第73話 かつて存在した家族の話(前編)

 201*年6月26日 B県C市


 本来は白かったアパートの壁はくすんでいた。それに見合って賃料は安い。

 2階建てのアパート。1階2階に2部屋づつ。


 玄関の床──三和土と呼べるのなら──に散らばった大量のチラシ、通知、請求書。ドアを開いた老女は、それらを緩慢な動作で踏みながら、私を見上げた。

 所々に埃の付いた灰色の髪。曲がって痩せた身体。ドアを抑えた手に目立つのは伸びきった爪。


 83歳のD、5歳年下の妻、そして49歳の息子の3人世帯。収入はDの年金のみ。彼女はDの妻だろう。


 入居から1年。延滞は今回で2度目。1度目は入居の直後だ。それはすぐに解消している。

 

 先月──5月の半ばにDから電話が当社へ掛かってきていた。5月末の家賃の支払いができない。年金で6月15日に支払いたい。

 電話を受けたアルバイトの女性はその約束を受けていた。それ自体は問題ない。だが、約束日を越えても支払いはなく、電話を掛けてもコールすら鳴らずにすぐに留守番電話。

 結局、連絡は取れていない。Dの電話番号は既に『お掛けになった電話番号は現在使われておりません』というアナウンスが流れる状態だ。

 

Dは不在と彼の妻は答えた。身体を少しずらして廊下へと視線を移す。

老人特有といえばその通りなのだが、視線を遮る大量の物・物・物。部屋の中まで見通す事は不可能だ。

 廊下には、引越した時からそのままなのだろう。開けられていない段ボールも置かれている。


 家賃の未納を伝えて、いくつか質問をする。


『Dが何時に帰宅するのかわからない。どこに行ったのかわからない。Dの電話の事も家賃の事もわからない』 


 何一つわからない。彼女は携帯電話を持っていない。自宅の電話も無いと続けた。

 

 D宛ての通知と名刺を渡して、彼から私へ連絡させるように言ってくれと依頼する。最初の訪問なのでこれで問題はない。


 たぶんこの時点で既に、この家族は終っていたのだと思う。


 7月の最初の週に再度、訪問する。


 やはり緩慢な動作でドアを開いたDの妻は、前回と同じように何を聞いても『わからない』と答えた。

 家賃の事はわからない。夫と最後に会った日すら、わからない。

 前回と同じようにD宛ての通知を渡す。伸びた爪が通知を受け取った。それが何なのかもわかっていない表情で。


 Dの妻、×。


 もちろんこの日の訪問の前に、緊急連絡先──連帯保証人はいない──には連絡をしている。10年以上も話をした事がなければDがどこに住んでいるのかも知らない、今では何の付き合いも無い昔の知人だった。何の役にも立たない。


 緊急連絡先、×。


 この物件は不動産会社ではなく、隣のL市に住む大家が管理している。家賃管理や、物件の簡単な清掃も──小さなアパートの共有部分だけだが──大家自らが行っている。

 アパートを出た直後に、大家へ電話する。

 家賃は大家にも入金されていない。既に延滞は2ヶ月分だ。

 声から既に老人とわかる大家へ、ゆっくりといくつかの項目を事務的に伝える。

 部屋の契約は解除される。D宛て書面は当社で作成する。保証契約が切れるわけではない。

 

「保証会社さんにお任せします」


 それからDに会えない事とその妻の様子を伝える──「何か月か前に奥さんが、Dさんは入院中と言っていたよ」と大家が返した。


 Dの息子の事を大家は記録上でしか知らなかった。会った事も見た事もない。

 ただ『近所を何か言いながらウロウロしている』らしいと、アパートの住人から聞いた話を教えてくれた。 


 次に訪ねたのは10日後。その日、ドアは開かなかった。インターホンも鳴らない。電気が停止している。

 ドアを何度か叩くが反応は無い。


 ドアの金具へ小さく切ったテープを貼る。部屋の出入りは確認したい。単身でも家族でも、ある日突然どこかにいなくなる事はある。

 ライフラインの数値を記録した後、アパートの入口へ向かった。背後でドアの開く音が聞こえる。


 Dの部屋ではない。その隣の部屋。怪訝そうに私を見つめる目。

 量の多い黒い髪。丸い腹を隠せない黒いスウェット。見るからに安物の、潰れたサンダルを履いた中年女性が私へと近づいた。

 たくさんの毛玉が付いたスウェットが揺れる。


「お隣へ何か用?」


 家賃保証会社です、とは答えない。言ってもかまわないが、家賃の延滞と気づかれてもこちらにメリットはない。家賃保証会社とは何か? と質問されても面倒だ。認知度の低い職業だから。

 曖昧な笑顔で──「何時頃にご在宅なんでしょうね?」と質問で返す。


『何時頃いるのかわからない。Dもその妻も最近見かけない。Dの息子は昨日コンビニで見た。よくその辺りを奇声を発して歩いている』。得た情報はそれだけ。ただし、充分でもある。困った、だけが結論でもあるが。


 Dの息子、たぶん×。


 まだ何か話したそうな女性へ、拒絶と同義の挨拶を投げて、アパートの敷地から出た。


 会社へ戻って椅子に座る。机には住民票が置かれていた。取得を依頼していたDの住民票。

 延滞客と連絡が取れない場合、住民票を取得するのはセオリーではある。単身世帯だと転居している場合も多い。

 もっとも、妻子が生活しているDのような世帯であれば、通常あまり意味は無いが──今回は吉と出たようだ。吉? 本当にそうか?


 机に肘をついてDの住民票を眺める。ヒラヒラと振り胸中で苦笑する──『201*年6月21日 死亡』──D、完全に×。


 契約者はあの世。そして妻はたぶん認知症、数日前に自分の夫が死んだと認識している応対では無かった。更に息子は状況を聞く限りはアッチの世界でゴキゲンに暮らしている。

 

 私は家賃保証会社の管理(回収)担当者だ。『払ってもらうか。出て行ってもらうか』。仕事を極言すれば、それだけだ。


 困った。払ってもらうにせよ、出て行ってもらうにせよ、交渉する相手がいない。


 何か適当に言いくるめてDの妻子を外に放り出す? 落ち着け。そんな事、できるわけがない。家を追い出された認知症の老婆と精神疾患か知的障害のある中年男性がアパートの前でウロウロ。どこが『解決』だ。大問題になる可能性がある。私の働いている会社だってそんな事を許す筈がない。

 妄想を振り切って、真面目に考える。


 可能な時期になれば明渡訴訟を即時に提起する。だから準備しておく。これは大前提。

 必要なのは交渉相手を探す事。妻だっていつもいつも『何を聞いてもわからない』状態ではないかもしれない。そもそも息子が交渉相手として不適格かはまだ不明瞭ではある。

 第一、Dの葬儀は誰か、あるいは何処かの組織が行っているのだ。役所がDや妻子の状況を把握している可能性はある。


 スマホを見ると20時を回っている。頭のスイッチが切れた。明日考えよう──小さく首を鳴らして、私は席を立った。

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