第72話 どうせならさぁ

 201*年**月**日


 怨恨が原因でも無ければ多額のカネが手に入るわけでも無い。性欲を満たす為でも無い。それは、人目もカメラもある場所での犯行だった。つまり、絶対に逃げられない。

 実際、彼──Aは逮捕された。


 個人の特定を避けるため、事件の詳細は伏せる。


 Aにとってもしもメリットがあるとするなら、カネを払えと追ってくる世界から一時的にせよ逃避できる事だけだろう。そういう犯罪だった。

 

 7日、時間を遡る。

 その細いマンションはどう見ても朽ちかけていて、だからこそ賃料は安かった。


 エレベーターは無い。昼でも暗い階段を登り、4階へたどり着く。

 1フロアに3部屋。その一室のドアを叩いた。インターホンは無い。


 延滞1ヶ月目のA。入居から8カ月目。2度目の延滞。一度目は入居直後で、すぐに延滞解消している。当社の誰とも会話をしていない。


 訪問した時点で彼の携帯電話は料金未納で停まっていた。


 主に建築現場へ人を派遣する派遣会社が、入居時に書かれた仕事先。もちろんその会社の正社員ではない。日雇いの労働者。

 Aと連絡を取るために、無駄とは思ったが電話をしていた。大きな会社ではないからか、電話口の人物はAを知っていた。『もうずっと来ていない』という、何の意味も無い回答しか得られなかったが。


 3度目のノックでドアが開いた。痩せた身体に薄い頭髪。無精ひげ。破れたスウェット。気弱そうな表情。『我こそは人生の敗北者』と全力でアピールしている風体だ。

 それでも全く初対面。こういう場合は、丁寧な挨拶から交渉を始めるに限る。


 Aは、渡した名刺に目を落として、仕事が無い、全くカネがない。両親とも疎遠で頼る人間もいない……ネガティブな情報ばかりを続けて──「一週間待ってください!」

 吐き出すようにAは言って、ドアを閉めた。待つのは構わないが、1週間後には必ず電話をしてくるようにドアに向かって告げると「はい」と聞こえた。


 1週間で何がどうなるとも思えない。だが、最初はこれで構わない。

 1週間後に彼の携帯電話が通話再開できているとも思えなかったけれども、それで構わない。どういう状況か理解はできた。こりゃ無理だ。近々退去の交渉だろうな……と考えて階段を下りる。


 Aは私の予想に反して、7日目にまさしく『解決』しようとしたのかもしれない。

 それがA自身の逮捕だとは、予想外だけれども。


 実際に私が事件を聞いたのは事件から数日後だ。不動産会社から連絡。Aが逮捕された。警察から不動産会社へ連絡があり、家宅捜査が行われている。


 部屋に麻薬でもあるかと警察は考えたのかもしれない。電話も停止し、家賃も払えないのだ。日本で麻薬がいくらするのか知らないが、そんな嗜好品を買うカネがあるなら、事件などたぶん起こしていない。


 通常こういう場合、これから行う事はAへの面会(接見)だ。

 部屋の明渡と家財道具の処分の同意を得る。できれば書面がもらいたい。だから書面と封筒・切手も差し入れる。

 国選弁護人を通じて退去明渡の話をしてもいい。ただし普通、彼らが請け負っているのはあくまで事件に関してだけ。『部屋の事は知りません』と弁護士に言われてしまえばそれまででもある。

 接見禁止の場合は『部屋を明渡しますか? 荷物を処分しておいてもいいですか?』と郵便で尋ねて返事をもらっても良い。

 それでも一番短期間で確実に終わらせるなら、接見しての意思確認だ。

こちらに思惑に反して『部屋を明け渡す気は無い』という意思を確認できても構わない。それならば、部屋の明渡訴訟を始める判断もできる。


 家賃保証会社が付いている契約の場合、大抵の不動産会社は我々に一任すると思う。

 が、その不動産会社の社員は、既に警察より部屋の明渡と家財道具の処分に同意する書面を取得していた。接見したのではない。警察を通じてAから取得している。

 それはその社員が家宅捜査の連絡を受けた際に警察へ『部屋はどうするのか?』と尋ねていた結果か、そもそもAが『部屋は片付けないといけない』と考えていたのか、どちらのなのかはわからない。たぶん両方だろう。

