5 絶世を堕とせ
「八葉永人の負けっ!」
笹原の宣言が轟いた。
「よっわ!」
さすがに僕も大声を出した。
「え、いやおい、開始してまだ一分経ってないぞ!」
「でも先輩、これどう見ても八葉先輩の負けですよ」
まあ、確かに。
問題の永人は目を回してぶっ倒れていた。これを女に惚れた状態であるとするかどうかにはいささか、議論の余地がありそうだが……。少なくとも、真剣師の彼女と対面し、ぶっ倒れたという状況は「負け」と表現するしかない。
「歯ごたえないなあ」
扇子で口元を隠しつつ、呆れたように少女が言う。
「惚れたの定義を聞くもんやし、やっぱり色恋に疎かったんかねえ」
「うわーん、ハッチーが死んだ! この人でなし!」
「しかし………………」
これは面倒な展開になったぞ。
八葉永人、今回は何の収穫も得ていない。
勝負が開始された後、あの真剣師の少女と永人の間に起きたのは、大したことではなかった。ほとんど、何も起きていないと言っても過言ではない。
ただ。ほんの少し。
一歩どころか半歩ほど、少女の方から歩み寄って笑いかけただけだ。それだけでぶっ倒れやがった。
この役立たず! ……とはさすがに言えないか。いくら鳥羽理事長に勝った男とはいえ、これはゲームの性質があまりに違い過ぎる。
確か……、永人と㐂島さんが理事長に勝ったゲームはルーレット・サドンデス。カジノの女王と呼ばれるルーレットの変則ルールにして、お互いの選んだ数字ひとつがルーレットで当たるまで繰り返される長期戦の
少し、与える衝撃を捻ってやれば、見せる媚態を誇張してやれば終わる話。そして文字通り
いずれにせよ……永人は真剣師の少女から何も引き出せてはいない。彼女を攻略するのに必要な情報どころか、彼女が使うだろう男を堕とす手練手管の一端すら、僕たちに見せることなく終わった。
まさに無駄死にだ。こんなに益のない死者も、僕の人生では珍しい。
「…………よし」
隣で雪垣が気合を入れ直す。
「大丈夫か? 棄権してもいいんだぞ?」
「うるさい。俺なら大丈夫だ」
その自信はどっから来るんだ。
ステージの上で倒れている永人が㐂島さんの手によって片づけられる。代わりに雪垣が上った。
「待って」
そこで声を上げたのは、意外なことにマスターである。
「伊利亜さん……」
「ルールを追加しましょう」
「ルール?」
笹原が聞き返す。
「ええ。さっきの一戦で分かったわ。お互いの距離が近く、無制限に近づけるならその真剣師の子が一方的に有利になるって。だから一定の距離を取るようにしましょう」
なるほど。あのわずかな攻防の間に、見るところはちゃんと見ていたわけだ。なかなかの慧眼である。
いや、まあ、僕としては距離なんて大した要素じゃないと思っていたから無視していたんだけども。僕には瞳術『不見識』があるから距離は関係ないし、雪垣のやつは距離に関係なく負けると思っていたからアドバイスもしなかった。僕の助言を大人しく聞くとも思えないからな。
「じゃあ、こうしましょう」
距離を取るといっても、適当に測ってはゲームとしての公平性に欠ける。そこでテーブルを間に置くことで距離を適切に保ち、同時に両者が近づくことを物理的にも封じることにする。だが問題なのは、ホール内に動かしてステージの上に置けるテーブルがないことだ。ゲーム用の台はどれも大きく重い。休憩用のテーブルはバーカウンターだから動かせないし。
そこで、ステージのすぐ近くにあったルーレット台が選ばれる。ルーレット台を挟んで両岸にプレイヤーが立つことになる。無論、ルーレット台も動かせないので、プレイヤーが動いて場所を変える必要がある。
舞台はステージからルーレット台へ。見るも地獄語るも地獄の『篭絡にらめくら』第二回戦の開始である。
「それでは行きますよ!」
笹原が宣言する。
「惚れたら負けよ! あっぷっぷ!」
「………………」
「………………!」
宣言の瞬間、雪垣と少女は視線を交錯させる。
第一の攻防。これはさすがに、防いだ。
永人はこの時点でダメージを負っていた。だが、さすがに雪垣は耐えたようだ。まあ、こいつも昔から帳を知っているからな。美人は三日で飽きるとも言う。多少なり耐性はついていてしかるべきだ。
それに、おそらく色恋に関しては純粋度が高いだろう永人と違い、マスターと既にただれた関係のこいつだ。童貞か否かは、防御力に大きく関わる、のだろうか。
いや分かんねえな。そもそもなんだよこの『篭絡にらめくら』。ギャンブルというか、やっていることは芸者のお座敷遊びだ。真面目に定石やら勝ち筋やらを考える方が馬鹿らしくなってくる。
