第48話 変わるものと変わらないもの

WIRED誌が行った『Empty Planet』著者2人へのインタビュー。


2050年には90億人、2100年には110億人に膨れ上がるとする国連の世界人口動態予測は誤りだ。

※国連の中位推計の事。


今後30年間で地球人口は減少に転じる。


出生率を左右する最大要因は女子教育水準。

国連の人口動態予測は女子教育と都市化の速度を考慮していない。

※農村だと子供は労働力という資産。多産するメリットがある。都市では労働力にはならず、家庭にとっては経済的負担となる。


ケニアの初等教育では既に男女が同数。

アフリカの都市人口増加率の速度は世界平均の2倍。


デリーのスラム街の女性もスマホを持っている。

彼女たちは文字が読める。膨大なデータにアクセスできる。人類のあらゆる知識が手の中にある。


26カ国の女性たちへの聞き取り調査。

彼女たち望む子供の数は2人前後。


フィリピンでは2003年から2018年に出生率が3.7から2.7に減少した。

米国では同程度の変化が1800年頃からベビーブームの終わりにかけて起こった。

フィリピンはたった15年。


つまり、変化は激化している。

その変化が更に加速するとしたら?


※「世界人口が今後30年で減少に転じる」という、常識を覆す「未来予測」の真意:https://wired.jp/2019/02/20/world-might-actually-run-out-of-people/



2019年の雨季の夜 フィリピン パンパンガ州 アンヘレス


カトリック勢力の強いフィリピンでは堕胎が法律で禁止されている。

弊害は大きい。

ただでさえ製造業による雇用が少ないフィリピンでは、人が多すぎると失業率が高止まりしてしまう。給料も上がらない。

貧困層は貧困から抜け出せない。


カトリック勢力は依然として強力だが、しかし出生率は下がっている。

私はそれはフィリピンにとって良い事だと思う。



夜を拒絶するネオンと暗闇の狭間に少年は立っていた。

「『ブー』って何だ?」

私は、少年を見返した。


薄汚れた厚手のシャツを巻いた右腕、先端は見えないが──明らかに短い。

どの位置で腕が途切れているのかは、わからない。


右腕を抱えた左腕の先で、掌が開いた。そしてまた、同じ言葉を繰り返す。

「ブーを買ってよ」


ルソン島の都市アンヘレスは外国人にとって、風俗街だ。ゴーゴーバーの街。

郊外にはYOKOHAMAタイヤの工場もあるが、旅行者や売春エリアへ沈没した連中には関係ない。


2019年現在の外国人の比率は、長期滞在の白人と、風俗店を経営し客としても訪れる韓国人が多いのだろうか。実際、韓国料理屋は多い。


ゴーゴーバーが軒を連ねるウォーキングストリート。

西端から、昼も営業している風俗店が集まるプリメタ地区へと道が延びる。

その途中、南に曲がった路地裏に私はいた。


アンヘレス自体はフィリピンの首都マニラに比べれば治安は悪くない。

大通りは夜でもそう警戒する必要はないと思う。

ただし、路地裏に入ればストリートチルドレンやホームレスはたくさんいる。


私の目の前に立っている少年もそこに住む一人なのだろう。


カネを恵んでくれと言ってくる子供は珍しくもない。

ただ、何かを買えというのは、稀な気がした。

だから私は問い返したのだ。『ブー』って何だ?


薄汚れた子供。10歳前後。どう高く見積もっても、12歳は越えてない。

「ブーを買ってよ」


「だから、『ブー』ってのは何なんだ?」


小銭を受けるように開かれた左掌はそのままに、回答も無く少年が一気に私へと距離を詰めた。

避けきれず──右腕に少年の右肩が掠った。


私は3歩進んで、振り向く──ミスった!


