第29話 遺書。アンタには死ぬ理由が、無いのか?
死ぬ理由はありません。
しかし生きる理由もありません。
さようなら。
手に取ればすぐに安物とわかる白い便箋。
ひどく小さな字で、ただそれだけが書いてあった。
玄関ドアを開けると小さな土間。土間と廊下の境目。
来客が必ず目にする位置にそれが置いてあった。
5秒前に「あーあー」と、いかにも面倒くさそうな声を上げて室内に入っていった警官2人へ目を向ける。
ここはロフト付き物件だったのかと理解できた。
廊下から居室に入ったすぐの場所に、茶色いハシゴが見えた。
そのハシゴを隠す、左半身も。
ロフト部分に縄を通して首を吊っているのは、玄関口からでもわかる。
救急車の出動を要請する警察官の声が聞こえた。死体を発見した時のセレモニー。
10日はドアの開閉の無い部屋。首を吊った身体。もし今更何かが「間に合う」のなら、それは医学ではなく魔法の領域だと、胸中で呟く。
玄関口からは特に臭いを感じなかった。良かった。
どうせ、業者へ家財道具の撤去を依頼するため、室内の写真を撮る必要が出てくる。
臭いが酷いより、そうでない部屋の方が入室は楽だ。
会った事も話をした事もない人間が死んでいた。ただそれだけの出来事なのだから、その程度しか考えられない。
201*年5月初旬。
東京都R市。家賃50000円。延滞4ヶ月目。
48歳 男性A。
2か月前からガスが、2週間前から電気が停止していた。
延滞発生から一度も接触出来なかった。
緊急連絡先は昔の同僚で、何の付き合いもないという。
勤務先として登録されていた土木作業のアルバイト先は、延滞発生直後から来ていないとの事だった。
10日前からドアの開閉がなくなった。
だから死後1週間~10日だろうと想像するが、私には関係のない話でもある。
ロフトから首を吊っていて、死因が病死など有り得まい。もちろん、他殺なんて派手な事件でもない。単なる自殺。それだけ。
これから1時間半はここに拘束される。それが最も憂鬱だ。
ただもしも警官を呼ばずに室内確認を行い「死体の第一発見者」になってしまえば、半日は浪費させられる。
だから、あまり文句は言えない。
再度、紙ペラ一枚の遺書──と呼べるものだとして──に目を落とす。
生きる理由も死ぬ理由もない。
大抵の人間はそうだろう。誰も彼も、死ぬ理由も生きる理由もないが、生きている。
だが、家賃もガス代も電気代も払えないのだから──アンタには死ぬ理由くらいあったんじゃないか?
3日後。東京都T区。
家賃35000円。延滞1ヶ月目。53歳 男性K。
立ち寄ったのは偶然だった。まだ延滞10日目。本来訪問する時期ではない。
ただ、他の長期延滞客の部屋が近くにあったので、電話も通じないKの部屋へ訪問したのだ。
仕事先の登録はなかった。だいぶ以前の督促時に退職が判明していた。
当時は交渉もないまま延滞が解消している。
同じ頃に緊急連絡先にも電話していて、親戚だが何の付き合いもないとも言われていた。
東京23区で家賃35000円である。
駅からは遠く、廃屋と見紛う建物。
どういう構造か一目では把握し難い。1階建の四角の建物。6つドアが付いているのだから、6つ部屋があるのだろうとは思うが、ベランダの数が足りない。
ボロボロの木製ドアの前に、破損した木箱が置いてある。
これが契約者の部屋のポストか。
目の端に映ったハエを手で払う──嘆息する。
絶対に、中に、死体がある。その臭いだ。
加えて、ハエがたくさん飛んでいて──道端から見た契約者のベランダ側のガラス戸には、無数の虫が蠢いている。ダメ押しの傍証だ。
ベランダに近づいてみると、TVが点いているのがわかる。半ば閉じられたカーテンに付着した大量の虫を改めて見る。
これ以上は必要もないと、その場を去った。
以前TV番組で「死臭がする」と言った芸人に──「そんなもんわかるのかよ」とツッコミが入っていた。
死臭なんて、何度か経験すれば嫌でもわかるようになる。
といっても、今日は何もしない。鍵もないし、他に仕事もある。
不動産会社へ連絡し、鍵はどこにあるのか質問する。
不動産会社にあるという。いつでも取りに来て良いというので、たぶん明日行くと伝える。
物件の場所からは距離がある。
会社へ戻り上司に話す──人が死んでいると思うので入室したい。
延滞としては1ヶ月目で当然部屋の契約は解除になどなっていない。
通常ドアを開けるのにためらう状況ではあるが、Kの部屋は明らかに異常だ。
何の問題もない。
口頭だけで許可をもらい、翌日12時にまた、Kの部屋の前にいた。
昨日より更に臭いが強くなっている気がする。
同じ建物に住んでいる人間は、何も思わないのか?