「そういえば、名前を聞いていなかったな」
雪垣が仕掛けた。このゲーム、にらめっことは言っているが、別に言葉を交わすのを禁止はしていない。むしろ何の言葉も交わさず相手を惚れさせる方が無理だ。普通は。
「名前を聞いても?」
そして攻めるのはありだ。攻撃は最大の防御。相手の媚態を防ぐには、こちらから言葉をつくし、相手にその対応をさせるのが一番いい。質問に答えている限り、少女は媚態を使えない。
「うちが惚れたら、教えてもええよ」
これは、しかし鮮やかに躱される。
「でも無理やねえ。うちはあんさんに惚れへん。なあ、雪垣はん」
そして逆に、斬り込んでくる。
「さっき、そっちのかわいこちゃんを恋人や言うたけど、違ごうたな。そっちの色っぽいお姉さんが恋人はんやろ?」
「……………………」
「なんやあんさん、年上趣味っぽいもんなあ。いやいや、『まざこん』いうやつやろ。あんさん見てると、甘えたい盛なのはよう分かるわ」
ねちねちと、痛いところを突いてきた。これは完全に、堕としに行くというより嫌がらせに来たな。まあ言っていることには同意なんだが、この罵詈雑言がどう効くんだ?
「それにしても…………」
ちらりと、真剣師の少女はマスターと扇さんを交互に見る。
「あんさんも罪な男やなあ。女二人に懸想させて、そんで自分は
「何を…………」
「ほんなら、どっちを本当に愛してるか、今ここで言えへんか?」
「………………」
雪垣は、言葉を飲み込んだ。
普通に考えれば、あいつが愛しているのはマスターの方だ。だが真剣師の少女の言い分がよく分からない。二道をかけているということか? さすがにそこまで邪悪だとは思ってもみなかったが……雪垣だしあり得るか。
とはいえここで重要なのはことの真偽ではない。言葉を飲み込んだ、その態度そのものである。おそらく扇さんの前でことを白黒はっきりさせるのを敬遠したのだろうが、これでは彼女の言い分を認めたのと同じように見える。
まるで二股を認めたよう。そしてこの世の中、真実ばかりが重用されるとは限らない。あいにく、僕の人生ではそういうことは少なかったのであまり気にしたことがないのだが、人間、嘘でもまるっと信じてしまうことがある。
「言えんよなあ。言ったら白黒つくさかい。白黒ついたら、どっちにも捨てられるもんなあ。二道かけとる男をわざわざ愛するほど、そっちのお二人さんは愛に飢えるタイプやないだろうし」
どうだろう……。扇さんはもちろん、マスターも僕の直観ではその逆だ。愛に飢えたタイプ。とはいえ、その愛を与えてくれる対象が雪垣である必要性が薄いのも事実だ。なにせ二人とも見目が悪くなく、性格もいいと来ている。わざわざ
じゃあなんで今、あの二人は雪垣を愛しているのかという話だが……間が悪かったんだろう。色恋ってのは案外そんなものだ、うん。
「お前は……」
「それで、本当はどっちのこと愛しとるん?」
雪垣に、喋る隙を与えさせない。完全に会話の主導権は少女の方が握っている。
「…………………………」
「…………………………あはっ」
少女は、邪悪に笑った。
今、追いつめられているのは雪垣の方だ。いや、もう惚れた腫れたの領域ではない。これ以上、彼女を喋らせると雪垣は周囲に対する自分の心証が悪くなる。ええ恰好しいの雪垣としては、それは耐えがたいだろう。
昔、あいつが一度だけ自分の父親について喋ったことを覚えている。「外面のいいクズ」だと。しかし両親が既に他界している僕は気楽にこう思うのだ。血は争えないと。
「……………………分かった」
結局、折れたのは雪垣だった。
「負けだ。俺はお前に惚れた」
勝負、ありだ。
「ふうん。ずいぶんあっさりやねえ」
呆れたように少女は言って、扇子を閉じた。
これは……厄介だな。
戦いの場を離れて、人ごみの中へ消える雪垣を見送りながら、そんなことを思った。あの少女は、単に媚態で相手を篭絡するだけではない。手練手管でもって惚れたと、負けたと言わせる術に長けている。この二戦でそれが分かった。
勝負にならない。
「勝負にならない、ね」
確かにこんなのを見せられれば、こんな本物を見せられれば、違法賭博で稼ぐ行為が馬鹿らしく見えるのも頷ける。いくら自分たちが姑息に稼いでも、不意に現れる本物にすべてをかっさらわれる。野球部の連中はそれこそ哀歌によってそれを教え込まれたわけだが、僕たちは今、目の前の名前も知らない真剣師に叩き込まれている。
本物には勝てないと。
本物には勝てない?