私は左肩から、ダークブラウンの革製バッグを袈裟懸けにしている。

アウトサイドには、小ポケットが2つ。

インサイドには小銭入れとハンカチを入れたポケット。

真ん中のメインポケットには長財布や扇子を収納している。


財布の入ったポケットは常にチャックを閉めている。

ただし、スマートフォンを入れた小ポケットは必ずしもそうではない。

もちろん、人混みやジプニー(ピックアップトラックを改造した乗合タクシー)に乗る時は閉めるが、散歩の時は開けている事も多い。

頻繁にスマートフォンを見るからだ。



──ミスった! 再度胸中で毒づく。



なぜ1歩で、いや2歩で振り向かなかったと、後悔が頭を過ぎる。

あるべき所にスマホがない。

5分前に『Grabグラブ』(自動車配車アプリ)の画面を確認したばかりだ。間違いなくあの少年に、られている。


左右を見回す。左側には自転車で引いてきている屋台から煙が上がっていた。

右側には風俗店の呼び込みの女性。


どこに消えた?


再度視界の隅々をチェックするが、あの少年はいない。

イチかバチか、いま進んできた左手の路地へ戻る。

もしかしたら、少年が見つかるかも知れないから──その選択へのダメだしのような、耳障りな笑い声が背後で響いた。


どういう移動だ? 少年が立っていた。

左手でシャツを振り回し、右手には私のスマホを持っている。


私へと近づきながら、彼は右手をシャツへと出し入れした──片手しかないように見せるトリックだと言いたいらしい。


彼の右手が見えていようがいなかろうが、たぶん私はられていたと思う。

それくらい鮮やかだった。


少年は私へスマホを返した後、再度口を開いた。

「ブーを買ってよ」


「だからその『ブー』ってのは何だと聞いている」──スマホに何か細工をしてないだろうな? と付け加えて、私は彼を睨んだ。


『してないしてない』そう身振りで示したあと、彼は屋台へ歩み寄った。オッサンが揚げている串。衣がついていて、中身がよくわからない。


「それが『ブー』?」


彼は頷いた。そして、買って食わせろというのではなく、私が食べろと身振りで示している。


一連のやりとり──スリの現場──をどう考えても知っているオッサンが、黙って串を揚げながら、下卑た笑みを私に向けた。


これ、営業活動か?

酔っ払った白人ファラン相手だったらブン殴られるんじゃないか?


「『ブー』って何ペソ?」


50ペソ──笑顔で、両腕を振り回しながら少年が答えた。


「私は今は空腹じゃないから要らない」

私は50ペソをオッサンに渡した。少年へ串を渡してくれと告げる。

で、スマホに何か細工をしてないだろうな?──再度、少年を睨んだ。


してないしてない──彼は先程と同じ身振りを繰り返した。


「そうか。じゃあね」

右手を軽く振って、散歩を再開する。


何処にいこうか……?