再度、ベランダに回る。
カーテンは半分閉まっている。が、ガラスにもっと顔を近づければ、TVの向かい側にある座椅子が見えた。黒炭のような色をした、曲がった腕も。
室内が暗くて体までは見えないが、そこにあるのは間違いない。
(なければそれこそ大事件だ)
110番をして、15分程待つ。
スムーズに進めたいので、たぶん死体でもあると思うとは伝えていた。
今さら急ぐ必要もない部屋に向かって、大きなサイレンを鳴らしてパトカーが現れた。救急車も2分程遅れてやってくる。
ここにいる理由を説明。延滞があるから訪問した。
鍵は不動産会社から借りている。
死臭が漂っている事は、誰でもわかる。
警察や救急隊員なら、尚更だ。それに、警察官もベランダのガラス越しに、消し炭のような黒い腕を発見していた。
鍵を開けて救急隊員が室内に入る。
救急隊員のリーダーのような人と警察官、3人で話す。
昨日も来て、奇妙に感じたから鍵を借りてきたと──口が滑った。私のミスだ。
このリーダーは、真面目な人間なのだろう。見上げた職務熱心さである。
「なぜ昨日警察や消防を呼ばなかったんですか?」
私の目を見据えて、半ば怒った口調だ。
「鍵がなくてもハンマーで窓を壊せる」
そして続ける。
「もし昨日呼ばなかったために助からなかったら、遺族に恨まれる事になる」
彼の言っている事は100%正論だ。
だからもちろん、本当は近所の住民が警察へ連絡して死体を発見するまで放っておこうかと思ってました、面倒くさいからです、なども告白できるわけがない。
しかし、窓をぶち破られたり鍵を破壊されたら、誰の費用で直すのだ?
室内でいままさに1秒を争う状況の人がいるのなら、私も自己判断で当然に窓を破る。
けれども、死臭が道端にまで漂っているのだ。1日2日の違いなど何の差だ?
それに恨んでくれる遺族なんてたぶんいないよ、Kには。
頭に浮かんだ言葉を飲み込む。意味がない。まったく彼が正論で、彼は正義だ。
誰も私に公然とは賛同しないだろう。私ですら、しない。
ただ会社員には、彼とはやや違う判断基準があるというだけだ。
それは間違っているのかもしれないが、そういう風に私は働いている。
正しくない。たぶん正論でも正義でもない。だけどそういう風に私は仕事をしている。
2つの死体部屋。
遺族と警察は連絡を取ったのだろう。特にKは腐敗が激しくDNA鑑定をしているから、遺族の誰かと接触はしている。
ただ、我々や不動産会社には何の連絡も取れなかった。
どちらのケースも後日「特に事件性はないので部屋を片付けるのは問題ない」と、担当の警察官に言われただけだ。
Kの場合は生活保護を受給していた。福祉課からも、片付けに問題はないと言われた。親族は、Kとは関わりたくないと言っていると伝えられた。
遺族は何もしない。カネもかかるし、そこまでする義理もない。
そんなもんだ。どちらの契約者もそういう風に生きてきた。
もしも遺骨の引き取り手にだけでもなってくれたなら、御の字だろう。
どちらも当然当社が片付けた。
ここで強烈な臭いのする死体部屋に入る時の作法をお伝えしよう。
大して臭いがないのなら、普通に入れば良い。
一つ目のAの部屋などこのケースだ。
伽藍とした部屋。家具らしい家具もない、寂しいロフト付5.5 畳のワンルーム。
何もないのに清潔さもない。ドヤ街の宿泊所のような雰囲気。
首吊り死体のあった部屋なのだから多少の臭いはするかと思っていた。
しかし何の臭いもない。
警察が綺麗に拭き取ってくれているのか体液も全く落ちてなかった。
問題は二つ目のKの部屋だ。
スーツで入るのはやめた方が良い。
大量のわけのわからない虫も気持ち悪いが、臭いが移る。
髪に臭いもつくがそれは洗えばいい。
しかし、スーツを水洗いするわけにもいかないのだから気をつけよう。
まず、靴はビニールで覆う。ジャケットは脱ぐ。Tシャツ一枚になってもいい。
雨合羽の上下があれば上出来だが、なければゴミ袋を貫頭衣のように着る。
雨合羽がないならズボンが脱げない。その場合は、靴を覆うビニール袋をできるだけ上で縛る。
在室時間を極限する事で臭いが移るのを防ぐ。
次いで、アルコール消毒液の染み込んだウェットティッシュを鼻に詰めて、マスクを2重に装着する。
その出で立ちに車内か、対象の部屋のある物件前で変ずる。まさに住宅街に現れた立派な変質者である。
在室時間は5分以内を心がけよう。
以上、何の役にも立たないレクチャー。
ついでに何の役にも立たない情報を更に一つ。