 Aは真面目ではあったのと思う。それは一度しか会っていない私ですら、そう思う。,真面目で貧困。真実、どうしようもない。

 そんな人間だからこそ追い詰められて事件を起こす。

 その社員に関しては素直に、『えらく手際が良いな』と感心した。

 もう何も問題はない。

 ここ数回の話では不動産会社の愚痴ばかり書いているけれども、稀には家賃保証会社に協力的で、トラブル処理がデキる不動産会社の人もいる。


 数日後にAの部屋に入った。6畳間。

 テレビと、フローリングに直に敷いた布団。カーテンレールに掛けられた、数着の薄汚れた服と作業着。その下に置かれた、下着の入ったプラスチック製の収納ボックス。冷蔵庫はあるが、テーブルが無い。それだけ。

 加えるなら、延滞客の部屋にありがちなのだが、限りなくモノが少なくて、ゴミが落ちているわけでもないのに、清潔感が無い。

 寂しい部屋。

 唯一モノであふれていたのはドアポスト。債権回収業者や弁護士事務所(債権回収を請け負っているのだろう)、電話会社からの通知が溜まっていた。


 そりゃそうだろうな──何の感情も起こらない。

 後は撤去業者を手配して荷物を撤去・処分するだけ。それで部屋の明渡は完了。私の仕事は完結。


 でも……どうせならさぁ。


 Aが事件を起こした同年同月の初旬。

 

 その男──家賃5万円の部屋に住む32歳のBはいわゆるクレーマー。

 全く何もこちらの交渉に問題がないのに、話し方が気にくわない、電話に上司を出せ、社長を出せと叫びだす。そして担当を変えろと続ける。何人かの担当が代わった後、半年前から私が担当していた。


 入居時に申告した仕事はキャバクラのボーイ。入居直後に延滞が2カ月溜まった。 

 仕事先に当時の担当者が電話をしたが『少し前に数日働いて辞めた』との回答。その時点においては生活保護は受給していない。それは当時、福祉課へ確認している。

 

 1~2か月分の延滞を繰り返す状態だった。3カ月にまでは至っていない。一応払ってはくるのだから、何かしらの仕事をしていた筈だ。それが何かはわからなかった。電話に出ると『**日に1ヶ月分支払う』と尊大な口調で告げてくる。

 仕事は何だ?──「答える義務はない」


 鬱陶しい。面倒くさい。


 賃貸借契約書も含めて大抵の契約書には普通、仕事先や連絡先が変わった際の通知義務が記載されている。もっとも、それを馬鹿正直に守る人間は(私を含めて)ほぼいないだろうが。

 

 それ以上の質問を続けても『上司(または社長)に電話を代われ』だ。変わったところで何か良い事がBにあるわけでもないのに。が、とにかく『上司に変われ』だ。

 そう言い始めると、誰かに代わるまで『代われ代われ』と繰り返し続ける。延々と。

 これまでの担当者は、上司に代わる場合もあるし、適当な同僚に代わる場合もあった。上司がいない時もある。『話し方が気にくわない』と言われれば確かにそれは個人の受け取り方の問題だが、それ以外には、非が本当に無いのだ。

 わめていているのを聞くだけ聞いて、『また連絡します』と、ほぼ無理矢理を終結させて電話を切る過去の担当者もいた。

 仮に上司に代わっても、適当になだめて終わる。場合によっては担当を変えると伝える。全く時間の無駄だ。


 ちなみに、よほど明らかに管理(回収)担当者に落ち度や問題があるのなら話は別だが(本当に落ち度や問題がある場合もあるが)、そうでないなら『上司に代われ』『担当を代えろ』と主張する事は、少し考えた方が良いと私は思う。

 あなたが永遠に調子が良く、カネに困る事もないのならば何を言ってもかまわない。が、そうでなくなった時に、多分あなたの不利に働く。『代われ』と言われた管理(回収)担当者はあなたが嫌いになる。ずっと、嫌い続ける。

 少なくとも私ならば、表面には出さず、誰にも悟らせず、あなたの状況がより悪化するように行動するだろう。私は血の通った、感情のある、不完全な人間だからだ。


 私の場合は、Bの言う事に大抵は『わかりました』と答える以上の話をほぼしていない。面倒だから。

 どうせいつか『解決』する。それを待つ。それが私が担当している間かどうかはわからなかったが、そう決めていた。


 そのBがいよいよ『解決』しそうだった。


 現在延滞は2カ月分ある。

 これまでと違うのは全く連絡が取れない事。そしてドアの開閉が無い。金具に貼ったテープは剥がれていない。ドアポストには色々な業者からの督促通知が刺さっている。

 電気とガスは停止しているが、水道メーターは動いていた。

 

 部屋は使用している。


 どうやって? 答え。ベランダから出入りしている。

 なぜわかるの? 小さなテープをベランダのドアに貼っているから。

 1階だから出来る事だ。

 

