、使えるものではない。
近くを通る同僚に声をかける。私には必要無い。別部署の年配の女性が多くもらってくれた。野菜にとってもそれが有意義だろう。
ビールだけ、2本貰う事にした。後はやはり同僚に渡す。
自宅のドアを開ける。靴箱に置いた塩を取り出す。今日は腐乱死体が発見された『死体部屋』に入った。肩に塩を振りかける。
意味があるのかわからないが、以前から何となく、そうしている。
シャワーを浴びる。
死体部屋や腐乱死体の臭いを何と表現すればいいのか時折考える。肉が腐った臭い。本当にそうか? 臭いの主たる原因は、死体を養分として育ったハエのフンだと、何かで読んだ記憶もある。
そもそも私は肉が腐った臭いというのをよく知らない。ただ死体部屋や腐乱死体の臭いは知っている。あんな臭いが、『肉が腐っただけ』で出せるものなのか? 冷凍庫に入った鶏肉を腐らせればあんな臭いがするのだろうか?
よくわからない。
『死体部屋』の臭いには粘性があると思う。鼻の穴にこびり付く。洗顔ソープで鼻の中を洗う。
部屋着になってソファに腰掛ける。銀色のタンブラーへ氷を入れて、Oの母親から貰ったビールを注ぐ。
人前では控えているが、ずいぶん前に東南アジア(タイだったか?)でビールに氷を入れる呑み方を憶えてからは気に入っている。大した味覚をもっていないので、ビールの銘柄は気にしない。
立ち上がってカーテンを開ける。夜。ビールを喉に流す。
Oの母親からのお礼の品。お礼の手紙。Oの部屋のあちこちに積もった請求書、通知書。並んだペットボトル。
母親はOを喜んで迎え入れた。エロゲーという荷物を抱えてはいるが、息子が帰ってきた。
きっと住民票も移すだろう。普通に生活するならその手続きは必要だ。同時に、あの請求書の行き先は全て実家へと向けられる。
当社も含めた各社からOへの『督促』は実家へと向かう。
Oの母親は『ありがとうございます』と何度も私に言っていた。──今だけだよ。胸中で呟く。
貴方が迎え入れたのは、息子のカタチをした厄災だよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます