お仕事始めました

@shinobu_f

第1話 就職活動

 玄関の扉を開けるとすぐに、菊は崩れ落ちるように式台に座り込んだ。一日中外を歩き回って、慣れないパンプスを履いた脚はパンパンだ。菊は玄関に座り込んだまま靴を脱ぎ、そのままストッキングも脱ぎ捨てた。こんな生活をもう、一か月程続けている。

 菊には、幼い頃から夢というものが無かった。やりたいことも、なりたいものも無かった。今の大学に入ったのも母親の勧めがあったからこそで、彼女自身に何か目的があってのことでは無い。そのため何となく学校に通い、良いとも悪いとも言えないごくごく平均的な成績を取りながら菊は大学四年生になった。もちろん大学を出たら就職をしなければいけないということは菊も重々承知だった。しかし夢も目標もない菊には就職に対する興味もなかった。母のことを思えば一般企業に正社員として就職することが一番であることは分かっていたが、生きていけるのであればアルバイトでも何でも良いと考えていた。そのため、就職活動のことは半ば意図的に考えないようにしながら、菊は大学生活を送ってきた。そして、そのツケが今、回ってきている。


 菊は玄関に張り付いてしまった腰をなんとか引きはがし、家の中へ入った。築六十年の平屋であるこの家はそこかしこから隙間風が吹きこみ、床は歩く度にギシギシと音を立てる。玄関を入ってすぐの右手に居間と台所があり、その先には仏壇の飾られた和室が、そして和室の向かいの廊下を隔てた場所に菊の部屋がある。菊の部屋はもともと母の部屋で、ベッドや机などの家具は全て母が子供の頃から使っていたものだ。浴室やトイレは和室を出たところの縁側の突き当りに位置していて、菊が自室からそこへ向かうには和室を通らなくてはならなかった。幼い頃の菊にとって仏壇のあるその部屋はひどく不気味で、夜中にトイレに起きた時は必ず隣の小部屋で眠る母を起こしていた。その度に母は、「ご先祖様のいる場所よ、何にも怖くなんかないでしょ。」と菊を諭した。

「お母さん、ただいま。」菊はそう呼びかけながら和室に入った。今ではもう夜中に和室を通ることは訳もないが、菊が和室に対する恐怖心を失くしたのはつい最近になってのことだった。「ご先祖様のいる場所」という母の言葉の意味が菊にもようやく分かったのだ。菊は扉の開いた仏壇に向かい、線香に火をつけた。

「今日の面接もイマイチだったよ、お母さん、私どうしたらいいと思う?」

 線香の煙がゆっくりと立ち上り、仏壇の真ん中に飾られた写真をぼやけさせた。写真の中の母は静かに微笑み、菊の言葉に応えることは無い。

 

 菊の母が亡くなって、三か月が経とうとしていた。


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