 それでも、これまでとは違う。


 過去、延滞時に訪問して通知を置いても、すぐに電話で怒鳴ってきていたのだ。『イチイチ家まで来るな。払わないわけじゃない』と、延々とわめく。もちろんそれまでの担当者も言い返していたが、時間の無駄。だから、これまで訪問対象の優先度をかなり下げていた。


 それが、何度訪問しても全く連絡してこない。明らかに『逃げている』状況。


 滞納した家賃は、カネがないから、払ってないのだろう。至極単純な理由。

 このまま延滞があと1ヶ月増えれば、明渡訴訟を提起する。そう決めていた。B相手の退去交渉は困難だと認識していた。


 さぁ『解決』が開始されるまであと少し──その状況で、『生活保護を申請した』と連絡が入った時には正直、落胆した。


 その日の夕方、福祉課(生活保護の担当部署。自治体により部署名は色々)から連絡が入る。Bの支払い状況を確認したいという事だった。Bが『余計な事を言うな』と仮にわめいてきたとしても、かまわない。ありのままを答える。


 部屋の契約は延滞により解除されている。延滞している家賃もあるし、居住継続は難しい。転居を提案する。私の仕事を少しでも平穏にするために。


 電話口の担当者は『施設に入れたい』と応じた。Bに金銭管理が出来るとは思えないからと。

 なんとなく──以前Bは生活保護を受けた事があるのではないかと思った。でなければいきなりそんな見解にはならないだろう。もしくは、あまりにもBの態度が不愉快だったのかもしれない。それは私にはわからない。


 ただし、何事もスムーズに進まないのがBのような『面倒くさい』人間だ。

 

 数日後、Bから連絡が入る──「施設に入れという役所はおかしい。そんな生活は自分には出来ない。**党の議員を連れて役所に相談に行く。引越すか住み続けるかはそれから決める」


 本当に連れて行ったらしい。まさか国会議員ではないだろうし、もしかしたら議員秘書なのかもしれないがそれでも、政治にかかわる人間はそんなに暇なのか?   

 どんな話をしたのか、詳しくは知らない。それから福祉課はBに関してあまり話をしてくれなくなった。


 仮に福祉課により転居が認められれば、契約費用、引越費用、火災保険料も支給される。まさに税金の無駄遣い。

 居住を続ければ、私が面倒だ。


 だが二者択一であれば、転居してほしい。私のストレスが減る。


 2週間後にBからの電話。「引越し先を探している」──転居か。クソッ。施設に入れよ。どうせなら、メキシコの刑務所とかに。


 荷物を全部出し終えたら、部屋で鍵の受け取りを行いたいと伝える。何もなければそれで良し。あれば荷物の撤去作業も必要になる。それに普通、退去時には鍵は返却するものだ。


 「時間がない」──無いわけないだろう?

 これまでは面倒だから大抵はハイハイと話を聞くのが常だったが、状況がここまで進展している。そういうわけにもいかない。スムーズに『完了』させるために。

 負債の督促は退去後の顧客を担当する部署に任せるにしても──鍵を返せ。それを返却し、部屋に荷物が無い事を確認して部屋の明渡は完了だ。


 Bの過去の高圧的な態度は、たぶん虚勢。誰も実際にBと会った人間はいない。電話口では怒鳴ってくるが、部屋に謝罪に来いとは言わないし、過去に訪問した誰一人、Bには会えていない。

 私へ直接に会って部屋の明渡をする事を頑なに拒否する。


 無職の生活保護受給者である。時間がないわけがない。


 結局──『引越したら部屋の鍵は郵送する』と言って、電話は切れた。


 確かに、郵送されてきた。

 その6畳半の部屋の中には、ゴミは多少あるが他には何もない。


 壁はタバコで変色しきっており、穴も開いている。トイレは田舎の公園の公衆トイレもかくやというくらい汚いが、何もない。


 確かに、明渡は完了だ。


 どうせならさぁ──……。壁に空いた黒い穴を見つめる。Aの事件が微かに脳裏をかすめた。

 

 事件を起こして警察へ逮捕されるなら、コイツを片付けてくれたら良かったのに。車で轢くとか、レンガで頭を殴るとか、方法は任せるからさ。


 コイツが一体、誰の何の役に立つんだよ?


 誤解の無いように書いておくが私自身、何かの、誰かの役に立っている人間ではない。そして私は、価値ある人間だけが生きるべきだとは全く考えていない。そんな考えは危険なだけではなく、不毛で無意味だと確信している。多くの人間は誰の何の役にも立たないかもしれないが、生きている。それで構わないと思う。

 しかし、モノには限度があるだろう。


 どうせならさぁ……そう思ってしまう私は、単なる会社員。たぶんそんなに世間様と感覚はズレていない。その筈だ。

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