アンヘレスではゴーゴーバーかレストラン、スポーツバーくらいしか選択肢はないが。


私は外との仕切りのないビアバーやテラス席でお酒を呑むのは好きだが、ゴーゴーバーは好きではない。

理由は単純で、せっかくの旅行なのに外が見えない室内にはいたくない。

そして、大音量の音楽の中は苦手なのだ。


しかし、風俗街を眺めながらお酒を呑むのは大好きだ。

クラーク空港から一直前にスービックへ向かって、海を眺めながらの酒浸り……というのも勿体無い気がした。

機中で考えた結果、アンヘレスで一泊の宿を取る事にした。

そして散歩をしていて、少年の『営業活動』に出くわした。


……だけどまあ、以前よりもだいぶマシか。スマホが、一応は返ってくるのである。


数日後に5年ぶりのマニラへと立ち寄るが、正直驚愕した。

フィリピンの銀座とも呼ばれるマカティのグリーンベルト付近ならともかく、それ以外の場所でも一応は信号が守られているのだ。


ベイエリアの道路脇にはゴミがあまり見当たらない。

5年前はとにかくゴミ・ゴミ・ゴミだった。

信号は守られないしクラクションは昼夜鳴り響いていた。

マニラの空港に降り立つとすぐに鼻に入る、甘ったるいよくわからない匂いも今回は感じなかった。本当に、たかが5年で街が変わっているのだ。


エルミタ地区のバーの店員に、ストリートのゴミが激減して驚いた事を話した。

彼女は『ドゥテルテ大統領が変えた』と答えた。


数年前に他界したシンガポールの独裁者リー・クアンユーは紛れもない大改革者だが、同じ事が高度に情報化した現代でもできるのかといわれれば疑問符付きだろう。


どんな良い改革も反対する人間は存在する。

小さな声も大きく見せかけられるのが現在だ。


その現代で、たった一人の大統領が国民のモラルすら変えるなんて事ができるとは衝撃だった。



そうはいってもストリートチルドレンもホームレスも多いし、道ばたに座って『何もしてない人』が沢山いる事もまだまだ変わらないけれども。


少し違和感を覚えたのは工事中のマニラ湾沿いの道で『マッサージ』の看板を掲げた人が座り込んでいた事だ。店舗なんてレベルの代物ではない。

ホームレスとの差異もよくわからない人々。

以前はそのような人々がただただ座り込んでいただけだったと思う。


誰が彼らからマッサージを受けるのかはわからない

が、何かしらの仕事をしようとしている事自体が変化の象徴のように思えた。


フィリピン滞在の数日間ではいくつかの街を巡った。観光などではない、単なる街歩き。


アンヘレスのアストロパーク北の道を歩きながら屋台で買い食いをした。

翌日はスービックで海を眺めながら昼から飲んだ。


客の誰もいないホテル併設のレストラン。


アフタヌーンドレスを着た管理職の女性──ワイングラスを片手にソファへ深く腰掛けていた彼女が、なぜか酒の相手をしてくれた。

真昼間である。


ホテルの制服を着た他のウェイトレスは普通に働いている。

その管理職の女性は、メキシコ人との混血ミックス

エキゾチックな、超がつく美人。

横顔はまるで植民地の支配者階級のようだ。


私が遅い昼食を食べ終わる頃──彼女はドレスを脱いで海へと歩き出した。

下は水着だったのだ。

休憩時間なのだろうか。一応は勤務時間ではあるだろうに、泳げる自由さが羨ましい。


そんなので良いのである。


無意味に厳格で、対価に見合わぬ従順な勤務態度を強要されると、窮屈で息がつまる。

私はそんな国で生きて死ぬ。

外国の良い所も悪い所も大して知らないけれど、たぶん、私にはそれしかできないのだろうと思う。


無計画に仕事を辞めて支払いが行き詰まる。

生活保護からの住宅扶助を不正に使う。

払えもしない家賃の部屋に住む。

延滞を延々に発生させても使用を続ける。

わけのわからない小さな瑕疵を原因として、毎月毎月の延滞を正当化する。


消費者、賃借人である立場を最強だと勘違いして、対価に見合わぬ尊大さで振舞う。

家賃が払えもしない弱者であると──延滞する権利なんて訳のわからないものを、払いもしないのに居住を続ける権利なんてものを、強く強く主張する。


このふざけた消費者はいつか変わるのだろうか。


私は家賃保証会社の管理(回収)担当者として働いている。

毎日毎日、家賃の督促をして、明渡訴訟の手続きをして──十年一日同じように。


私は20年近くも『お金を払って下さい』という仕事を続けている。

少し、疲れた。


タイ・ベトナムは既に少子化のフェーズへと入っている。

フィリピンもいずれはそうなると思う。


国内での経済格差が依然として大きな国々だが、大部分の国民がいずれは現在の日本人と同等の生活水準にまで到達するかもしれない。


大好きな国々が、歪んだ消費者意識をもった貧乏人ばかりの国にならぬよう、私は祈る(まあ、あちらはあちらでどエライ消費者がいるのだろうけど)。


私は少し、疲れた。だから、少し休みを取って旅行に出かけて、帰ってきた。


また出社して──醜く叫び、責任を転嫁し、貧困にのたうち回る消費者様を、もう少しの間、眺めてみようか。

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