代払い──と消費者金融の頃から呼んでいる行為がある。
ありていにいえば契約者以外から払ってもらう事。
大抵の場合、親とか兄弟だ。
こんなものにもセオリーと呼ばれるモノがある。
契約者が男なら母親に、女なら父親に代払いを頼む事。
父親は娘を、母親は息子をより愛おしく思うという理由だ。例えどんな馬鹿な子供であっても。
これが本当に正しいかはわからない。ただ、経験則でそれが正しいと言っている人は、いる。
私は独身だし子供もいない。
が、もしも子供がいたなら、息子より娘を可愛いと思う気持ちはわかる。
女性ならこれが逆なのだろうか。
繰り返すが、このセオリーが正しいかどうかはまったくわからない。
代払いなんて行為の統計がある筈もない。
まさに何の役にも立たない情報。
ただ、この実例を目の当たりにしていた。
東京都C区。家賃60000円。
契約者 男性N。32歳。
延滞3ヶ月目。
私の前にはN。金髪で、小太り。
派遣社員。仕事はコールセンターのオペレーターという。
背後はまさしくゴミ屋敷。彼の隣にはNの母親がいて、俯いている。
4度目の光景。
1ヶ月分払い、また延滞、2ヶ月分溜めて、1ヶ月分だけ払う、また延滞し2ヶ月分や3ヶ月分溜まる。1ヶ月分払う。不定期に。
連絡は取れない。だから母親に当社から電話し、Nへ連絡してもらうよう依頼する。
日数が経過し母親がNへ連絡をつける。母親はNの部屋に行く。
母親だけでは何もできないからと私が呼ばれる。
3人で話す。4度目の状況。
契約が解除される旨の通知は発送されている。
決まって、Nは口にする。
今度からちゃんと払う。やりおなおしたい、だから、今回だけ、払って欲しい。母親へ頼む。
繰り返すが、4度目の状況だ。同じ状況が1年半で4度出現しているのだ。
Nの目の前で彼の母親へ告げる──「もうやめた方がいいですよ」
母親としては、Nが実家に戻ってきて欲しい。
帰る家があるのだ、Nには。
しかしNは東京での一人暮らしを続けたい。
実家は東京でこそないが関東圏である。東京に出てくるのに何時間もかかるわけでもない。
なぜ帰らないのだ?
だが母親は、今回だけ信じる──と、延滞を払うのだ。過去3度。
「繰り返しますが、お母さん。おやめになられた方が良いですよ。3度も払ってらっしゃって、これですよ。3度も受け取っている我々が言うのもどうかと思いますが、何の解決にもなってないですよ」
「わたしもそう思うんだけど……。家に戻ってくればいいと思うんだけど……」
母親はNを見ながら、答える。
Nが作り上げたゴミ屋敷。私は保証会社の社員で不動産会社ではない。だが、母親から見れば同じようなものなのだろう。部屋をこんな有様にしてしまって申し訳ないと思っているのだ。
そこには素直に、同情する。
トンビが鷹を産む。カエルの子はカエル。知らない。
ただ、どんなマトモな親からも、ロクでもない人間は産まれる。
もっとも、ロクデナシの子が真人間という可能性も大いにある。
「Nさん、もう本当に、ここで実家に一度帰った方が良いですよ。東京に来たければ、また金貯めて来れば良いじゃないですか。今ですら3ヶ月延滞ある部屋に居続けなくてもいいでしょう?」
「今度からはちゃんと払うから。やり直すから」──私の質問には答えず、母親を見る。
母親の回答は……聞かずともわかった。払うのだ。
だが「やめた方が良い」と諌める私の言葉にも大して力を込めてないのも事実だ。
どうせNは自分では退去しない。したがらない。
やり直すというのなら、実家に帰ってアルバイトでもすれば余程楽に決まっている。しかし、そうしない。
それはプライドなのか、何なのか知らないが、彼らは往々にして自ら破綻の道を行く。
そして払いたいなら──払える所まで母親が払えば良いじゃないかと思っている私もいる事を告白する。この親子に関しては、その方が対応として楽だ。
今回も「仕方ない。払う。だから、もう延滞しないようにがんばるのよ」という結論に落ち着いた母親。それを見ているNを、観察する。
安堵の表情。
一応働いているのは事実なのだから、家賃を払えないのも解せない。
が、借金もあるのだろうし、他の何かに使ってもいるのだろう。
壁の片隅はゲームの山だ。
安堵の表情のNを観察する。
数日前に読んだ、紙ペラ一枚の遺書──と呼べるものだとして──を思い出す。
口先だけで、母親に礼を言っているNを観察する。
アンタには死ぬ理由が、無いのか?
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