第26話 誰もが破滅する可能性がある。それだけは平等で、だからこそ救われるのだ。
職に貴賎無しという。疑わしい。
貴賎はないかもしれないが、序列のようなものはある。明白に。
就職、給与、合コン相手等などの人気企業や職業のランキングなんてものが公表されているのだから、序列が無い筈がない。
だが、どんな職業の人間だって、転落する可能性はある。
勿論、AIがどうのとかいう問題では無く、だ。
関西圏のA県。私の担当区域ではないのだが、契約者Cが転居していたので訪問していた。
2016年 A県 B市。2Kのマンション。
転居して3ヶ月も経過していないのでので、室内はとても綺麗だ。
Cと向かい合って私は座っていた。
隣室には、Cを心配そうに横目で覗う中学1年生の娘がいた。
状況。
契約者はC。44歳の女性。小学生と中学生の娘2人。
大阪市D区のマンションを契約している。
マンションといっても家賃5万円台で老朽化が激しい。
夫と娘2人で生活。収入は生活保護だった。
延滞は4ヶ月目に達していた。すでに部屋の契約は解除されている。
ただし、全く誰とも接触できない。
部屋への出入りは、ある。毎日、ある。
一面が錆びて剥げ落ちた金属製のドアに小さなテープを貼っている。訪問するたびに剥がれている。ドアの開閉はあるのだ。
電気、ガスは停止している。だが関西圏のアパートに多いのだが、水道は1棟毎の契約のため、停まってはいないと思う。
電話をかけても留守番電話になるだけだ。
福祉課職員は一切何も回答しない。振込支給か手渡しかの回答かもわからない。
緊急連絡先は知人だが、全く契約者家族とは連絡も取れないという。
集合ポストに通知がたまってもいないので、確かに誰かが生活しているのだ。
この状況で採用できる手段は、実際のところ明渡訴訟の提起くらいだ。
2012年頃までなら、まだ違う方法があった。
ロックアウト──外側から鍵をかけて出入りできないようにする──は違法だが、ある程度、相手次第で行われてもいたと思う(2019年でも平気で行っている会社はあるけど)。
居留守である事を確認の上で、ドアを開けることは、更に公然と行われていた。
警察を呼ぶ呼ばないは客の属性次第だ。
例えば2000年代中盤くらいまでのサラ金なら、客と接触するために、バルブを回して水道を止めるなんて事もしていた。(私はしないけど)
水が使えなくなるため、困惑して客は部屋の外に出てくる。それを待つのだ。
田舎なら町内会長へ頼んでドアをノックさせるなども、当時の同僚は行っていた。
だが2016年では、少なくとも中小が軒並み撤退した消費者金融・信販会社ではそんな方法は使わないだろう。
翻って、中小の家賃保証会社はかなり強行な事をしていた。大手であってもようやく多少、本当に多少、コンプライアンスに気を遣い始めた頃だ。
つまり、消費者金融・信販会社に比較して家賃保証会社は遅れた業界であった。
2019年現在、ようやく黎明期の終わりが訪れた程度といってもいい。
いずれ数社の問題行動が顕在化し、家賃保証業界にとっての『日栄』が吊るし上げられ、断罪される。その後に、業界はたぶん本当に健全化していくのだと思う。
明渡訴訟を検討している時に、住民票を異動している事が判明した。転居日は2か月前。
膠着、停滞した状況が、何の脈絡もなく一気に動き出すのがこの仕事だと思う。
3日後にCから唐突に電話が入った。
Cの言うことは、延滞客特有とでもいうのか──自己弁護と責任回避に終始しており、「じゃあどうするんだ」という結論がない。
そして、状況も複雑そうな感じでもあった。
もし契約した物件の中の家財道具を処分するなら書面も欲しい。
然程会社から離れた場所でもなかったので、電話の翌日面談する事にしたのだ。
Cと向かい合って私は座っていた。
隣室には、Cを心配そうに横目で覗う中学1年生の娘がいた。
状況を整理する。
今、契約した大阪市の物件に住んでいるのはCの夫であるE1人。46歳。
精神を病んでいる。うつ病だという。
Cたちに対する言葉によるDVが激化したため彼女らは逃げ出した。
Eは現在も生活保護を受給している筈なのだが、福祉課の職員は一切回答しないので不明だ。Cが連絡しても、すでに別世帯だからと一切の回答を拒否した。
Eには会えないので、部屋から退去させる事はCにはできないという。どうしようもないという。
Cは現在居住する自治体でも生活保護を受けている。
だから、Eが占有している物件の家賃を払うことはできない。
ふと──住民票を移しているのだから、DV夫であるEが追ってくる事はないのか?と質問した。
絶対に無いという。
電車すら乗れない人間なのだという。
子供ではない、大の男が?