「…………………………望むところだ」
「先輩?」
笹原がこちらを見る。
「先輩っ! もうこれ棄権するしかないですよ! 八葉先輩も紫崎先輩もあんなにあっさり負けて、先輩が勝てる見込あるんですか?」
「さてね、やってみないことには分からないさ」
それに。
「本物に勝てないなんて、道理もないことだし」
その、本物を倒して地位を奪ったから、今の僕がいる。
だから、勝てるかもしれない。
やる価値はある。
「猫目石先輩」
見ると、僕の後ろに扇さんがいる。
「あれ、まだいたのか。雪垣のところに行ったのかと」
「行こうかなと思いましたけど……。先輩の勝負も気になりますから。相談役の
「………………それに?」
「一応、先輩のパートナーって体でこの会場に入りましたからね。笹原ちゃんが司会やってて応援できないなら、義理で応援してあげなくもないですよ」
「………………扇さんさあ」
僕は彼女に向き直る。
「君、意外といいやつだよね」
「なっ…………」
扇さんが顔を赤くした。
「意外とはなんですかっ! わたしは基本的にいいやつですよ!」
「そういうことにしておくよ」
「猫目石先輩に余裕ある態度取られるとムカつきます! やっぱりさっさとぶっ倒れてください!」
「へいへい」
そしてようやく、向かい合う。
今、戦うべき相手に。
「お喋りはもうええの?」
黒い、大きな瞳をこちらに向けながら、真剣師の少女が言う。
「これが今生の別れになるかもしれへんよ?」
「ならないよ。本当に死ぬわけじゃなし」
「死ぬかもしれへんよ」
「死なないな。これでもたくさん人が死ぬところを見てきた僕が言うんだ。今、この場で誰も死にはしない。肉体的にも、精神的にもな」
「そんなら、うちも本気でええよなあ」
「……………………」
ルーレット台を挟んで、向かい合う。
もう既に、勝負は始まっていた。笹原の号令を待つまでもなく。
最初の交錯は、終わっている。
彼女はおそらく、なんらかの媚態を振りまいたのだろう。しかし既に僕は瞳術『不見識』を発動し、彼女を見ながらに観察しない状態になっている。だから彼女が何をしているのか、ぼんやりとは見えているが、理解はできない。
彼女は畳んだ扇子を口元に当てたが、それはそれだけだ。その動作にそれ以上の意味を、今の僕は見いだせない。
「なあ、瓦礫くん。うちから話題を出すのもあれやし、なんかお喋りしいや」
「そうだな…………」
媚態での攻撃をすぐに諦めたのか、言葉での攻撃に切り替わる。僕としては無視してもいいのだが……、それではこっちも相手を攻略できないので、話に乗った。
しかし何を話すか……。僕は雪垣と違って、追い込まれるような弱点も特にないのでその辺の心配はしなくていいんだが……。どうやったら彼女に「惚れた」と言わせられるのか、そのプランははっきりしない。
すこし考え、そして、結局。
僕が話せるのは、それしかないと気づいた。
「じゃあ今、ここにいないやつの話をしよう」
「ふうん?」
「僕の大事な、夜島帳の話だ」
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