「一体どういう人なんですか? 何の仕事をされていた方なんですか?」
大の大人で電車に一人で乗れないというのは、どういう人間なのだ? 純粋な興味だった。
Cは、ある地域の寺の名前を口にした。
一瞬意味がわからなかった。
Eはある寺の後継者だった。その寺で知り合ったという。
私は名所名刹に詳しい方ではない。
ただそれでも、ブランドといって差し支えない地域だと、素人ですら思う。国宝級の神社仏閣がゴロゴロ存在する地域である──そこの、寺?
Eは寺の後継者として修行していた。Cと結婚し、寺には車で通い働く、というか修行していたそうだ。
が、精神病にかかり挫折した。そして大阪市へ転居。CとEは生活保護を受け生活する事になった。
寺は結局、親戚から後継者を迎え入れて存続しているという。
Eには他に何の就労経験も無い。アルバイトすらした事がないという。
本当に、社会生活に必要な事が何一つできないのだという。
「箱入り息子?」──実例をイメージしにいくいが、そんな言葉が浮かんだ。
その寺が有名なのかどうか私にはわからない。
しかし、檀家を抱え、後継者として育てようとするのだから、まあ食えるレベルのお寺なのだろう。
お寺も経営が大変とは聞くが、それでもベンツを乗り回している僧侶なんてよく見かける。
事情はいろいろ判明したが、では契約している物件に対してのアプローチは手詰まりだ。
CがEを退去させれば万事解決だが、DV(あくまで言葉の暴力で、Eは家族以外には臆病だそうだが)被害にあうため会いには行けないという。それは仕方ない。
明渡訴訟しか、結局ない。
もちろんCも被告となるが、それは仕方ないと彼女も納得している。
大阪市D区。19時。
Eの占有する部屋を見上げる。
暗い部屋。少し肌寒さを覚える季節になっていた。
中央アジアの山奥ならともかく、この日本国内で──電気もガスも使えない部屋に住んで、何の展望を抱けるのか?
僧侶というのが、人気職業かどうかはわからない。
しかし、一般的に貧困からは遠いイメージがあるのではないだろうか?
お寺は貧乏、などという印象は私にはない。
観光客が大挙して訪れる地域のお寺。その後継者。
そんな人間でも精神を病み、職を失い、妻子にDVを行った挙句に逃げられ、ライフラインの停止した部屋に篭る。
訴訟は提起された。
順調に推移する。何度も訪問するが接触できない。明らかに居留守だろうという時もあったが、出ては来なかった。
妻子以外には何もできない臆病な人間というCの評価は正しかったようだ。
まったく接触できず、訴訟は推移する。
明渡催告の日も、強制執行の日も室内にはいなかった。
室内はゴミの山。
強制執行が行われた日。偶然近くにいたので見物に行った。
鼻歌で「第九」を歌いながら作業を眺める。タンタンタンタンタンタンタンタンタンタンタンタンターンタターン……。
事務的に、黙々と、荷物が運び出されていく。
Eがどこに行ったのか知らない。契約者はCなので、あくまでこれから債務の話をするのはCとである。
ただ、Cは生活を再建できると思う。整頓されたCの現在の部屋を先日見て、そう思った。聞けば仕事も決まったという。
自営業というのは大変だと思う。お寺の僧侶がサラリーマンなのか自営業者なのかよくわからないが、お寺のトップやトップ候補であれば自営業者や経営者だろう。
色々な仕事の中でも、お寺の僧侶というのは「カタい」方だと思う。
それがちゃんと線路も引かれて、妻子も得たのに、このザマだ。
世の中誰もが成功できるわけでは、絶対に無い。大抵の人は成功できない。
反面、どんな生まれでも、どんな仕事に就いていても、転落はする。
羽振りの良い会社員、経営者、自営業者、芸能人、スポーツ選手、そして政治家。彼らも、リストラで、会社の倒産で、病気で、投資の失敗で、事故で、転落する。今まで電話越しに話をした。または面と向かって交渉をした。或いは会社のサーバに蓄積された記録の上で何度も知った。
成功者を見上げる事しかできない大抵の、私のような者たち。
我々にとってその転落を目の当たりにする事は、一服の清涼剤なのではないか?
それは疑問ではなく確信だ。
この感情を否定できる程に幸福な人間は、たぶんそんなにいない。
たぶん、そんなに、いない。
軽蔑される考え方もしれない。
それでも、その確信が、大して面白くもない生活に嘆息する時、私を救ってくれる。
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